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ドクダミママ至言

母業落第の果て:もっと早く知りたかった子育てへの答え

手のかかる心配事の多い子供がいると夫婦関係はどうなるか

 

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辛い時も嬉しい時も、いつも一緒にいてくれてありがとう!(出典:https://www.reddit.com/r/aww/comments/9qi356/our_cats_truly_love_each_other/

今週末はバレンタインということで

今回はそれにちなんで夫婦関係についてお話しさせていただきたいと思う。

 

特に、もし夫婦にものすごく手のかかる子供(特別なニーズがある子供)がいたら夫婦関係はどうなるか、について考察してみたい。

 

手のかかる心配事の多い子供とは

つまり

 

病弱

学習障害

精神障害

身体障害

特別支援組

など、

つまり特別なニーズがある子供のこと。

 

これらの子供を持った親は、子供という共通の関心ごとがあるために

夫婦の絆が強くなるのではないかと一般的に信じられているようだ。

 

でも実際はそうではない。

アメリカでは、このような子供を持つ夫婦の離婚率は高い。

実に75%に届く。

 

それは夫婦の話題が子供の抱えている問題ばかりになり

互いを見つめる時間がないからだ。

二人とも

子供の方だけを見ている。

お互いを見るときはほとんどない。

結果として楽しい会話も消えてゆく。

 

子供に問題がなくとも結婚には摩擦が生じることが多い。でも子供に特別なニーズがあると(それも複数で)より摩擦が増える。そしてすでに他の面でストレスがある夫婦には耐えがたい状況になる可能性が高い。

妻への影響

子供に問題があると、

まず妻の頭から子供のことが離れる時がない。

どうにかしなくちゃと焦っている。

ということは常にストレスを抱えていることになる。

負担はかなり大きい。

精神的だけでなく全ての面で。

 

子供の世話は毎日で決して消えることはない。

健常児でも大変だ。

ということは特別支援組はより大変ということ。

そのストレスたるや普通の子供を持った親には想像ができないほどだ。

妻は子育てからくるストレスがだんだん溜まっていき、夫に優しい言葉などかけることができない。

 

夫への影響

夫は夫で仕事で疲れていて、

うまく回っていない家庭にストレスを感じている妻を日々支えるほどの忍耐も気力も持ち合わせていない。

家に帰ってきて、妻に優しくして欲しくても不機嫌な妻の顔だけが彼を待っている。

子供のことで頭がいっぱいなんだから夫に優しい言葉などかけれない。

他の人のことなんて考えられない。

妻は夫に心の負担を軽くしてほしいと望んでいるのだ。

 

それにたとえ気がついても、
夫はストレス一杯の妻をどうやって支えていいかわからない。 

それが夫のストレスになる。

 

仕事でもストレス。

家でもストレス。

彼はすでに結婚関係にヒビが入りそれを修復することが不可能と感じ始めている。

 

互いのことを考える余裕などない

本当はこんな時こそ互いを慰め合ってサポートし合わないといけないのに。

互いのことなど考えている時間がない。

子供の面倒を見ないといけないのだから。

伴侶に気遣う余裕などないのだ。

すると心ない言葉をかけたりするようになる。

これに耐えられなくなり離婚になるのだ。

ストレスは人間関係を壊す。

夫婦関係もぶち壊す。

 

結婚の誓いはどうなったの?

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神の前で互いに誓うカップル。(出典:https://www.weddingdates.co.uk/blog/wedding-photography-in-the-church/

皆さんは教会結婚式の誓いをご存知だろうか。

そこにはこうある。

 

新郎〇〇、(新婦〇〇)、あなたは〇〇を妻(夫)とし、

健やかなる時も、病める時も、

喜びの時も、悲しみの時も、

富める時も、貧しい時も、

妻(夫)を

愛し、

敬い、

慰め合い、

共に助け合い、

その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?

 

これをもっと簡単に子供がいる家庭に合わせて言い換えるなら、

こんな感じかも。

 

子供が健康でも病気でも、

子供を通して喜びがある時も悲しみに暮れる時も

経済的に豊かな時も貧しく大変で子供を十分に面倒見れない時も

伴侶を(子供をも)愛して

乱暴で失礼な言葉をかけたりせずに

(夫婦で)互いに慰めあい、助け合い、

生きている限りは子供と伴侶に心の底から仕え

相手の幸せをまず第一に考えると約束できますか?

 

ひえ〜〜〜〜!

こんなのできる人っているんですか!!!!😰

 

できっこないのに、

じゃあ

なぜこんな誓いをさせるのだろうか?

それは結婚は晴ればかりの楽しい旅行とは違うと既に人類の長い歴史が証明しているからだ。それでもどんな大変なことがあっても逃げないで一生連れ添いますと’神の前で’約束をするのが結婚式。(神前での真剣な誓いだよ!!!怖いことだ・・・。😰)

つまり「おいおい、浮かれている場合じゃないよ!」と警告を出していることになる。

結婚式とは披露宴とは異なる。結婚式は宗教的な儀式で披露宴はただのお祭り騒ぎ。教会の美しい儀式の裏にはこんな厳粛な約束事が含まれている。だからうっとりと酔いしれている場合ではないのだ。

でも、結婚するカップルにはその誓いの時にこれから起きることは想像にも及ばない。

だからいとも簡単に誓うことができるのだ。

その後試練が忍び寄り、結婚式の誓いなど忘れてしまうのが普通。

そうそう、自分に都合の悪いことはとっとと忘れたほうがいい。

 

結婚や家庭は船のようなもの

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(出典:https://penobscotmarinemuseum.org/PMM-Reader/ship-in-heavy-storm/

子育ては現実で、

手のかかる子供がいる家庭は毎日が大嵐の海を航海するようなものだ。

問題に飲まれ込みそうになりながらかろうじて浮いている船。
それがあなたの家庭。

右に押しやられ、左に押しやられ、

もうダメかと思う時も多々あり。

恐怖におののく妻子を守り家庭という名の船の舵を握るのは夫の役目。

 

夫まで真っ青な顔をして右往左往していたらこの船は沈没するだろう。

 

シングルマザーの家庭はこの片親が舵を握らないといけない。

ということは子供は自分で自分を守らないといけない。

 

乗船しているのはこの家族だけ。

こんな時互いを思いやることなどできるのだろうか?

人が局地に追いやられるとその人の最も悪い部分があらわになることが多いものだ。

それは自分の不安定な精神状態を落ち着かせるためにはなんでもしようとするからである。

それには自分の苦しみを伴侶(や子供)のせいにするというのもある。

それは、「助けて!」という心の叫びでもある。

 

でもほとんどの場合は、その叫びは相手に対するただの怒りとしか映らない。

夫婦二人ともが緊迫した関係で毎日一緒にはいられない。

互いに思いやりの言葉をかけることなど無理。

そして愛情などとっくの昔に消えてしまったかの様になる。

 

これが長引くとこの船は沈没する。

つまり離婚。

 

もしこの試練を乗り越えられれば強固なチームになることも可能だ。

しかし7割がそうならずに逃げを考える。

それなら

どうしたらこれを避けることができるのだろうか?

 

本当は同じ方向を見つめるべき

心配事のある子供がいると伴侶を見なくなる(考えなくなる)。

最初に供述した’相手をよくよく見つめる’というのは実は結婚する前の話。

結婚するとだんだんこれが少なくなってくるのが普通。

 

だからお互いに対する気持ちが「冷めてしまい」「惰性」で結婚生活を続けることが多い。

これはよくあることで、結婚前のラブラブを期待する方がおかしい。

結婚とは恋愛とは本質が異なるからそれでもいいのだ。

それでも結婚を持続させることはできる。

でもあるものがないと持続は難しい。

 

それはこれ。

実は、結婚したら互いを見つめ合うのではなく

互いに同じ方向を見ないといけない。

 

その同じ方向とはなんなのだろうか。

それは同じ目標でもある。

どこに向かって進んでいるかは同じでないといけない。

 

でも子供の問題を解決するという目標はだめ。

子供抜きの共通の目標がないといけないのだ。

なぜなら子供の目標だと、それが果たされなかった時は互いのせいにすることもあり関係を壊す原因になりやすいからだ。

そのため子育て以外の目標がないと結婚は壊れやすい。

さらに向かっている方向が曖昧だと嵐の中で遭難しやすい。

 

ではその同じ目標と方向とはなんだろうか。

それは、

  1. どんなことがあっても一緒にいるという決断が同じ。
  2. 結婚の目標が同じ。
  3. 最終的にはどんな夫婦になりたいかという意見が同じ。
  4. 人生に対する根本的な姿勢が同じ。

これらが同じ方向を向いているなら、船はたとえ溺れそうになっても持ち堪える可能性が高い。

特別なニーズのある子供を育ていている夫婦にも同じ目標と同じ方向性があれば離婚を避けることができる。

 

我が家の子供たち

我が家の子供たちは全員この類、つまり特別なニーズを抱えていた。全員の子供に必ず一つや二つの健康問題があった。生まれつきの身体障害も持ち合わせている子供もいた。その上に、学習障害もあったりした。ギフテッドの子供もおり、学校の勉強方法に合わせられない子供もいた。学校生活に合わせられないほど病弱な子供もいた。これが1人ならまだマシだった。でも4人もいると話は違う。

どの子もものすごく手がかかり、毎日が真剣勝負そのものだった。子供たちを可愛いと思ったけれど、うんざりと思うこともかなりあった。この自分の能力以上の重たい責任を果たすにあたって助けはなく、たった一人でそれも外国で戦っていた。今までに航海したことのない真っ暗な海原で何をすれば良いのかわからず不安を堪えながらの旅だった。

母は強くないといけない。でも自分はそこまで強くなんかない。負担という重たい石で押しつぶされ動けない虫けらのように潰されてゆく自分を日々感じていた。😭

この恐ろしい遺伝子を受け継いだ我が子をずっと面倒見ないといけない自分の人生を呪うこともあった。そしてこの夫と結婚をしてしまった自分の浅はかさに呆れると同時にそんな決断をしてしまった自分を嫌いになっていった。

(自分だって大した遺伝子ではないのにね〜😅)

私は自分の子供のことで悩みに悩み、とても苦しかったので、口には出しては言わなかったものの、内心夫のせいにしていた。そして結婚を後悔した。別に夫に罪はない。ただその遺伝子がちょっと・・・・。

夫は一生懸命努力して子供たちに対応してくれた。少しでも妻の負担が軽くなるようにと。アドバイスももらった。けれども彼の精一杯の努力を大してありがたいと思っていない恩知らずな自分もそこにいた。それは解決策につながらなかったからである。頼りになるはずの夫も頼りにならずイライラはずっと続いた。子供たちが幼い時はインターネットもなかった時代だ。だから情報も限られていた。出口のない牢獄に閉じ込められ病気と学習障害と奮闘する日々。境遇と我が子を感謝できない自分に罪悪感を感じ自尊心は粉々に砕かれていった。

 

逃げてしまいたかった。当然子供を夫に全員押し付けて。そんなことをする母親がいるのだろうか、と言われるかもしれない。でも、どんなに我が子を愛していても、溺れかかった船にこれ以上乗続ける勇気も希望も消えかかっていた。どんなに大変でも、小さな救命ボートに乗り移るしか逃げ道はないかのように見えた。一緒にいれば全員が遭難する。一人でもいなくなれば船は軽くなり遭難は避けることができるかもしれない。

乗り移った小さな救命ボートでは大海原の波に太刀打ちができない可能性が高い。それでも、今自分ができることは「逃げる」ことしかないように見えた。

逃げて今よりひどい結果になるとは思えなかった。よくなるかもしれない。それに賭けてみたい気持ちもあった。でも保証はなかった。ただもうこの船から降ろしてもらいたかった。

もう降りてもいいですか、神様?と言いたかった。

 

結局、そこにとどまった。まず自分には根本的に逃げる勇気などなく、遭難しそうになるたびに、自分の運命を受け入れ努力を続けるしか道は残されていないと思ったからだ。それにいつか嵐はおさまりどうにかなると信じていた部分があったからだ。

ただひたすらその日が来ることを待っていた。

そして今やっと嵐はどうにかしずまったかのように見える。

つまり子供たちが次々と下船したからだ。

 

そうしたら、わたしと夫の関係は一気に改善していった。

ということは、わたしたちの結婚はもし子供たちがいなかったらもっとスムーズで楽であったということだ。子供がいなかったら、ずーと仲良しでいられただろう。

悲しいことにすでに成人した子供たちはそれを知っていることだ。

自分たちが親の関係を複雑にしたということを。

 

我が家の成人した子供たちは皆家を出て、それなりに(あくまでもただそれなりのレベル)自立している。これで全員、四年生大学を卒業したことになる。二人は結婚している(でも危なっかしい・・)。

こういうのを’一応’成功と呼ぶ人もいる。

 

でも私たちは子育てに成功したように感じてはいない。(完全に失敗だと自認している)

