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ドクダミママ至言

母業落第の果て:もっと早く知りたかった子育てへの答え

手のかかる心配事の多い子供がいると夫婦関係はどうなるか

 

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辛い時も嬉しい時も、いつも一緒にいてくれてありがとう!(出典:https://www.reddit.com/r/aww/comments/9qi356/our_cats_truly_love_each_other/

今週末はバレンタインということで

今回はそれにちなんで夫婦関係についてお話しさせていただきたいと思う。

 

特に、もし夫婦にものすごく手のかかる子供(特別なニーズがある子供)がいたら夫婦関係はどうなるか、について考察してみたい。

 

手のかかる心配事の多い子供とは

つまり

 

病弱

学習障害

精神障害

身体障害

特別支援組

など、

つまり特別なニーズがある子供のこと。

 

これらの子供を持った親は、子供という共通の関心ごとがあるために

夫婦の絆が強くなるのではないかと一般的に信じられているようだ。

 

でも実際はそうではない。

アメリカでは、このような子供を持つ夫婦の離婚率は高い。

実に75%に届く。

 

それは夫婦の話題が子供の抱えている問題ばかりになり

互いを見つめる時間がないからだ。

二人とも

子供の方だけを見ている。

お互いを見るときはほとんどない。

結果として楽しい会話も消えてゆく。

 

子供に問題がなくとも結婚には摩擦が生じることが多い。でも子供に特別なニーズがあると(それも複数で)より摩擦が増える。そしてすでに他の面でストレスがある夫婦には耐えがたい状況になる可能性が高い。

妻への影響

子供に問題があると、

まず妻の頭から子供のことが離れる時がない。

どうにかしなくちゃと焦っている。

ということは常にストレスを抱えていることになる。

負担はかなり大きい。

精神的だけでなく全ての面で。

 

子供の世話は毎日で決して消えることはない。

健常児でも大変だ。

ということは特別支援組はより大変ということ。

そのストレスたるや普通の子供を持った親には想像ができないほどだ。

妻は子育てからくるストレスがだんだん溜まっていき、夫に優しい言葉などかけることができない。

 

夫への影響

夫は夫で仕事で疲れていて、

うまく回っていない家庭にストレスを感じている妻を日々支えるほどの忍耐も気力も持ち合わせていない。

家に帰ってきて、妻に優しくして欲しくても不機嫌な妻の顔だけが彼を待っている。

子供のことで頭がいっぱいなんだから夫に優しい言葉などかけれない。

他の人のことなんて考えられない。

妻は夫に心の負担を軽くしてほしいと望んでいるのだ。

 

それにたとえ気がついても、
夫はストレス一杯の妻をどうやって支えていいかわからない。 

それが夫のストレスになる。

 

仕事でもストレス。

家でもストレス。

彼はすでに結婚関係にヒビが入りそれを修復することが不可能と感じ始めている。

 

互いのことを考える余裕などない

本当はこんな時こそ互いを慰め合ってサポートし合わないといけないのに。

互いのことなど考えている時間がない。

子供の面倒を見ないといけないのだから。

伴侶に気遣う余裕などないのだ。

すると心ない言葉をかけたりするようになる。

これに耐えられなくなり離婚になるのだ。

ストレスは人間関係を壊す。

夫婦関係もぶち壊す。

 

結婚の誓いはどうなったの?

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神の前で互いに誓うカップル。(出典:https://www.weddingdates.co.uk/blog/wedding-photography-in-the-church/

皆さんは教会結婚式の誓いをご存知だろうか。

そこにはこうある。

 

新郎〇〇、(新婦〇〇)、あなたは〇〇を妻(夫)とし、

健やかなる時も、病める時も、

喜びの時も、悲しみの時も、

富める時も、貧しい時も、

妻(夫)を

愛し、

敬い、

慰め合い、

共に助け合い、

その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?

 

これをもっと簡単に子供がいる家庭に合わせて言い換えるなら、

こんな感じかも。

 

子供が健康でも病気でも、

子供を通して喜びがある時も悲しみに暮れる時も

経済的に豊かな時も貧しく大変で子供を十分に面倒見れない時も

伴侶を(子供をも)愛して

乱暴で失礼な言葉をかけたりせずに

(夫婦で)互いに慰めあい、助け合い、

生きている限りは子供と伴侶に心の底から仕え

相手の幸せをまず第一に考えると約束できますか?