一つは子供たちが親の願うような理想から180度反対の方向に行ってしまったから。

二つ目は、この先彼らの人生が向上する兆しがあまり見えないから。

そして最後にこれ。これが一番大きい。

 

三男以外は家に連絡を入れる子供がいない。要するにあまり関係が良くない。特に上の二人と。そしてこの上の二人に最も手がかかった。

とても手がかかったということは、親の介入が多かったたということ。

そのためか、怒涛の反抗期に入ったまま一向に出てこない。

こういうのは親子の密着が強いという証拠らしい。

また彼らにとって親はうっとうしい存在で邪魔ものと見られている証拠。

世は過干渉の母をなじる傾向が強い。でももし不健康で学習障害などを抱える子供を持ったら親は過干渉になるのが普通なのだ。だから、お願いだから、そんなわたしたちを「悪い親」などと呼ばないで欲しい。

でもやはり、そういう親だからこういう子供ができるわけ、というのは当たっている。

 

ちまたでは頻繁にラインで繋がる(アメリカではテキストを送るという)家族が多いらしいが我が家に限ってはそれはない。送っても返事はない。あちらからも緊急でない限りは何も来ない。誕生日もクリスマスも何もないのが普通。

連絡が来ないのは良い知らせという考え方もある。でもやはり寂しいものだ。

この現実は、身を粉にして子育てをしてきたわたしたち夫婦にとってはとても悲しい。夫は夢があった。でも子供たちにあまりにも手がかかるので、妻をサポートするために自分の夢を諦めたのだ。今思うとそんなことは無意味だった。自分の人生を生きた方がよかった。わたしも、個人的な夢は捨てて子供たちのために生きた。いや、子供たちを通して自分の人生を生きた、と言った方が正解かもしれない。

彼らは親は自分たちの踏み台的存在だと思っているのだろう。

(踏み台でも全然いい。高く跳んでくれるなら・・・😢)

あまり感謝もしてないようだし、

いろいろやってもらって当たり前だと思っているように見受けられる。

多分無視されているに違いない。

だからこんなにやってあげたのに・・という思いは脱ぎ切ることが難しい。

実際、

ニーズの高い子供たちを案じ必死になって子育てをした年月の重みは筆舌には尽くせないものがある。30年という年月はキャリアになる年月なのだ。でも子育てはプロ級にならなかった(絶対になれない!)のでキャリアとは言わない。

 

今、夫と一緒に互いを慰め合う日々だ。

子育てはものすご〜〜〜〜〜く大変で、夫婦関係に多大な影響もあった。

 

それでも残りの25%には入ることはできた。

それはわたしたちの方向性が同じであったから救われたのかもしれない。

 

確かに子育ては大変だったけれど、楽しいこともあった。

ただそれを思い出すことはあまりない。

真剣勝負すぎたせいであると思う。

やっぱり

子育ては真面目にやらない方がいい。

なんでも真剣に対応しないことや、

どうにもならないことの中に笑えるようなことを見つけることは気分的に違う。

 

そういう風に生きたかった。

でも・・・

できなかった。

 

わかっている。

子供は親を捨てて出ていくのが当たり前。

結局残されるのは夫婦のみ。

だから一番大切な存在。

ベターハーフとは、自分の半身。伴侶は自分の半身で、足りない自分を補ってくれる存在。

ずっとそばにいてくれてありがとうと今となっては言える。

 

ドクダミママ至言

手がかかる子供がいると夫婦関係が壊れやすい。

でもそれは、二人がどこを見ているかにかかっている。

伴侶がたとえ十分でなくともそれなりに子育てに参加してくれていることを認め感謝する。

子供の問題を伴侶の遺伝子のせいにはしない。

どんなに焦っても子供の問題は一夜で解決はしない。だから解決しようなどとは思わないこと。

治らないものは治らず、治るべき時がくれば治り、その自然の法則に身を任せた方が楽な時も多い。

自分の力で全部どうにかしようと思わないこと。

なんでも真剣勝負で頑張らないこと。

sense of humor(冗談を言うこと)が切り抜ける鍵。

 

問題がなければ、ストレスもないし、家庭生活は快適であろう。

でもそういう人生はないと思った方がいい。

鍵は、嵐の状態の中でいかにして精神を落ち着けて生きていくかにかかっている。

恐怖そのものが船を沈没させるからである。

そんな時

船を降りるかどうかは自分次第。

降りるのも人生。

降りないのも人生。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

苦手な子供には’あだ名作戦’がある!

以前お話ししたように、新年の抱負は卒親で、

特定の子供をあだ名で呼ぶ、

というのがあった。

 

わたしは’元’次男坊のことを新年からあだ名で呼んでいる。

自分でもすごい名案だと自負している。😁

そしてその名は・・・

 

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かあちゃんに勝る怖いものなし!・・・このくらい強くなりたい・・💦

(出典:https://twitter.com/hiikonoshima/status/990089811145801729

ジャイアン!!!

 

そう!

どらえもんの、あのジャイアン。

ギャフギャフ!🤣

 

なぜこのあだ名なのか?

体型といい、

喋り方といい、

横柄な態度といい、

悪いけど😅

そっくりだから🤣

 

違うところはいくらジャイアンでも、

母親を怖がっていて結構従っているところ。

 

うちの’元’次男坊も母親を恐れているところも多少あるようだ。

でも従うことはまずもってあり得ない。

提案にも一切耳を傾けない。

 

うちのジャイアンは自分の人生に対して親に一切口出しをして欲しくない。

その一線を越えようとすると彼は一気に活火山と化し、真っ赤でドロドロのマグマをこちらに向かってガンガンに飛ばしてくる。

あたかも向こうに行けとばかりに。

 

彼の人生に対して当然関心は大いにあるが、それと同時に平和に生きたいわたしは、

こんな時は唾を呑み込むしか術がない。

でも親というのは子供が何歳になってもどうしても口出しがしたくなる。

 まあ、自分の子供だから仕方がない。

 

ただの知り合いになってもらうためにあだ名がある

でももしただの知り合いなら、

感情抜きで対応できるので

口出しも避けることができるかもと思った。

 

だから今後は

我が子ではなく’知り合い’扱い。

そう決めたのだ。

 

とは言ってもそう簡単にはいかない。

だからまずは、名前を変えさせていただくことにした。

 

我が子の名前は親が愛情を込めて一生懸命命名した特別な名前。

でもあだ名は違う。

だから親も感情的なアタッチメントがない。

 

さらに、淡々とあだ名で呼ぶことは親子間に一線を引くことになる。

自分と彼の間に一線を引く。

いや、

一線どころではなく一万線くらい引いた方がいいかもしれない。

 

その線引きを上手に苦しまないで達成するために、この’あだ名’作戦があるのだ。

 

独立宣言

子供たちは気がついていないようだけど😅

実は

わたしの名前は’母’ではない!!

うちのジャイアンが4歳の時、保育園の先生の前で母親の名前を聞かれて「ママ」と答えていた。思わず苦笑したが、わたしの存在とは彼にとってはそういうものなのだと納得させられた瞬間だった。ちなみに父親の名前はちゃんと知っていた!💢

これは、母親にはアイデンテなどないということを子供たちが理解しているいい例である。

 

でも彼らは自分のアイデンテは強固に押してくる。

それはしんどいけれど、認めてあげてもいい。

 

でももし

ジャイアンが自分を独立した個人として認めて欲しいなら

こちらにも言い分はある。

わたしは、あなたとは異なる独立した個人であって母という肩書から退職させていただきたい。

’母’は精神的に我が子に依存しやすい。

つまり、子供の出来栄えは自分を反映するもので、自分への評価と捉えていることがそれに当たる。

それは自分の幸せのためには絶対にやめないといけない。💢

 

このジャイアンに関しては

卒母だけではない。

母業完全退職希望。

これからはママと呼ばないで欲しい。

名前で呼んで欲しい。

「〇〇さん」と。

 

最もそんなことを彼に言えば更に逆上するだろう。

あんなにひどい態度でも、親に受け入れてもらい愛されたいと思っているのだから。

(驚き・・・・)

 

けれどもガタイの大きな大人の男性を可愛いなどとはどんなに頑張っても

とても思えなくなってしまった自分がここにいる。

だからやっぱり無理。

わたしは噛み付いてくるオスのライオンには近づきたくないのだ。

(でも噛み付いてくるということは、母親を恐れているからなのかもしれない。自分を守ろうとしているのかもしれない。)

 

彼を愛していないとは言わない。

けれども心にかけるのはもうやめたい。

そのためには’あだ名よび’させてもらって(本人には秘密😅)

私たちの間にたくさんの線を引かせてもらうつもりなのだ。

 

彼がどんな人生を生きようとも

それは彼の選びであり、わたしには関係のないこと

(と毎日呪文のように自分に言い聞かせている😅😅😅)

なぜならわたしにとって彼はもはやただの漫画の登場人物でしかないから。

 

個人主義輸入の問題

昔の子供は母を泣かせることはしないように努力したと聞いている。

でも20世紀からそれが変わったようだ。

 

個人主義。

西洋からの輸入品。

日本の文化には異物。

それを日本に持ち込むと文化に合わないからうまくいかない。

だって親は日本人なのだから。

様々な新しい情報に振り回されて苦しむ母親たち。

自分の権利を主張する子供たち。

空まわり。

 

西洋に住む日本人の親も我が子の実態(自己主張が強く個人主義!)に手を焼く。

親は日本人でも子供は違う。

だから

どうしていいかわからない。

 

そっちがそうならこっちはこう

こんなふうに

子供が個人主義を貫くなら、こちらも個人主義でいくことにしよう。

 

ジャイアン。

君の人生は君のもの。

でも、わたしの人生もわたしのもの。

自分のものなのに、

自分の人生を大切にしなかった。

自分を失うくらい君に犠牲を払った自分の人生は一体なんだったのか。

と毎日そんな思いで一杯だ。

 

彼はわたしを通してこの世に産まれた。

でも基本的にはわたしから来たわけではない。

実はわたしには属していない別の人間なのだ。

別の魂を持つ人間。

わたしの仕事は終わったのだ。

 

親の仕事とはつまり

産んであげて

育ててあげて

いろいろ教えてあげて

自立させて

それでおしまい。

 

よく言われる

「親になったら一生親」は耐えるにきつすぎる。😭

 

しかし、この’ジャイアン’と口にするたびに、思わずクスッと笑ってしまう。🤣

どう考えても気難しい人ではなく’おかしい’人というイメージ。

最高にいい案だと思う。

 

ドクダミママ至言

苦手な子供にはあだ名をつけよう。

二人を繋ぐ目に見えないへその緒はなかなか切ることができない。

でもあだ名で呼べば、ちょっと心が軽くなるかもしれない。

’〜ちゃん’なんて決して呼んではいけない。

それは愛情表現の一つだからだ。

大人になりかけている子供とすでに成人してしまった子供との間には一線を引かないと、親は苦しみから逃れることはできない。

別に子供は悪気があって”母の苦手な子供役”をやっているのではないのはわかる。

でも、母にとっては拷問。

だから子供の知らないところでそれなりの戦略を考えないといけない。

’あだ名作戦’もその一つ。

 

 

 

 

 

 

我が子にどんな言葉で話しかけてますか?

水の結晶の実験

江本勝工学博士の実験についてご紹介したい。

 

水を二つのペトリデイッシュに入れて、様子を見ることにした。

一つには「バカやろう」などの乱暴で冷たい言葉かけを毎日繰り返した。

もう一つには毎日「綺麗だね。素敵だね」や「ありがとう」などの言葉かけをしてあげていた。

そして一ヶ月後。顕微鏡で水の結晶を見てみることにした。

最初の結晶は、傷つけられたような模様に変わり結晶であることさえも認識できないような姿に変わっていた。

でも二番目の結晶は、以前にも増して美しく変化していた。

つまり

江本博士による実験によると、

人の意識や言葉は原子変革をおこすという結論が出た。https://tocana.jp/2018/06/post_17068_entry.html

これにより、言葉には魂がある、つまり言霊の原理は真実であると証明されたことになる。

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(出典:https://camp-fire.jp/projects/view/137558

植物の実験

毎日うるさいヘビーメタルの曲をその植物に向かってかけていた。

するとその植物は萎えてしまった。

そして死んでしまったのだ。

その反対に、静かで美しい音楽を近くでかけられた植物はぐんぐんと成長が早まり葉の細胞も艶々とし緑に輝き、生き生きと生育していったそうだ。

 

屋内外の大規模な音楽のコンサートに出席された方なら経験があると思う。

その音量の凄さから、自分の心臓がバクバク鳴ってきたり、体に電流が流されているように感じた人も多くいるのではないだろうか。

それもそのはず音というのは実在するエネルギーで物理的な影響を環境に及ぼすのだ。

だから人の発する言葉の音量も物理的な影響を及ぼす。

 

そして植物の影響で忘れてはならないことは、

植物の構成要素の70%が水であること。

ちなみに

地球の構成要素の70%が水。

動物や菌の構成要素の70%も水。

成人した人の構成要素の70%も水。

 

でももっと怖い事実は、

 

子供の体の構成要素の80%前後が水ということ。

 

子供たちの細胞の中では

どんな結晶を作っているのだろうか?

 

親の子供への言葉かけの影響

このことからわかるように、

どれほどの音量でどんな言葉を発しているかが周りに大きな影響を及ぼすのだ。

そして何よりも誰よりも一番影響を受けているのが、わたしたちの子供たち。

 

もし言葉かけが小さな水の結晶にこれほどまでの影響を及ぼすならわたしたちの子供達にはどんな影響があるのだろうか。

もし音量や音のタイプが植物にこれほどまでの影響を及ぼすならわたしたちの子供たちにはどんな影響があるのだろうか。

 

親が日々かける言葉で、

「お前は本当に何をやってもダメだな」

「もっと早くできないのか?」

「なんだこのざまは?」

「だらしないわね。」

「馬鹿だな」

「醜いな」

「本当に何も続かないなあ」

「どうしようもなく怠け者だね」

など、こんな言葉を常に聞かせられた子供はどうなってしまうのだろうか。

哀れな水の結晶や植物のように細胞は傷つけられ、心はすさんでしまうに違いない。

そしてもう何もする気が起きないに違いない。

生きる気力さえ失せてしまうかもしれない。

 

その反対に、

あの美しい水の結晶のように、

毎日

「よくできたわね」

「えらいね」

「がんばったね」

「素敵ね」

などの言葉かけをしてもらった子供は、

以前にもましてキラキラと輝き真っ直ぐに成長していくに違いない。

 

だから親がどんな言葉でどんな音量で話しているかが大きく関わってくるのではないだろうか。

 

自分を見失って大声をあげないように。

冷たい言葉をかけないように。

と気をつけたいものだ。

 

とは言っても親は自分の親と同じように子育てをするきらいがある。

体で学んだことをいきなり止めることは難しい。

それでも、

もし、このことを心にかけ、

親側が少しでも努力を続けることには大きな意味があるように思う。

それに親も努力をしていることを子供に見せることにも意味がある。

 

誰も完全な親にはなれないけれど、

この事実を心にとめ、広い心で、もっと優しい言葉をかけてあげられたら、と思う。

また、その大声で乱暴な言葉遣いは子供だけでなく親自身にも影響があるということも忘れてはならない。

激しい言葉や音は親子両者の細胞を傷つけているのだ。

そしてその細胞の70から80%は水。

 

子供にどんな結晶になってほしい?

醜く欠けた結晶?

それともこの世に二つとない美しい結晶?

 

(ちなみに、モラハラ伴侶の投げかける言葉も相手の体の中の水の結晶をズタズタに破壊していることになる・・・。)

 

音量を落とすことが最初

まず、親自身がその自分の発している言葉の音量からますます感情が荒れる傾向が高い。

だから、まず最初にすべきことは

ヘビーメタル厳禁

つまり声の音量を落とすこと。

これだけでかなり違う。

ここで自制できればその後も喧嘩などに発展はしない。

 

これがかなり上手に自然にできるようになったら

 

次は言葉の種類を変える

音量を落とすだけで、

次は優しい言葉をかけることができやすくなる。

 

我が子の心は水の結晶のように美しく繊細。

そして植物のように萎えてしまうくらい傷つきやすい。

子供は強いという言葉も聞いたことはある。

でもそれは立ち直りができるということで

傷つきづらいということではないのだ。

それを覚えておくべきかもしれない。

 

親は子供を変えようとするけれど、それはなかなか変えることが難しい。

だから一番最初に変わらないといけないのは親。

その親の発する言葉ではないだろうか。

 

今からでも遅くはない。

最初はボリュームを落とし次は優しい言葉かけ。

 

優しい言葉かけができるようになると、

親の表情が変わる。

子供に見せる表情もどんな結晶になるか関係している。

 

今からでも遅くはない。

 

最後にこの動画をご鑑賞ください。

江本博士が立ち上げられたエモト・ピース・プロジェクトのテーマソング付きです。

感動して泣けてきました😭号泣

 

https://www.youtube.com/watch?v=h33CSZG5GEY

 

ドクダミママ至言

親の言葉の音量やその言葉遣いはとても重要。

まずはボリュームを落とし

次は優しい言葉かけ。

すると表情も自然と変わる。

 

これは子供だけでなく

自分自身にもそうしてあげたほうがいい。

 

子供にも「えらいね」

自分にも「がんばったね」

とそんな優しい言葉かけをしてあげると

互いが変われる。 

 

 

 

 

 

 

親の本当の役割とは何か?

今回は以前にお話ししたツバリ博士の書かれた他の本からの抜粋をご紹介したいと思います。

https://hahagyo-rakudai.hatenablog.com/entry/2020/10/05/094727

https://hahagyo-rakudai.hatenablog.com/entry/2020/10/12/063912

https://hahagyo-rakudai.hatenablog.com/entry/2020/10/17/013902

 

この本は「しつけ」をテーマに書かれていますが、わたしの心を激しく揺さぶりました。

いつもながら、もっと早く彼女の本に出会えていたら良かったと思うばかりです。

 

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英文

My child isn't my easel to paint on nor my diamond to polish.

My child isn't my trophy to share with the world, nor my badge of honor.

My child isn't an idea, an expectatin, or fantasy.

Nor my refection or legacy.

My child isn't my puppet or a project.

Nor my striving or desire.

 

My child is her to fumble, stumble, try, and cry.

Learn and mess up.

Fail and try again.

 

Listen to the beat of a drum faint to our adult ears.

And dance to a song that revels in freedom.

 

My task is to step aside.

Stay in infinite possibility.

Heal my wounds. 

Fill my bucket.

And let my child fly 

 

-Shefali Tsabary, PhD 

Out of Control: Why Disciplining Your Child Doesn't Work....and What Will.

 

 

邦訳

我が子は親が絵を描くためのイーゼルではないし

ピカピカにするためのダイヤモンドでもない。

我が子は世界中に見せびらかすための親のトロフィーではないし、

名誉を表すバッジでもない。

我が子は理念でもないし、期待でもないし、空想でもない。

我が子は親の鏡でもなく先祖や家族の遺産でもない。

我が子は親のあやつり人形でもないし研究課題でもない。

親の努力の対象でもないし望みでもない。

 

自分自身で手探りしながら、転び、また試みて、泣くことが我が子の仕事。

学び、めちゃくちゃにすることが仕事。

失敗して、そしてまた頑張ってみるのが仕事。

 

我が子は自分の好きなように自分の太鼓を叩く。

でもその音は親の耳にはほとんど聞こえていない。

そして我が子は自由で満ちた喜びの歌に合わせて踊る。

 

親の役割は、

脇に退き

子供の無限の可能性に懸けること。

そして我が心の傷を癒し、

自分の空っぽのバケツを満たすこと。

そして我が子を飛ばさせてあげること。

 

ーシェファリ・ツバリ博士。

「コントロール不可能:なぜしつけがうまくいかないか。それなら何がうまくいくのか?」

(でもまだ翻訳されていないようです。😢)

 

ドクダミママ至言

ずうっと長い間、我が子のために犠牲を払ってきた親が今しないといけないことは、

 

自分の心の傷を癒し

空っぽのバケツを満たし、

我が子を飛ばさせてあげること。

 

それが親の本当の役割であるのだ。

親は親の人生を生き、

子供には子供の人生を生きることを許す。

 

それはわかっているけど

辛いことだ。😢

なぜなら

子育てを長く続けていくと、そこに待っているものは

空っぽのバケツだけ。

それは母の心。

 

現実を受け入れるしかできることは残っていないのだ。

今まで頑張った自分を褒めてあげよう。

それと同時に我が子を飛ばさせてあげよう。

そして空っぽになった自分のバケツを少しずつ満たしてあげよう。

 

 

 

 

母を泣かせる息子の怖い決断

 

 

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(出典https://www.wordzz.com/mom-why-are-you-crying/

今年の新年の抱負は物理的だけでなく精神的に卒親することだった。

 

ところが!

昨日三男から恐ろしいことを聞き卒親などこの分でいくと当分無理!とわかった。😰

 

三男は大学の履修科目は全部終わった。だから仕事を探している。

このコロナの世の中で。

探しているのは息子だけではない。

卒業生は皆探している。

今のところ130社に申し込んだらしい。

そのうち2社から面接したいと連絡が来た。

でも結局、経験不足で不合格。

(あのね〜!誰かが雇ってくれなければ経験なんて誰も積めないジャン!でもアメリカという国はいつもこれ!即戦力のある人が常に勝つ。それはトレーニングをしたくないから)。

 

なんとなく予想がついていたけれど、やぱりガッカリ。

(経験不足は履歴書を見れば分かるのに面接をする理由は、アメリカの常識。

つまり、面接数がある程度揃わないと雇用決断ができないというルールが各社であるから。)

 

なぜ息子に仕事が見つからないか。

それはインターンシップの経験がないから。

プラス、コロナ現況と景気低迷。

 

でも仕事の経験はある。

ただ期間が短いか会社で本格的にやったものではない。

息子の大学の成績はわりと良い。

様々な人生経験もある。

経済学クラブの長もやっていた。

大学内でデータ分析の仕事も現在している。

履歴書を見る限りはとてもいい。

 

何が足りないかというとやっぱりインターンシップ。

アメリカではこれがないと就職はほぼ不可能。

それを前々から言っておいた。

たとえ全くお金が貰えなくとも、やりなさい、と

賢い学生は皆するものだ。

 

ところが息子は学生結婚もし、

仕事など全く見つかりそうもない辺鄙な地域にある妻の実家にずっと住むことにし(義理の親と妻の希望なので)、倉庫での肉体労働の仕事だけしか見つからなかった。他の場所に行ってでもインターンシップをやりなさい、と忠告もした。それなのにいうことは聞かない。妻から離れたくないから。(正確には妻が彼に遠くに行って欲しくないから・・つまり夫を他の女性にとられるかもしれないからとか。💦)

 

彼の答えは

いつも

It's all right.

何が平気なわけ?

どういう意味?

  

馬鹿な息子。

どうもやりそうもないので、卒業の前の学期にとるべきクラスはないのでその時にインターンシップをするようにと伝えておいた。それなのに2年前にそんなことを言われたことさえ忘れているようだ。

その上、予期せぬことが起きた。

コロナ。

だからたかがインターンシップでも競争は激化してしまった。

 

それで息子は仕事が見つからないので、他の戦略を考えることにしたらしい。

 

それは

軍隊に入ること!

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軍人の息子の前で泣く母。

(出典:https://www.dailymail.co.uk/news/article-3516085/Mother-breaks-tears-soldier-son-returns-home-early-Afghanistan-surprises-help-local-fire-department.html

軍隊は、ガタイだけ立派であとはどうにもならない次男に勧めている。

でも三男はやらない方がいい。

それなのに、子供の時からの夢!とか甘いことを言っている彼が信じられない。

(誰でも子供の時に夢くらいあります。でも実現するかというとそれは別の話。😅)

 

息子がなぜ軍隊に行かない方がいいかというのは下記の理由による。

 

1。不思議の国のアリス症候群。

2。日本に住んでいた時に交通事故に遭い、脳震盪(脳外傷)を起こし意識不明となり救急車で担ぎ込まれた経験があること。

3。背骨の先天的な問題。(Spinal Bifida Occulata:潜在性二分脊椎)

4。聴力の問題。

5。 Asitigmatism(乱視)

 

1。これは1年前ほどにわかったこと。ストレスがかかると一時的に物や人が実際の大きさより大きく見えたり小さく見えたりし、その後意識を失うらしい。例えば大声で怒鳴られたりすると、すぐにこの症状が現れる。もちろん数秒らしい。でも軍隊では数秒でも危険。だから軍隊のベーシックトレーニング、つまりブートキャンプですらやり通すことは無理だと見ている。

2。もし二度目に頭を打ったら、これで最後。彼の脳は一生問題を抱えて普通に生きていくことはできない可能性が高い。

3。かかりつけのカイロプラクターから50ポンド(約23キロ)以上の重いものを絶対に持たないようにと言われている。背骨への負担は大きく、しくじったら、下半身付随となり車椅子の生活が彼を待っている。でも、昨日それを再度忠告したら、彼はそんなことは言われていないと頑固に否定した。

4。一応聞こえるけど、いまいちで教室などでは一番前に座っている。耳のせいでバランスを崩し頻繁に転んだりもある。

5。乱視用の眼鏡をかけている。矯正手術をすれば軍隊は入れてくれると表向きには言っているが、手術をしても不合格の人が結構いる。

 

こんなに問題がある!