 

ひえ〜〜〜〜!

こんなのできる人っているんですか!!!!😰

 

できっこないのに、

じゃあ

なぜこんな誓いをさせるのだろうか?

それは結婚は晴ればかりの楽しい旅行とは違うと既に人類の長い歴史が証明しているからだ。それでもどんな大変なことがあっても逃げないで一生連れ添いますと’神の前で’約束をするのが結婚式。(神前での真剣な誓いだよ!!!怖いことだ・・・。😰)

つまり「おいおい、浮かれている場合じゃないよ!」と警告を出していることになる。

結婚式とは披露宴とは異なる。結婚式は宗教的な儀式で披露宴はただのお祭り騒ぎ。教会の美しい儀式の裏にはこんな厳粛な約束事が含まれている。だからうっとりと酔いしれている場合ではないのだ。

でも、結婚するカップルにはその誓いの時にこれから起きることは想像にも及ばない。

だからいとも簡単に誓うことができるのだ。

その後試練が忍び寄り、結婚式の誓いなど忘れてしまうのが普通。

そうそう、自分に都合の悪いことはとっとと忘れたほうがいい。

 

結婚や家庭は船のようなもの

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(出典:https://penobscotmarinemuseum.org/PMM-Reader/ship-in-heavy-storm/

子育ては現実で、

手のかかる子供がいる家庭は毎日が大嵐の海を航海するようなものだ。

問題に飲まれ込みそうになりながらかろうじて浮いている船。
それがあなたの家庭。

右に押しやられ、左に押しやられ、

もうダメかと思う時も多々あり。

恐怖におののく妻子を守り家庭という名の船の舵を握るのは夫の役目。

 

夫まで真っ青な顔をして右往左往していたらこの船は沈没するだろう。

 

シングルマザーの家庭はこの片親が舵を握らないといけない。

ということは子供は自分で自分を守らないといけない。

 

乗船しているのはこの家族だけ。

こんな時互いを思いやることなどできるのだろうか?

人が局地に追いやられるとその人の最も悪い部分があらわになることが多いものだ。

それは自分の不安定な精神状態を落ち着かせるためにはなんでもしようとするからである。

それには自分の苦しみを伴侶(や子供)のせいにするというのもある。

それは、「助けて!」という心の叫びでもある。

 

でもほとんどの場合は、その叫びは相手に対するただの怒りとしか映らない。

夫婦二人ともが緊迫した関係で毎日一緒にはいられない。

互いに思いやりの言葉をかけることなど無理。

そして愛情などとっくの昔に消えてしまったかの様になる。

 

これが長引くとこの船は沈没する。

つまり離婚。

 

もしこの試練を乗り越えられれば強固なチームになることも可能だ。

しかし7割がそうならずに逃げを考える。

それなら

どうしたらこれを避けることができるのだろうか?

 

本当は同じ方向を見つめるべき

心配事のある子供がいると伴侶を見なくなる(考えなくなる)。

最初に供述した’相手をよくよく見つめる’というのは実は結婚する前の話。

結婚するとだんだんこれが少なくなってくるのが普通。

 

だからお互いに対する気持ちが「冷めてしまい」「惰性」で結婚生活を続けることが多い。

これはよくあることで、結婚前のラブラブを期待する方がおかしい。

結婚とは恋愛とは本質が異なるからそれでもいいのだ。

それでも結婚を持続させることはできる。

でもあるものがないと持続は難しい。

 

それはこれ。

実は、結婚したら互いを見つめ合うのではなく

互いに同じ方向を見ないといけない。

 

その同じ方向とはなんなのだろうか。

それは同じ目標でもある。

どこに向かって進んでいるかは同じでないといけない。

 

でも子供の問題を解決するという目標はだめ。

子供抜きの共通の目標がないといけないのだ。

なぜなら子供の目標だと、それが果たされなかった時は互いのせいにすることもあり関係を壊す原因になりやすいからだ。

そのため子育て以外の目標がないと結婚は壊れやすい。

さらに向かっている方向が曖昧だと嵐の中で遭難しやすい。

 

ではその同じ目標と方向とはなんだろうか。

それは、

  1. どんなことがあっても一緒にいるという決断が同じ。
  2. 結婚の目標が同じ。
  3. 最終的にはどんな夫婦になりたいかという意見が同じ。
  4. 人生に対する根本的な姿勢が同じ。