 

でも、外見は立派なところがまずい。

彼は身長が183センチほどあり、スポーツも得意で、一見何も問題がなさそうに見える。

ところが中身は違うのだ。

もし彼が健康優良児なら、ここまで反対はしない。

 

息子はこれらの全ての健康問題を再度認識させられても、

「平気だ」と言って全く引くそぶりを見せない。

彼の妻も、何も言わないタイプ。

大人しく従順で夫のいうことにほとんど従うし、調べもしない。

ぽわ〜んとしてのんき。

そもそも、あなたの夫が下半身付随や脳の問題を抱えたら、あなたが一生その面倒を見るのですよ!おむつ変えしたい?

それをわかっていない。

 

息子は親の言うことにはとりあえず耳を貸す。でも親の勧めに従うかというとそれは別件。

彼は自分の意見を常に押し通す。

それで失敗する。それでもその原因が自分の決断にあることを認めようとしない。

もし「言ったでしょう」などと言ったら、激しく「そんなことは言われたことはない」と反発してくる。

だから何を言ってもダメ。

 

彼は子供の時からリスクテイカー。

外交的で怖いことなどないのだ。

でもストレスで意識を失う。(よくわかんない😅)

だから、軍隊のベーシックトレーニングの第一日目でさっさと落第しそう。

だって、目の前で怒鳴られたりしたらアリスになるのだから。

 

彼は自分の命が惜しくないのだろうか。

勇気があって男らしい、というのは認めよう。

でもこの場合は男らしいのではなくて、ただの馬鹿。

 

賢い人は自分の弱点を認める。

馬鹿は認めず、だから結果的に苦しむ。(人のことは言えませんが・・・😅)

 

息子は大人なので何を言っても効き目がない。

彼は母がどんなに心配していてもそんなことはどうでもいいのだ。

母親は心配しすぎと言っている。

でもこの件に関しては親は正しいと断言できる。(というか、いつも親が正しい!!!!)

自分は軍隊に入ったことはない。でも入った人の話はたくさん聞いたことがある。

夫の双子の兄も空軍にいた。

戦士ではなくてもイラク戦争に駆り出され、足に銃弾を受けたり、同僚が殺されたりしたのを目撃した。そして彼はPTSDになり、今も夜眠ることができない。

 

確かに軍隊には様々な利点もある。

例えば、学費の肩代わり。

息子は大学院を志望していることから入隊を考えているらしい。

でもただより高いものはない。

軍隊に入り学費をもらうことは自分の命と引き換えという意味。

ただなんてそんな美味しい話が世の中にあるわけない。

あなたの命を国に捧げてくれるなら、学費くらい払ってあげましょう。ということ。

つまり条件付きの「ただ」。

 

息子を持った母親は心が休まるときがない。

でも男性というのは本当に母親の心配をよそに怖いことをするものだ。

だから息子を持った母は心痛が多い。

自分には3人の息子がいるので心痛も3倍。

 

軍隊に入って欲しくない理由の一番は、

自分の心の均衡性を保てなくなるため。

二番目は息子の将来を案じて。

 

もし彼が軍隊の申込書に真実を記入しなかったり、軍隊の医者も診察中に問題を発見できなかったり、目をくらめせて入隊なんてことになったら、私は一生心配から逃れることができない。

つまり拷問。

 

 

だからそうならないように願うしかない。

というか、それしか親にできることはない。😭

 

卒親は今年も無理そう。😰

 

 

 

 

 

 

 

男の子が怒られやすいのはなぜ?

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母親に怒られる息子。(出典:https://keytokids.com.au/crossing-the-line/

一般的に男の子は怒られやすい。

この意見に同意される方は多いと思う。

 

自分には息子が3人と娘が1人いる。

彼らを育ててきて性別の差は天地の差と等しいと断言できる。

 

なぜ親は男の子を怒るのか

まず親は子供がしていることが良くないと思えばそれをやめさせようとする。

で、女の子は一回言えば次回からはしないように気を付けるようだ。

でも男の子は違う。

一回じゃあ足りない。

何回言っても同じことを繰り返す傾向がある。

 

まず親の言うことを最初から真面目には聞いていない。

聞いていないようか忘れているようなので再度注意を促す。

それでも効き目はなし。

やっと「うん」という返事がもらえたかと思って、それでやってくれるかといえばそれも期待外れ。

その結果親はイライラして怒る。

「何回言ったらわかるの〜〜〜〜!!!」というのは万国共通の決まり文句。

 

本当に男の子は聞いていない。

というか、正確には本当に聞こえていない!

さらに注意が多い家庭の男の子は自主的にツンボになる。

だからこういう方法は効き目はないのだ。

 

男性は女性とは異なる

これは、脳の構造が異なるために起きる。

物事に従事しているときに男性は脳の一部の神経組織だけが集中して機能しているが女性は脳の神経組織が全体的にバランスよく機能している。

このことから男性は集中力が高い。でも同時に一つのことに夢中になったらそれで終わり。

(世の男性のほとんどは基本的にはこれ。だから自分の夫にも同じことが当てはまる。)

集中しすぎて本当に聞こえないらしい。😅😅

 

プラス、彼らは「親を喜ばせる」ことより「自分を喜ばせる」ことの方が優先順位が高いのだ。

女の子は親を喜ばせたいし、親に嫌われたくもない。だから変なプライドなどさっさと捨ててもいいと思っている傾向がある。人と仲良くやっていくほうが自分のプライドより大切なのだ。

その反対に、男の子はプライドをなかなか捨てられないようだ。

 

だから親が声を張り上げて必死になっても無駄なのだ。

やり方を変えないといけない。

どうやって?

 

それは親が望んでいることを明確にすること。

それを長々と説明しないこと。

要するに箇条書きのコミュニケーションが有益となる。

 

戦略

具体的には、

1、ルールをはっきりさせる

2、ルールはルールで曲げられないことを理解させる。(反復練習によって)。

3、紙にルールを書く。

4、例外を設けない。

5、男性は上下の関係がはっきりしていると安心する。

6、親が上にあることを認識させる。

7、何度も(意地悪な言い方で)忠告しない。効き目なし。言えば言うほどツンボになっていく。

8、息子の人格を否定したり、なじるのではなく、ルール違反したことだけを告げる。

9、感情的にならないで、言うべきことを淡々と告げる。

10、男性は女性の感情的な爆発を苦手とする。そういう状況に遭遇すると頭が働かなくなってくるよう。だからとにかく長々と説教したり感情に任せて怒ったりしないこと。

 

もちろん、これはわかっていても実践となると難しい。

女親には特に難しいのだ。

それは母親は子供と感情的に強くつながっているからとも言える。

だから我が子に関することは全て感情的に捉えるきらいがある。

そして一旦感情的になるとその揺れる感情を認識することによってますます感情的になるのが女性というもの。

なので、感情的になってきたらそれに自分で気がつくことが最初で、それでもコントロールできない場合はその場から離れることをお勧めしたい。

つまり、

物理的距離をとる。

 

コミュニケーション実例

親は感情的になるとコミュニケーションが取れないような話し方をするきらいがある。

だからそうなる前に手を打たないといけない。

感情的になる前の言葉かけを変えないといけない。

 

実際のやり方としては、

「おもちゃを片付けなさい」ではなく

「遊び終わったら何をするんだっけ?」と聞く。

男性は命令が嫌いなのだ(特に女性からの😅)

 

この命令が多いと確実に反抗するようになる。

だから自分で気付かせることにする。

するとそれは人に言われたからでなく、自分が考えたことであり、自分の意志で決めたことになる。

そういうのを男性(ま、誰でもですが)は好む傾向にある。

「片付けろって何度も言ったでしょ!!!何回言われたらわかるの?」ではなく

ただ「片付けは?」と聞くだけでいい。

「今片付けるところだったのよね」でもいい。

つまりなるべく否定的な表現を避け、

自分で決めたような錯覚を覚えさせることが鍵。

 

ということはこのルールをあらかじめ教えておく必要がある。

頭にこびりつくまで習慣化するまでこのルールをリマインドする必要がある。

でもここで問題がある。

 

普通の親は10回も20回も同じことを繰り返して教える忍耐も時間もエネルギーもない。

だから怒る。

これが悪い。(分かっているけどやめれない!!!!😰)

 

全ては忍耐。これしかない。😓

とにかく感情的に怒らない。

理想的には手短に明」する。

説明がわからない年齢なら、怒らないで「やめようね」「片付けようね」とだけ言う。

その際、子供は泣くかもしれない。反発するかもしれない。いくらでも泣いてもいい。反発してもいい。だってそれが普通だから。

泣いたら抱きしめる(やりたくなくとも)。それでも泣き止まないなら放っておく。

反発がひどければ、耳栓をすべし。そしてその場から去る。

 

親は子供に泣かれると(口答えされると)イライラしてくるものだから、その事件の場面から離れることが大切なのだ。物理的な距離は精神的な距離にもつながるというもの。(でもこのコロナでいつも顔を突き合わせている状態ではこれも難しい・・・・)

  

感情のコントロールは親が最初にしないといけない

とにかくこれは綱引きと同じなのだ。

どっちが強く引っ張るかに勝負がかかっていると言っても過言ではない。

子供は負け組になりたくないから必死になって自分の立場を守ろうとする。

親は親で子供に負けるなんて親のプライドが許さないのでこれまた必死になる。

どちらが強いか、その見せどころ。

この場合、当然親の方が強いことを子供に認識させるべき。

ただその「強さ」だけれども、それは強制力の強弱ではなく、

親の感情のコントロールを指す。

 

子供が自分の望みや人格を否定されたと感じないように、

親が最初に感情をコントロールすることがこの親子間の綱引きの勝ち負けを決めるのだ。

 

息子と親の関係は激しく悪化しやすい。

これはどこの国でも同じようだ。

なぜなら男性というのは基本的に反発する生き物だから(失礼😅)。

それが普通で残りは例外と捉えた方が精神的に楽であるように思う。

もし反発するから益々押さえつけようとすると、状況は更に悪化するであろう。

 

要するに、いうことを聞かないから子供は怒られ、怒られる頻度が多いので萎縮したり反発したりで、反発されるなら親はより声を荒げて怒るようになる。悪循環。😰

でも事態(子供の弱点克服も子育ての進歩)は何も変わっていない。😰😰😰

 

怒られる頻度が多い子供は一般的に頑固で素直でないケースが多い。

すぐにいうことを聞く子供は親に怒られない。

つまり頑固で素直でない子供は生き方が下手とも言える。

それには生まれもった性格や気性もある。

全部が全部本人のせいであるわけがない。

 

そこを理解してあげたほうがいいかと思う。

全ては、ちゃんと親の願いどおりに育ってくれない息子の隠れた魂を感じとってあげることが鍵であると感じている。

 

で、自分は怒らなかったかと言うと、

そんなことあり得るわけないでしょ?!😢

当然怒りました。

だから現在があります。😰

それで皆さんに警告を出しているのであります。😅

 

でも「怒るべき時もあるのでは?」という意見もあるかもしれない。

 

やっぱり怒らない方がいいに決まっている

ある禅宗のお坊さんがこんなことは言われていた。

「怒ったっていい」「真剣にならないといけない時はそうするべき」と。

本当にそうだろうか?

もしかして、それは「怒る」ではなく「叱る」を意味しているのではないだろうか。

 

叱るなら、男の子に限るなら父親に任せたほうがいいように思う。

女親は、叱るを通り越して怒りになることが多い。怒りの状態になったら100%感情的になり怒りながら泣き出したりもする。それも何日も何週間も何ヶ月も続いたりする。

 

よって子供は混乱に陥る。

「やめなさい」と一言言えば、それで十分なのに。

でも女親というのはそれでは済まない。長々と説教したりも多い。感情の波が一旦頂点まで達するとそれはなかなか静まってはくれない。特に我が子のことになると。自分と切り離すことができないのだ。

でもはっきり言ってそういう女性の感情の起伏を男性は理解できないのだ。

よって効果ゼロ。

 

父親は一般的に長々と説教はしないタイプが多いようだけれど、父親の怒鳴り声は子供にとっては恐怖。

厳しいことは良くても怖がらせる必要はないように思える。

親の権力で無理矢理いうことを聞かせる方法は一時的には押さえ込むことができても、究極的に、子供は自分の意志で考えていないことになり学習につながっていない。よって体が大きくなった時に復讐の念で燃え父親に反発することが目に見えている。

服従させることは一時的な解決法で長期的にはマイナスなのだ。

 

だから、私の意見は異なる。

穏やかに叱れないなら、あっと言う間に「怒り」に変貌する。

怒らなくて済むなら怒らない方がいい。怒り出したら感情が理性を支配してしまうからだ。

子供はわかっているのだ。自分の親は未熟であることを。

子供は感情をむき出しにして騒ぐ大人を尊敬したりしない。尊敬できないからますます従わない。

でも慈愛に富む大人の言葉や態度は子供の心に染み込むものだ。

愛は、力に勝つと思う。

大声で自制心を失い怒ることは大人から見えればそれは親が真剣であるということで、「愛のうち」と捉えることができるかもしれないけれど、子供の目から見ればそうは映らない。

ガミガミ言われれば子供の魂が傷つきそれを守るためにさらに頑固に徹するケースの方が多い。

だから怒らない方がいい。

 

愛は甘やかしとは違う。

厳しいことを言わないといけない時もある。

でも・・・

怒っても子供には通じないことが多い。

叱ることは諭す事で、怒ることではないのだ。

 

得に息子の扱いはものすご〜〜〜く気をつけないといけない。

息子は叱られやすいけど、怒ってはいけない。

その理由は・・・・・(下記を参照)

 

男の子は繊細

男の子は叱られやすい。

そして怒られやすい。

その結果自尊心が傷つきやすい。

よって性格が曲がりやすい。

そのことから社会問題を起こしやすい。

人間関係でも問題を起こしやすい。

 

男性は外見は強そうに見えるけれど、内面は結構繊細であるように見える。(失礼😅)

特に年齢が低い時。

実際、ミシガン大学の研究でそのような結果も出ている。

女子の乳児と男子の乳児を比較した研究だった。

 

母親が男児に向かって冷たい態度をとるとほとんどの場合はすぐに泣き出し、なかなか泣き止まなかった。そして自分の泣いているその声を聞いてますます恐怖に陥り泣き声が激しくなっていった。

だけど、別に母親は大きな声を出したわけではない。ただむすっとした顔をして無視をしただけ。

ところが女児に同じことをしても、女児は顔色を変えることさえしなかった。

 

結論は男児の方が感情的に繊細と出た。

 

また、男性は女性に比べて長期ストレスを抱えるリスクが高く、女性より50%も高いという研究結果も出ている。

だから女性の方がタフなのだ。 

ということから、

男の子はあまり怒らないほうがいい。

でも昔から、親はそれをやめれない。

困ったものだ。😩

 

でも!今からでも遅くはない!

このようなこと(脳の働きが異なる&繊細)を心にとめ、理解の心を持って彼らに対応してあげるなら、良い方向に転換していくのではないだろうか。

 

頑固な息子も心を持った人間。

親の理解してあげたいという気持ちを感じとってくれれば、その固まった岩のような心も溶けていくかもしれない。心を開いてくれてくれるだろう。

それを願おう。

 

そして結局、男性は(というか誰でも)自分の経験から(失敗から)学んでいく動物で、親がいくら口うるさく言っても効き目がないことの方が多い。

 

その原則を心に留めて、息子とはそんなものだ、と思った方が賢いと思う。

Boys are boys. (所詮、男の子は男の子)というのは本当だ。

 

その意味は、

息子は女性である母親には手に負えなくて当たり前で、

理解し難いのも当たり前。

女性とは根本的に異なる生き物。

だから息子に娘のようになってもらうことを期待してもがっかりするだけ。

 

よってそんな努力は無駄!

ただ、あまり期待せず、別のタイプの人間を、ありのままに「そういうものだ」と受け入れる努力だけでいい。

男性とはそういうもの。

自分で人生を切り開いていくのが彼らのサガで運命なのだ。

だからママは黙っていたほうがいい。

 

でも別に男性が女性より劣るとかそういうことではない。

実際、男性が女性に勝る面もたくさんある。

同時に、女性が男性に勝る面もある。

つまり私たちは同じ人間でも異なる資質や特性を持った人間であるということをあらかじめ認識し受け入れることが重要であるように思う。

そうすればイライラし怒ることも減っていくだろう。

 

ドクダミママ至言

男の子は女の子とは根本的に異なる。

だから女の子のように振る舞うことを期待するだけ無駄。

母親のようになどなるのは不可能。だから最初から期待しないほうがいい。

 

淡々とリマインドする。

感情的にならない。

子供に自制を学んで欲しかったらまず親が自制している姿を見せるべき。

感情的になることを抑えられない場合は、物理的距離と取る。(我が家は他州に引越ししてもらいました😅)

 

愛は強制や圧迫や脅しに勝つ。

何度言ってもできない息子の魂に寄り添ってあげる。

それは理解してあげること。親の願い通りにできなくとも心の中では努力したい意向があることを(とりあえずは)認めてあげる。

子供の失敗を認め、いたらなさを認め、わざとやっているわけではないことを認識してあげる、

我が子は本当はいい子であることを認めてあげる。

そうすれば怒らずに済む。

 

 

 

 

解放されたい方にはフリーレンジ子育てしかない!

フリーレンジ子育て。

これは新しい子育て用語。

意味は発達の年齢に応じて、現実的な個人的リスクを合理的に受け入れて、独立して、限られた親の監督の下で機能することを奨励する精神で子供を育てるという概念。ヘリコプター子育ての反対として見られている(Wikipedia)

????

 

英語の意味は

Free:自由

Range:距離的範囲

だから隔離しない養育法を指す。

 

このフリーレンジの語源は

ずばり、動物の飼育法からきている。

ということで、フリーレンジとは、放し飼いを意味し、主にニワトリの放し飼いに使われている。

また、米国で売られている卵はフリーレンジのニワトリの卵なら入れ物にそう記載されていることが多い。

f:id:MimosaPalette:20210116203247j:plain(裏庭のフリーレンジのニワトリたち。自由で幸せそう!)

 

必然的に登場

これが子育ての一方法として新しく登場してきた。

正確には、2008年に、ニューヨークのコラムニストであるレノア・スクナージ女史が”なぜ私は9歳の我が子をたった一人で地下鉄に乗せるか”という題で記事を書いたことから、一躍有名になり、この名称がメデイアによって広められ世間の論争の的となった。

でも・・・ひょっとしてこれって昔はみなこれでしょ?

それに日本で小学生の子供が地下鉄に一人で乗るなんて大したことではない。でも過保護のアメリカでは珍しいことなのだ。

だから大騒ぎだった。

そう。つまり、従来当たり前だったことが、現代になっておしゃれな名称で再度出現することになっただけのこと、そして世間から(あたかも新しい試みのような錯覚とともに)フラッシュライトを浴びることになった。

その一つの理由は

ナチュラルライフ流行が関わっていて、子育てにもその方法が見直されてきたというわけだ。

つまり子育てもナチュラルに、ということ。

 

この背景には、

必死になってやる「子育て」に疲れ果てた親がいる。

その親とは、

子供を危険にさらさないように目を光らせ、将来の子供の出来栄えは親の責任であるかのようにプレシャーをかけられ、プロという人の意見に振り回されてたくさんの情報の中で溺れかかりながら、必死になって親業をやってきた我々のこと。

 

でも、そうやって必死になって子育てに励むのは親にとってかなりのストレスなのだ。

それで結果が良ければそんな苦労も報われるものだけれど、結果が伴うとは限らない。

親の心配も倍増する。心配の多い親は子供を虐待しやすい。

子供もいつまで経っても親に依存し責任感が養われない。

 

それでフリーレンジ子育てが出てきた。

つまり、放し飼い子育て!😁

 

自分も子育てを30年もやってきて

「これにすればよかった!」としか思えない。これが認められていればこんなに苦労をしなくてもよかったのだ。

自分の時代は、「しっかり見張っとけ子育て」で「子は親の鏡」で「子供がおかしいのは親のせい」という風潮だった。

しかし長く親という責任を遂行してきて思ったことがある。

子供の出来栄えは親の手の届かないところにあることが多い、ということだ。

そもそも、親がどんなに必死になっても、事故もあるし、病気にもかかるし、反抗もあるし、コントロールすることなんて、はなはだ無理😰!(特に我が家に関しては!)

 

合法化

アメリカは子供を守るための法律が厳しく、近所の人から警察に通報があったりとそんな事件が結構後を絶たない。児童保護グループが目を光らせているのだ。

フリーレンジなんて本格的にやったら、大変なことなのだ。日本のように「幼児のお使い」なんてやったら親は刑務所行きが見えている。小学生でも一人で買い物に行ったりしたら、レジの人が警察に通告することもある。うちの子供達にもさせたけど、やっぱり「親はどこにいるのか?」とけげんな顔で聞かれたそうだ。だから地下鉄なんてもってのほか。

またアメリカでは6歳から10歳の子供を一人で学校や公園に歩いて行かせるだけで通報されることがある。(日本が羨ましい・・・・・)

だから疑われないように、親を守るために合法化することが大切になってくる。

つまり、「我が家はフリーレンジ子育て」と言えば、親の立場が保護されることになる。

 

現在、フリーレンジ子育て合法化の動向が各州であり、

2018年にユタ州が全米初の認可州となった(ユタ州は宗教的な理由から子沢山が一般的で、十分に見張るのは無理だから)。他州では悪戦苦闘でなかなか合法化に漕ぎ着けられないでいる。

この法律、名付けて、”フリーレンジペアレンテイング法”。

 

わたしの子育て真っ最中の時代に、これを実践していた人もいる。

当然社会も学校もうるさく、親は監獄行きというのも頻繁にあった。

そのため、これ専門の弁護士が出てきたり、へんぴな田舎に引っ越しを余儀なくしたりたもあった。

またフリーレンジの家庭の子供達がほぼ全員ハーバードに入学したりと、そんなすごいニュースもあり、世間を騒がせていた。

 

お薦め

中流家庭は一般的にきれいな住宅地に住み、アカデミックな成功に重きを置き、習い事で子供を多忙にさせ、自由な時間は(あればの場合)ゲーム。これが典型的な子育て。とにかく大人の監視下で隔離するイメージが高い。当然、勝手にあっちこっちに行かせない。

でもこれは天才を育てる環境ではなく、幸せな子供時代にも結びつかない。

そもそも、隔離され自由のないニワトリのことを考えていただきたい。

フラストレーションの塊で、ストレスレベルは高く、耐えられないので、隣のニワトリをつついて殺したりも結構ある。つまり、ニワトリ社会のいじめ。

つまり親の監視が多い家庭の子供は精神が歪む恐れがあるということ。

さらに親が子供をいじめること(虐待)も出てくる。

 

でも反対にフリーレンジ子育てをすれば、こんないい恩恵がある。

 

子供の創造性が発達する

自分で問題解決する力が伸びる

親はストレスが減る

ゆったり育てられた子供の方が自尊心が高い

他の人と自分を比べたりしない

屈折した競争心とかはない

社会性が発達する

穏やかな子供になりやすい

子供は反抗期が軽いか皆無(反抗する理由がないので)

 

フリーレンジの方が子供がはるかに幸せ。

親も幸せ。

 

世間に合わせて子育てをすると子供に歪みが出る

別に勝手に色々なところに行かせることだけがフリーレンジ子育てではない。

子供に目を光らせて子育てをすることがフリーレンジからかけ離れているのだ。

親子双方の精神状態にもよろしくない。

私はそれを前々からなんとなく理解していた。

でも周りからのプレッシャーは無視できない。それにこのアメリカという国。

夫は伝統や凝り固まった考え方で育てられた人。

相談すると、そういうアドバイスしかもらえなかった。

だから自分の心の声に聞き従わずに、夫と周りの人の意見に従った。結果的に中途半端な子育てになっていた。

その結果はというと、

目も当てられません!!!😭😭😭

 

理想的には、

母というものは、家族・親戚・学校・社会を無視できるほどの強さがないといけない。

自分はそういう強さと勇気に欠けていたのだと思う。

結果的に、周りの意見に惑わされたから我が子が犠牲になった。

 

一般社会に見事にフィットする子供と幸せな子供のどちらに価値を置いているのだろうか?

我が子が一番大切なら、他は無視するしかない。

 

私は毎日、そうできなかったことで罪悪感から逃れることができないでいる。

我が子の問題は彼らの問題なのだけれど、自分もそれに関与していることはわかっている。

もっとおおらかで自由な子供時代をおくらせればよかった。

(結構自由にさせたつもり。でも同時に息子たちに精神的プレッシャーをかなりかけたし、当然フリーレンジではなかった。)

 

子育てで最も大切なことは、

子供を成功させることではなく

子供の精神安定を促すことで、

親子間の関係であるように思う。

 

日本人の親は子供を成功させるよう必死になりやすい。

アメリカのアジア系の親の子育ても皆似通っている。

成功が全て!のような感じだ。そのため、監視が鋭い。

そのしごきについていける子供もいる。

でもついていけない子供もいる。

そういう子供はついていけないだけでなく、精神的に不安定になったりもよくある。

精神が歪むと、人生全般に悪影響が及ぼされる。

だから成功に焦点を当てることよりも、子供の心に焦点を当てることの方が大切になってくる。

 

一番にならなくともいいし、大成なんてしないくてもいい。

そのままで受け入れてあげれて

失敗してもガミガミ言わない親になれれば

それだけで親としてはかなり立派だと思う。

受け入れてあげることがすなわち愛するということではないだろうか。

 

結局、人は失敗から学ぶしかなく、でも親は我が子の失敗は耐えられないのだ。

だから失敗する前に先回りして失敗が起こらないようにしようとする。

でも失敗からしか学べないこともあることは確かだ。

フリーレンジ子育てはリスクを回避させない子育て。

失敗を許可すれば、学びと成長につながっていく。そして失敗を恐れない勇気ある人になっていく。「いくらでも失敗していい」そう笑って言えるような懐の大きさが子供の精神状態に大きく響くように感じている。

 

日本のフリーレンジ子育てへの概念

日本はアメリカと比べて遥かに安全なので子供達が独立して自由にあちこちに行ける環境が整っている。だから日本での実践は異なるように思える。

ちょっと調査してみたけれど、日本ではこのように捉えられているようだ。

フリーレンジな育児とは、子どもたちが自然とダイレクトに触れ合い、大人の介入はほとんどなしに、自然の中で自由に自分たちだけで遊ぶ、そんな環境で子どもを育てる育児方法。・・・丘を登り、森の中を歩き、木に登り、野原を駆け回る。夏には海で泳ぐこともある。その自由な空間の中で、自然とのつながりを深める。(https://note.com/life_for_future/n/nc4a366e9d587

つまり、親の監視抜きで、自然の中で自由に遊ぶ、こと。なるほど。

 

他に翻訳本も出ているようだ。

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書籍名:『フリーレンジ・キッズ 自由に羽ばたける子どもを育てよう ~のびのび育児のすすめ~』著:レノア・スクナージ
出版: バベルプレス


  • 上記の本の著者は、例の我が子を一人で地下鉄に乗せたコラムニスト。だからフリーレンジをもっと広範囲でカバーしている。つまり、この子育て方法には自然の中で自由に遊ぶ以上の事柄が含まれている。

 

子育てはフリーレンジの方が絶対的にいい

大賛成!!!

かといって完全な放し飼いということではなく、

つまりそれは

 

子供の発達段階に合った自由で、

現実的な個人的リスクを合理的に受け入れ、

親からは独立して行動し(年齢相応)、

親の限られた監督下で機能すること。

 

ということは、

子供に食べたいものをなんでも時間構わず食べさせたり、

全て子供の好き勝手という自由ではない。

健康や安全の原則を無視していいわけがない。

つまり、基本は重視して残りはなるべく自由、といった感じ。

 

自分もこの方法で子育てをすればよかった・・・・

今も後悔の念で歳悩まされるばかりの日々。😭

でも

いまさら後悔しても、子育ては既に終わってしまったので、

せめて自分たちの孫が自由に生きてくれるように心から願っている。😢

 

ドクダミママ至言

子育ては必死にならない方がいい結果が出やすい。

フリーレンジ子育ては親も子供を精神的な解放をもたらす。

親の介入の多い従来の子育ては両者にとってストレスのもと。

一般社会に見事にフィットする子供と幸せな子供のどちらに価値を置いているのだろうか?

我が子が一番大切なら、他は無視するしかない。

 

 

 

 

チャイルドネグレクトって言うけれど・・・それってどうなの?

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窓の外でただじっと家に入れてもらえるのを待っているニャンタ。ずっとここにいたの?

これってもしかしてペットネグレクトか・・・😅

チャイルドアビュース、つまり児童虐待という言葉が一般的になってからまもなく、ネグレクトという言葉も社会に登場するようになった。

 

ネグレクトとは、つまり「放棄」ということ。この場合は育児放棄。

他の訳なら「無視」または「監督不行届」。

 

ではどんなものかというと、

子供を捨てる。

食事をあげない

家に入れない。

危険から守らない。

体格や気温に合った服を着せていない。

教育を受けさせない。

 

これが基本的なタグイ。

でもいくらでも増やすことも可能。

例えば、

 

子供が遊んで欲しいのに遊んであげない。(遊ぶ時間なんてない・・とか親が病気とか・・)

栄養価の高い食事を与えない。(インスタントラーメンばかりとか・・)

子供の勉強をみてあげない。(時間がないとか・・)

ネットやゲーム中毒を放っておく。

(一番の子守だけど、やめろと言ってもいうことを聞かないとか・・)

などなど。

 

アメリカでは子供が13歳くらいにならないと家に子供だけを置いておくこともできない。

だから子供が何人もいる家は大変。

一人の子供を医者に連れて行くために残りの子供も全員連れて行かないといけない。

なんとなく連れて行く方が虐待っぽい感じがするけど、家に置いていけばここではネグレクト。

 

で、ちゃんとやらないと児童保護サービスなる団体がやってきて子供を取り上げる。そのため親は真っ青になって子育てをする。

確かに、こういう団体や法律は子供を守るために制定されたことはわかる。

しかし、アメリカの場合はやりすぎの場合も多い。

 

そういえばアメリカのあるおじいちゃんがクルーズ船で孫をうっかり窓から海に落としてしまってそのおじいちゃんは犯罪者呼ばわりさせていた事件があった。でもこれはわざとやっった事ではない事故。でも子供を守ろうとする社会から見るとネグレクト。確かにその窓の外に孫を出したからこれはリスクの高い行動だった。でもお年寄りだし、頭が働いていなかったのかもとも思う。そんな事件が起きてもその子供の親は祖父への起訴取り消しを嘆願していた。戦っていたのは児童保護サービス。

 

どうでもいいけど、子供を一部始終ずっと監視しているって無理。うっかり事故もありえる。

我が家は4人なので一部始終監視は無理。それより多い家族はもっと無理。

ずっと見張っていろというなら国で無料の託児所を設置して欲しいものだ。

わたしは子育て真っ最中の時代は具合が悪い時が多く、ほぼ毎日寝込んでいた。

親も親戚も周りにおらず、託児所に払うお金もなく、かといって国の助けを借りられるほど貧乏でもなく、結果的にネグレクトの時も多かった。それでも面倒は見ないといけないので、無理やり起きて来て子供たちの面倒をみていた。かなりしんどかった。そういうわけで、テレビに子守をしてもらうことも多くあった。

理想は理想。

でも現実は異なる。

サポート体制が整っていないと子育ては大変なのだ。

だから祖父母とか親戚が近くにいないと大変

 

そもそも、このネグレクトって言うけれど、

人類の歴史を振りかえってみて

子育てはどこもかしこもず〜とネグレクトだよ。👊

20世期後半くらいで、そういう言葉をよく聞くようになっただけ。

その前は子育てはほぼネグレクト。

マジョリテイの家庭はどの時代も食べていくだけで必死だったのだ。親だけでなく子供だってひもじい思いをしている家庭などいくらでもあった。

便利な電化製品もないし、家事だけでも相当な労働だった。

子供を四六時中みはっていることはほとほと無理。

 

考えてもいただきたい。

世界の人口のほとんどが農業に従事しており、背中におぶれないような体重になった子供は田んぼ周りのあぜ道に寝かせておいた。母親だって農作業に参加しないといけない時代(今だってそうでしょ?)だったのだ。これプラス家事だってある。

それじゃあアッパークラスはどうかというと、母親は自分の子供の面倒など見なかった。乳母がいるし、養育係がいた。親は面倒を見ない。面倒を見ている乳母や養育係がいても結局親ではないし、常に愛情をかけていたかどうかは謎である。子供は大人の前では余計なおしゃべりをしてはいけない風潮もあった。子供と遊ぶ?あり得ない!

日本の場合、経済的に余裕のあるところは「ねえや」を雇い、貧乏なところは年長の姉が子守をさせられた。でもそれは子供が主に赤ん坊の時。歩き出したらずっとは見張っていられない。

要するに!現代のような手厚い子育ては存在していなかったのだ。

 

現代は母親が子供を家に置いたままでパチンコ店に入り浸るとか。恋人と遊び惚けていて家に帰ってこないとか・・。

日本のネグレクトは日本的な怖さがある。

アメリカのネグレクトには残酷なケースもある。

でもそれは最もひどいケースに違いない。

 

ま、言いたいことは、

子育てはほぼずっ〜とネグレクトだったということ。

で、今はヘリコプターペアレンツという言葉もでき、反対の親がバッシングを受けている。

 

ネグレクトでもなくヘリコプターでもない親。つまりその中間が望ましい。

でもこれもなかなか難しい。

わたしが思うにはほとんどの親は、広範なスコープの真ん中辺のどこかにいるのではないだろうか。

 

わたしの育ちは正真正銘のネグレクト。

自分で自分の面倒をみないといけない、ってわたしの人生。

 

ネグレクトだったけど、まともからは外れるけど、それなりに大人になった。

育ててくれた人を恨んだこともない。

だから?って感じ。

それにラッキーなことに、ちょっと前はそんな言葉もなかったし、気にさせてくれるような情報もなかった。(今は情報過多でストレス)

 

でも我が子には違う子供時代を生きてほしいと思い、やりすぎてほとんどヘリコプターママ(病気の時を抜かして)。

で、結論はというと、「経験したことのないことを実践するのは難しいものだ。」

 

一般的にネグレクトに陥る親には心の問題があったり、経済的な問題を抱えているケースもある。病気の場合もある。やはりこの辺で行政や家族からの支援が必要な感じがする。

ただ感じたことは、

そんなに手をかけなくとも子供は育つし、病気でない限りはそのくらいの方がいいかもしれない。たくましく育つ。親が手をかけすぎるとひ弱な人間になりやすいのだ。

つまり子供から脱皮するのに時間がかかる。

そんな風に感じないでもない。

 

ドクダミママ至言

仕事をしていて子供にあまりかまってあげれない母親などは一般的に罪悪感を感じるようだ。でも気にしなくていい。

人類が始まってからほとんどがチャイルドネグレクトなのだから。

そんな細かな配慮で面倒などみれない。

それに、そうしてあげても結果がよく出るとは限らないし。

一生懸命面倒を見てあげても病気にかかるし、事故にも遭う。

学習をサポートしてあげても、これも子供次第。

 

子供が寂しい思いをしている、かわいそう、という人も社会には多くいる。

でも、それもその子が背負っていかないといけない課題で、それが人生なのだ。

それに親って親業をやっているだけじゃあない。

大人は他にもやることが沢山あるのだ。

そこまで気にしていられない。

長い時間を一緒に過ごしてあげれなくとも、たくさんのお金を使ってあげれなくとも、それが一番重要なのではなく、愛情の深さが最も重要。

それはできるだけでいいのだ。

他の親と比べたりしてもいけない。

ある状況下での努力で十分。

 

とは言っても、文句を言われれば、

やっぱり親はかなり気にする・・。

でも子供が文句を言っているならそれは子供の方の問題。

それなら、我が子に満足にできないことを謝ることもいいかもしれない。

 

だってできる事しかできないんだから・・・。

 

 

 

 

 

 

新年の抱負とは誰に対する抱負?まさか子供?

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(これは私の趣味です。チクチクとストレス発散のためにやってます。😅)

 

読者の皆様、あけませしておめでとうございます。

 

今回は時に適ったテーマ、

つまり新年の抱負についてお話しさせていただこうと思います。

 

新年の抱負は誰のため

当然、自分のためであるけれど、実は密かに子供のことが入っていたりする。😅

例えば、

子供が

これができるようになりますように。

どこそこの学校に入れますように。

この弱点を克服できますように。

など。

 

もちろん子供たちは親がそんなことを考えているなんて全く知らない。

でも親だから当然そういうふうに願うこともごく普通。

 

もしこれを口に出して本人たちに告げたらおそらく怪訝な顔をされるだろう。

だから普通は口にしない(でも願っている😅)。

 

わたしの新年の母業抱負

成人した自分の子供たちは新年の抱負などというものを考えているだろうか。

今が楽しければそれでいいのではないだろうか。

そんな気がする。

娘は親のお金で帰省したけれど、家には最初にちょっと寄っただけで、残りは兄と友人の家を渡り歩いていて全く帰ってこない。

だからお正月もこの辺にいるはずだけど一緒には過ごさない。1月中旬にアリゾナに帰るらしいけれど、いつなのか何も言ってこないので放ってある。ちなみに帰りの切符は買っていない。親に迷惑をかけて自由に生きることが娘の独立宣言らしい。

 

ということで、今年は夫と二人のお正月。

それならわたしは自分だけのための2021年の母業抱負を考えることにしよう。

 

1。成人した子供たちのことが頭をよぎったらすぐに止め、思考を完全にシャットダウンする。その後は他のことを考える。

2。三男以外の子供たちにこちらからは連絡を取らない。

3。三男以外は「我が子」と呼ばない。Ex-son, ex-daughter、つまり、元息子、元娘と呼ぶ。

4。成人した元子供3人を「ちゃん付け」で呼ばない。全員に対して敬語で会話(今までもそんな感じだったけど、今後はより徹底させる)。

3。自分の幸せだけを考える。

 

もしかしてこれは自己中?

冷たい親?

と思われるかもしれない。

でも、わたしは自慢ではないけれど、今まで子供たちのために、自分のことは忘れ、自分のやりたいことは無理やり我慢して、家族のために考えられないほどの犠牲を払ってきたのである。その結果、心も体もボロボロときている。はっきり言ってやり過ぎた。

 

自分がこんなにもか弱い人間だとは思わなかった。

若い頃は怖くても、勇気と努力でどうにかなる、と信じて疑わなかった。

「やっちゃえ!」みたいな精神は旺盛だった。

自分の人生モットーは「ダメもとでぶつかる!」で、壁に遭遇したらその壁を壊して進む。

そんな自分は、その勢いで子育てにも臨んだ。

でもその勢いも長くは続かなかった。実際、自分の心の中は「恐れ」で充満していった。その恐れから、どうにもならない子供たちを見てますます必死になった。「努力」は人を裏切らない!と信じて疑わなかったからだ。でも親業に関しては、親が努力したってダメなのだ、とわかった。😰

今となっては「あの努力は無駄」だったとしか言えない。

でもこの努力も最初の10年ほどで終わるものと楽観視していた。その後は自分の人生を生きれると思っていた。ところが親業はその後も続き心配事は度合いを増していった。

 

ずばり!

子供の年齢と対応しないといけない問題の大きさは見事に比例しているのだ。

だからどんなに頑張っても楽になることはない。

(今から警告。だから必死になるな!ってことよ。😅)

 

引退宣言

母業は母の健康をむしばみ、精神を狂わせるようだ。

親になると"Intense worry"(極端な心配)から自由になることがない。そのため神経が休まらない。

これはストレスの原因。病気の原因。

だからこの辺でこんな人生から引退したいのだ。心の隠居生活と言ったほうがいいかもしれない。

それは許されるはずだ。もう”十分”頑張った。でも”充分”じゃあなかったのは認めるとしよう。ただ自分にはこれしかできなかった、という言い訳しか言えない。でも言い訳も許してもらえないなら最初から母親などにはならなかった。世の中は母親に対して厳しすぎる。

 

先日、ハワイに到着した三男と話をして、これからはもう自分のことだけを考えて生きて行っていいか?と聞いた。息子は「そうだよ。そうしたほうがいいよ」と言ってくれた。

「僕がお母さんの立場だったら絶対そうするよ。」とも言ってくれた。

三男は思いやりがあり親のことを気遣いよく連絡をくれる。そして親を悩ませている自分の兄妹に対して嫌気がさしているようだ。だからこの子が親をかばってくれている。

 

残りは全て神様にお任せすることにした。

「神様、もういいですよね。わたしにはこれ以上の努力もできないし、これ以上何をしてもいいかもわかりません。だからこの辺で勘弁してください。」

そんな言葉しか出てこない。

 

私たち夫婦の親としての責任は終わった。彼らは人生を自分の力で開拓していかないといけない。これからは親のせいにはできない。無責任と言って欲しくはない。親はたくさんの世渡り術を教えてあげて、助けもあげて、資金の援助もしてあげた。だからそれで責任は終わり。その後は子供の責任なのだ。

 

子供の出来栄えは全て親のせい、のように世の中では言われているけれど、一概には言えない。親はそれなりの状況下でそれなりの努力しかできず、その努力も当てが外れていたりもする。そもそも親が頑張ったって子供側が頑張らないなら結果など出ないのだ。

したがって、わたしが言いたいことは、

常にこれ!

 

子育ては思い通りになどならない。

努力が実らないことも多い。😢

 

だから2021年の抱負は自分のために生きることにする。

そして同じように悩み苦しんでいる他の多くの親御さんのために生きたい。

私たちには、その昔、子供が4人いた。

でも今は1人。

残りの3人にとって親は邪魔な人間。だからさっさと(喜んで)消え失せるとしよう。😅

それは”一見”悲しいことかもしれない。😓

でもそれでいいのだ。😀

この現状を受け入れるしか心の平安を取り戻ることはできないのだから。

男性は仕事のしすぎで命を縮める。

女性は我が子のことを心配して命を縮める。

それを美徳のようにちまたでは言われているけど、

今後は遠慮させていただきたい。

 

まあ確かに、

彼らは親の目から見ると「とんでもない」状態かもしれない。

でも神様の目から見ると「最もふさわしい立ち位置」にいるのだ。

そして後はこの全てをご存知の全能の神様にお任せして生きていく。

さらに、これからは親と子供という関係ではなく、「友達」でいることにしよう。

友達なら気楽でいい。

 

そもそも!

わたしの肩書は母親ではない!💢

だって、何年続けていてもプロ級になれないならそれは職業とは言わないでしょ?

よって!30年間に及ぶ(無報酬で感謝されない)ボランテイア活動はこれにて終了!

 

2021年は跳ぶぞ〜〜〜〜🤣!

皆さんも一緒に跳びましょう〜〜〜〜🤣!

 

ドクダミママ至言

新年の抱負は自分だけのため。

密かに子供に対する願いを入れないこと。

子供は子供で自分の人生を構築するのだから。

2021年は親業以外の人生の目的や生きがいを見つけること、

それを是非ともお勧めします(これは子供がまだ成長期にあっても同じ。今からやらないと50歳すぎて見つけようとしたってそう簡単には見つかりません・・・😅)

 

 

 

 

 

 

子育てでたどり着いたところ:心の安定を保つためにはどうしたらいいか

 

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フィラデルフィア、ロングウッドガーデンのクリスマスツリー。(出典https://www.visitphilly.com/articles/philadelphia/guide-to-tree-lighting-celebrations-in-philadelphia-and-the-countryside/#a-longwood-christmas-at-longwood-gardens

今日は日本はクリスマスで、アメリカはイブですね。

この日は日本では恋人と過ごすロマンチックな日かもしれませんが、クリスマスはご存知のように宗教的な祭日です。サンタクロースはすっかり商業化してしまいましたが、元々は聖ニコラスというカトリックの僧侶のことです。

ちょうど仏教徒が仏陀の誕生日を祝うようにキリスト教徒は家族で集まりイエス様の誕生日をお祝いします。それがクリスマスで、日本のお正月のような感じです。

それでは今回は核心をついたお話をしようかと思います。

ちょっと宗教色が出ているのでそれがお嫌な方は、下の文面は無視してブログを閉じてくださることをお勧めします。

今回のテーマは、どうにもならない子育ての中にあって自分がどのような方法で平安を得られるようになったかについてです。

 

信仰なんてバカらしい?

日本では宗教や霊的な事柄を忌み嫌う人が多くいるようです。

そんなものに頼る人は頭がおかしいか、弱い人間だと思っている知り合いもいます。

でもどうもそういう方は、実際は経典も聖書も読んだこともなく、読んでも内容をしっかり学習したこともなく、座禅を組んだこともなく、勤行を実践したこともなく、祈ったこともない方のように見受けられます。

わかってもいないのに、表面をちょっと引っ掻いただけか噂で判断しているように見受けられます。または頭でそれとなく理解しているだけで、心では感じていないのだと見受けられます。

でも、日本人が嫌う宗教というのは実は宗教そのものではなくて宗教団体なのではないかとも思います。そのため深入りしたりしたら「危ない」と思うのかもしれません。確かにどのような組織にも問題があります。宗教団体もその一つだと思います。完全な組織は存在していません。それはたとえどんな立派な教えを信じていても、人間ですから間違いを犯すことがあるからです。

自分自身も時々眉をしかめるようなニュースに嫌な思いを抱くことがあります。

それでも、そのような宗教団体の問題を抜きにして

本当はほとんどの方の心の奥深くには霊的な思いが存在しているのではないでしょうか。

人の根本的な存在の意味はここにあるような気がするのです。またここになくしてどこにあるのでしょうか。人の本当の存在とは魂であるからです。つまり人間とは肉体を持つ物体である前に霊的な存在なのです。

 

確かに、何がなんでも信じたくないし本当に信じられなくとも、別にその方に必要がなければそれはその個人の考えであり別に私がどうこう言うべきことではないのです。

もしかして

やっぱりそういうことが言える方は本当に強いのかもしれません。

私はそういう方が羨ましくもあります。それくらい強くなりたいものだとも思います。

でも同時にこうも思うのです。

そういう方には、大した試練がないのかもしれない、と。

なぜなら、人は本当に苦しくて耐えられない時に、神様や仏様にすがるしか道は残されていないからです。

そして信心は苦しみや試練の真髄を教えてくれるのです。

一般的に苦しみを避けて通れる人生を幸福と呼ぶようです。でも苦しみや悩みのない人生は皆無です。どうせ逃げれないなら、その中でいかにして生きていくか、それが生きることの真髄であると思うのです。つまり悩みや苦しみ中に喜びや学びを見つけていくのです。

 
たどり着いたところ

わたしはこのことをいうに恥じらいなどありません。

わたしは全然強くないです。弱く何もわからない人間だと認識しています。そして親になってますますそう感じるに至りました。自分には全てを解決する能力なんてないし、そもそも、自分の問題だって解決できないのだから子供の問題なんて不可能に近いとつくづく感じているのです。

 

確かに自分で解決できる部分もないことはないです。その場合は努力をします。

でも自分の最善の努力を何年も何十年も続けても結果が出なかったらどんな気もちになるでしょうか?家族や友人や専門家にも相談したけれどそれでも結果が出ず、心が晴れない場合はどうしたらいいのでしょうか?

これから一体何を頼りに生きていけば良いのでしょうか?

そういう風に悩む親は洋の東西を問わず結構多いようです。

そうやって自分も悩んできました。

 

やれることは全てやりつくして子供の問題解決に当たっても、親だって人間、教科書通りに進められないものなのです。

そんな時、どんな気持ちになりますか?

人智を超えた何かにすがりたいと思いませんか?

 

実際、ずっと泣きっぱなしでした。

この母という役目から逃げたいと思ったことも数え切れないほどあります。

自分の能力では抱えきれない重荷でした。

そんな時一体誰が私の涙を拭い不安を取り除いてくれるのでしょうか?

 

いろいろ探求した後に、究極的に私が最後に行き着いたのは創造主としての神でありました。

もちろんその前から神の存在については信じていたのです。でもその存在を強く感じるようになった、というかいやでも感じさせられるようになったのは親になったからです。

 

親になって自分が大したことがない人間だと嫌でも思わされるに至ったのです。

親になってすがるものが必要となったのです。

 

最初は、親の力で子供をどうにもできなければ、せめて心を落ち着かせる方法を知りたかった。だからどうしたらいいものかと模索が続きました。

 

心を落ち着かせる方法はたくさんあります。

座禅なども素晴らしいと思い実際に試してみました。

ヨガもやったし、他のメデイテーションも現在も生活に取り入れるようにしています。

仏教は自分の魂を強くしてくれるような気がしました。

 

でも自分にはただ自分の心を一時落ち着かせるだけではなくて、

誰かがどこかで我が子を見届けてくださっているという確信が欲しかったのです。

親にできないところでどうにかしてほしいと思うのは普通ではないでしょうか。

今どうにもならなくとも、もし本当に神様がおられるなら、その一粒の小さな種のような信仰に懸けてみたいと思わないでしょうか?

 

全てを良きに変えてくださる神

日本の従姉妹が「神が全てを良きに変えてくださるでしょう」と言っているのを常々思い出すことがあります。

でもこの「良き」とは親が思ってもいなかった方法で起きる「良き」であって親の思い通りになるということではないように感じています。

おそらく「神様が一番いいと思われる時に一番いい方法で」のことを意味するのではないでしょうか。

今はマイナスの状態でも、プラスに変えられる時がやってきて、そして現在の状態をバネにしてそれを乗り越える時が来る。

また自分の力でどうにもできないことを親も謙遜になって受け入れ、人智を超えた力により我が子を変えられる日が来ることをただひたすら信じる。

このようなある意味での「信仰」は大嵐の中で心やすらかに生きられる助けになるように感じています。

 

どうにもならないケースは否が応でも究極的にここにたどり着くようです。

全てを良きに変えてくださる方を信じるしかこの泥沼から出る方法はないと感じています。

 

私は長男と次男のことで、ニッチもサッチもいかないので、ずっと泣いていました。

そんな時「神様助けてください」と自然にその言葉を言っている自分に遭遇することが多々ありました。

それはわたしの心からの願い、つまり祈りなのでした。

すると今は最悪でも、いつかどうにかなるような気がしてくるから不思議なのです。

 

こんなことを言うと「神は見えない。ということは存在しない。だから信じるなんてバカ」という方もおられるでしょう。

確かに神様にお会いしたことはありません。

でも確かにそこにおられるような気がするのです。
自然を眺めていると、何かの目的でこれを創造された方がおられるに違いないと思えるから不思議です。規則正しく稼働している宇宙にもその制御担当者がおられるに違いありません。私はすべての命または働きの影にはそういう理解できない現象や力学が存在していると感じるのです。

つまり見えないものかもしれないけれど、世の中のほとんどの現象は見えないものの方が多いしわからないことの方が多いということを人間は忘れているのではないでしょうか。(コロナも見えない😅)最も大切な事柄は見えないものが多い。でも人間はその少しの見えるものから全てを判断しようとしているのです。

だから解決の糸目がつけられなくとも当然ではないでしょうか。

 

子供がどうにかなると信じられなくとも、自分よりもっと大きな力をもたれた方がハンドルしてくださると思れば気が楽になってくるから不思議です。

信じるとは、まだ起きていないことを、まだ見えないものをひたすら疑わずに信じること。

それが信仰の意味。

見えているものは知識であって、そんなものは誰でも簡単に信じらます。目の前に見えるのだから簡単に証明できるのです。

でも見えないものには信仰が必要。行き先の見えない子育てにも信仰が必要。

 

だから別にこういう方法で祈れとかどうのと勧めているわけではないのですが、こういう方法で心の苦しみを取り除けるならこんないいことはないのではないでしょうか。

それからこういう方法もあることを認識していることもいいと思います。

人によっては仏様に手を合わせる場合もあるでしょう。それもいいでしょう。

 

なんでもいいのです。

それであなたの心が穏やかになるなら。

人は苦しみが大きいとすがるものが必要なのです。

 

何も信じられず、親の努力でできることが残っていなければ、諦めるしかないでしょう。

でもそう簡単に諦められないのが母というもの。

なぜなら本当の意味での諦めとは、母にとっては死の宣告と同じだからです。

 

我が子がいつか目覚め、人生の舵をしっかりと取れる日が来ることを信じられなければ、母は生きた心地がしないのです。

 

今宵も手を合わせ、心の底から祈るしか母にできることはありません。

子供たちの心に語りかけ、最もふさわしい時にふさわしい方法で問題が解決しますようにと。

「全てを良きに変えてくださる神」とはそういうことを起こしてくださる神ということ。そして神が一番良いと思われる方法でいつの日かそれが成し遂げられるということをひたすら信じるのです。

 

人生を信仰によって歩むとは、一人で歩まず、神様と歩む人生のことを指し、一緒に歩めばたとえ真っ暗闇の道でも怖くはありません。

子育ても真っ暗闇のことが結構多いです。

だから一人で取り残されて絶望でおののくこともあります。

 

暗い道を灯が見えてくることを信じて歩む。灯がある先を見ながら旅先案内人の神様と共に歩む。

それが信じる人の人生。信仰とは暗闇を照らしてくれる松明のようなもの。

もしそれがあなたの親としての人生を向上させてくれるなら信じることに価値はあるような気がします。

 

親はどんなに子供を愛していても、全部の問題を解決してあげることなどできないのです。

そんな時は絶望しか感じることができません。

絶望の状態で生きていくことなどできるのでしょうか。

できっこありません。

だから私は手を合わせ、いつか親が思いもしなかった一番良い方法で、我が子はどうにかなる、と信じ続けるしかないのです。

 

たどり着いたところ

これを読まれで嫌な気持ちになられた方もおられるかもしれません。

でもこれは私の心からの証です。

30年間の子育てで得た答えはこれでした。

安心立命とは私の好きな仏教用語です。

その意味は天に運を任せ心安らかに生きよ、という意味です。

親は子供のことになるとなんでも自分でどうにかしようとあたふたと動きまくります。

でも実際親のできることなど少ないものです。

だからじっと腰を落ち着けて心を静かにさせることも大切かと思います。

そして任せるのです。

 

クリスマスの日に寄せて、皆様の心が穏やかに、

我が子を信じ希望を持って生きていくことが出来ますように。

そしてクリスマスの奇跡が

起こりますように。

 

ドクダミママ至言

目は真っ直ぐ前を見て

心を神(霊的なもの)に向けるなら

何が起きても安心立命でいられるのです。 

 

 

 

 

 

バウンドリーの重要性

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ガラスドアの向こうは敵陣。こちらは僕のバウンドリー。入ってくるなよな〜。


日本は親子間の境界線があまり見えない文化のようだ。

でもたとえ親と子供でも、血が繋がっていたとしても、それはそれだけのことで、別の個人であることには変わりはない。境界線を無視するなら、それははっきり言って、人格否定ということにもなりかねない。

だから互いのバウンドリーに侵入することはルール違反なのではないだろうか。

 

実際、親であるわたしたちも思春期の時そのように感じなかっただろうか?

 

とは言ってもこの日本人の血と育った文化はなかなか消すことが難しいと感じている。

 そもそも、ずっと一緒に暮らしているし、親子なんだから。

それに住居が狭かったりもする。

やっぱりこのバウンドリーというコンセプトを完全に理解し実践するのは困難?😰

 

バウンドリーと言っても

幼い時はやはり親がなんでもやってあげないといけない。

でも大きくなるに従って、自分で考えさせ自分で決めさせ自分で行動させないといけないのだ。

そうしなければ後々反抗という形で子供から抗議がやってくる。

 

とは言っても、親はついついこのバウンドリーに侵入し余計な口を挟んだりするものだ。

自分もこのルール違反をたくさんしてしまった。ごめんね〜😓

 

バウンドリーの厳守ルールにはこんなものが考えられる。

例えば

子供に自分の服を選ばせる。

子供に好きな髪型を選ばせる。

子供に習い事を選ばせる。

行きたい学校を選ばせる。

本人の部屋に勝手に入って日記を読んだりしない。

勝手に部屋を片付けたりしない。

子供の友達の悪口などを言わない。

就職先について口出ししない。

結婚相手について口出しを控える。

孫の育て方についていらぬお節介を焼かない。

さらに、精神的なバウンドリーにも入らないことも入る。

 

でも、上記の例は親がバウンドリーを(いとも簡単に)越えるケースが多いように見受けられる。

 

バウンドリーを厳守と言っても

いつも本人に完全に決めさせるのは年齢により異なるし状況によっても異なる。

当然、絶対譲れないものは親の意見を反映してもいい。

 

例えば

歯をちゃんと磨くとか、

野菜をちゃんと食べるとか、

就寝時間とか、

そういった健康に関する事柄は親が提案(あくまで提案)をすることは必要であると思う。

 

でも、「〇〇ちゃんはどこそこの学校に行ったほうがいいと思うけど」などどいうのは本人の意見ではなく親の意見で親の勝手な希望でもある。それは親のエゴから来ていることが多い。つまり子供が一流大学に入れば自分が誇らしいからだ。子供の業績は自分の業績。切り離して考えることはかなり難しい。😢

そもそも、頑張ってもらわないとこちらの努力と犠牲が無になるってわけ。それに親は本人のために言ってあげているのだ。でも本人からしたら押し付けれられていると思っているはず。

そう、誰でも押し付けられるのは嫌なものだ。

わかっているけど・・・やめられない・・・。😢

 

ではなぜ親はそんなことをするのだろうか。

自分だって強制や過干渉は嫌なはずなのに。

我が子の事になるとどうしてこうもひっくり返ってしまうのか。

親は、愛という美しい名の裏にある「エゴ」を認めない限りは、過干渉をやめれない。

 

うちの子供たち

今、娘がフェニックスから帰省している。

部屋は相変わらずめちゃくちゃ。ハリケーンも竜巻も来てたかしら?😅

この寒いのにミニスカート(はけるほど美しい脚であることは認めるけど)で素足!

長く栄養が足らない食事をしていたようで、髪の毛がバサバサと大量に抜けている。😰

彼氏はいるのか?とかそんなことは口が裂けても言わないように気を付けている。

それは娘のバウンドリーなので何も言わない。

ああ平和。☺️

 

次男は自分の経済を立て直すために昼間の仕事とは別に夜間と週末のアルバイトを始めたそうだ。多分今人手が足らない運送業界だろう。いいことだ。

自分で考えて一生懸命やっている。

親は口出しをしない。でも働きすぎて倒れたりでもしたらどうしようと思わないでもない。

離婚の件もどうなったのかあの後は何も聞いていないし、干渉しないことにしている。

若いんだしできるはず。それに彼からその学習と成長の機会を奪う権利は親にはないと思っている。

人は一人で悶々として悩みながら大人になっていく。孤独には意味がある。

 

長男はここから車で40分ほど離れたところにゲイのパートナーと一緒に暮らしていてフルで仕事を続けながら大学院に在籍している。今学期の成績もオールAで喜んでいた。母親にその出来栄えを報告して喜んでもらえて嬉しかったようだ。よくできているところは褒めてあげて他は無視に徹している。例えゲイでもなんでも自分の選んだ人生を一生懸命生きている彼を誇らしく思っている。本人が幸せならそれでいいのだ。彼の人生なのだから。

 

三男は嫁の家族と一緒に暮らしていて仲良くやっているようだ。大学はこれで卒業。でも社会の現状からいくと就職氷河期に収束がついていない。本人はそんな世の中でも楽観的で仕事を絶対に見つけると言っている。親は「ちょっと危ない」と予測しているけれど、本人には何も言わないことにしている。

 

このように

「提案」(またの名をお節介)というものは聞かれない限りは全てやめた。

平和この上ない。😁

 

我が子といえど彼らのバウンドリーに入ってはいけないのだ。

しかし、もっと早くからこうしていればよかったとつくづく思う。

 

じゃあ、ひきこもりとかの場合は?

これはハードルが高い😰。

でも親は平和に生きたかったらこれも基本的にはバウンドリー厳守。

親がすべきことはなるべく明るい態度で過ごすこと。(明るいふりでもいい!😅)

なぜなら、引きこもりの子供は外に出ないとか学校に行かないとかいう外側に見える引きこもりだけでなく、心も引きこもっているからだ。これは根本的には心の問題なのだ。

子供の心が開き、外に向かうようにするには子供が安心しないといけない。子供が安心するには、親が安心した気持ちでいないといけない。そして明るい態度。

そうすれば状況がが好転する可能性が高い。

 

まとめ

バウンドリーを尊重するなら

子育てのストレスはかなり軽減されるだけでなく我が子を心底エンジョイもできる。

心配事も減る。

いいことばかりだ。

 

他の人のバウンドリーに入ることを止めれば人生はもっと楽になるし、明るくなる。

ストレスの原因は他の人間の人生をどうにかしようとあくせくするからだ。

これを止めればいいのだ。

 

ドクダミママ至言

他の人のバウンダリーに侵入することはルール違反。

嫌われる原因。

親が不幸になる原因。

愛とエゴの違いを認識すべし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コントロールできるものなどないかも

 

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(出典:https://healthymensinfo.com/5-ways-womans-secretly-controlling/

人は今起きていることを自分でコントロールできると思いがち。

何がなんでもどうにかしようと色々思案に暮れたりするのも人の常。

でも実際にコントロールできるものなどあるのだろうか。

ほとんどのことはコントロールなどできないように見える。

 

自分のものならコントロール可能?

人は、自分の所有物ならコントロールが可能と思っている。

だから家やコンピューターや我が子も”自分のもの”と信じて疑わない。

そのため、自分のコントロール下にあって当然と思い込んでいるのだ。

でも実際、どんなに好きな人やものであっても自分の所有物ではないのだ。

一番いい例は自分の体。

自分のは自分の一部であるのだから、自分のものだと思っている。

でもコントロールできているだろうか。できるなら病気になど罹らないはずだ。

自分の体や持ち物でさえコントロールできないのだから、周りの人や周りのもののコントロールはさらに不可能。

 

親は我が子のことについて常に目を光らせていて、軌道修正をしようと躍起になったりする。

これもうまくいかない。

実際、コントロールしようとすればするほど事物は空回りし不幸感が増すようだ。

 

コントロールしようとする生き方は不幸な生き方

コントロールしようとする生き方は自然の法則に則していない。

自然の法則に則さない生き方は苦しみの原因になるのだ。

 

このような生き方から解き放たれることができたならどんなに楽だろうか。

それを止めることができるなら、今目の前にある事象を別の観点から見ることができるようになるのではないだろうか。

コントロールに集中する人生は悩みの人生。そんな人生を送っていると、美しいものが目の前にあっても気がつかないことが多い。

 

でも課題を完全に放っておいていいというわけでもない。

それなら、コントロールしようと必死にならずに課題に対応することはできないだろうか。

 

変更は可能

コントロールは無理でも変更可能のことはある。

変更可能なこととは、つまり

1。過去の出来事の見方や認識

2。今後・将来、自分がすること

3。自分の感情、物事の解釈法、及び自分の可能性の開発方法

 

反対に変更不可能なことは

1、過去にすでにしてしまったこと

2。過去の行いの結果として今起きていること

3。そのほかの事実

 

だからコントロールするのではなくて

変更することが様々な問題への対応法であるように感じる。

変更できることはそれをできる限りでいいから一つずつ実施し、

できないことはそれを認め、今後に生かす。

それくらいしかできることはなさそうだ。

 

肩をいからせて必死になってコントロールするのはやめよう。

腹をくくるべき時もあることを認めることは平穏に生きる鍵であるように見受けられる。

 

コントロールすることをやめたら、

たとえ曇り空でも一筋の光をそこに見つけることができるのだ。

 

ドクダミママ至言

コントロールはストレスのもと。

コントロールではなく変更できることを実践すること。

これが一番ストレスが少なく結果が出やすい。