これらが同じ方向を向いているなら、船はたとえ溺れそうになっても持ち堪える可能性が高い。

特別なニーズのある子供を育ていている夫婦にも同じ目標と同じ方向性があれば離婚を避けることができる。

 

我が家の子供たち

我が家の子供たちは全員この類、つまり特別なニーズを抱えていた。全員の子供に必ず一つや二つの健康問題があった。生まれつきの身体障害も持ち合わせている子供もいた。その上に、学習障害もあったりした。ギフテッドの子供もおり、学校の勉強方法に合わせられない子供もいた。学校生活に合わせられないほど病弱な子供もいた。これが1人ならまだマシだった。でも4人もいると話は違う。

どの子もものすごく手がかかり、毎日が真剣勝負そのものだった。子供たちを可愛いと思ったけれど、うんざりと思うこともかなりあった。この自分の能力以上の重たい責任を果たすにあたって助けはなく、たった一人でそれも外国で戦っていた。今までに航海したことのない真っ暗な海原で何をすれば良いのかわからず不安を堪えながらの旅だった。

母は強くないといけない。でも自分はそこまで強くなんかない。負担という重たい石で押しつぶされ動けない虫けらのように潰されてゆく自分を日々感じていた。😭

この恐ろしい遺伝子を受け継いだ我が子をずっと面倒見ないといけない自分の人生を呪うこともあった。そしてこの夫と結婚をしてしまった自分の浅はかさに呆れると同時にそんな決断をしてしまった自分を嫌いになっていった。

(自分だって大した遺伝子ではないのにね〜😅)

私は自分の子供のことで悩みに悩み、とても苦しかったので、口には出しては言わなかったものの、内心夫のせいにしていた。そして結婚を後悔した。別に夫に罪はない。ただその遺伝子がちょっと・・・・。

夫は一生懸命努力して子供たちに対応してくれた。少しでも妻の負担が軽くなるようにと。アドバイスももらった。けれども彼の精一杯の努力を大してありがたいと思っていない恩知らずな自分もそこにいた。それは解決策につながらなかったからである。頼りになるはずの夫も頼りにならずイライラはずっと続いた。子供たちが幼い時はインターネットもなかった時代だ。だから情報も限られていた。出口のない牢獄に閉じ込められ病気と学習障害と奮闘する日々。境遇と我が子を感謝できない自分に罪悪感を感じ自尊心は粉々に砕かれていった。

 

逃げてしまいたかった。当然子供を夫に全員押し付けて。そんなことをする母親がいるのだろうか、と言われるかもしれない。でも、どんなに我が子を愛していても、溺れかかった船にこれ以上乗続ける勇気も希望も消えかかっていた。どんなに大変でも、小さな救命ボートに乗り移るしか逃げ道はないかのように見えた。一緒にいれば全員が遭難する。一人でもいなくなれば船は軽くなり遭難は避けることができるかもしれない。

乗り移った小さな救命ボートでは大海原の波に太刀打ちができない可能性が高い。それでも、今自分ができることは「逃げる」ことしかないように見えた。

逃げて今よりひどい結果になるとは思えなかった。よくなるかもしれない。それに賭けてみたい気持ちもあった。でも保証はなかった。ただもうこの船から降ろしてもらいたかった。

もう降りてもいいですか、神様?と言いたかった。

 

結局、そこにとどまった。まず自分には根本的に逃げる勇気などなく、遭難しそうになるたびに、自分の運命を受け入れ努力を続けるしか道は残されていないと思ったからだ。それにいつか嵐はおさまりどうにかなると信じていた部分があったからだ。

ただひたすらその日が来ることを待っていた。

そして今やっと嵐はどうにかしずまったかのように見える。

つまり子供たちが次々と下船したからだ。

 

そうしたら、わたしと夫の関係は一気に改善していった。

ということは、わたしたちの結婚はもし子供たちがいなかったらもっとスムーズで楽であったということだ。子供がいなかったら、ずーと仲良しでいられただろう。

悲しいことにすでに成人した子供たちはそれを知っていることだ。

自分たちが親の関係を複雑にしたということを。

 

我が家の成人した子供たちは皆家を出て、それなりに(あくまでもただそれなりのレベル)自立している。これで全員、四年生大学を卒業したことになる。二人は結婚している(でも危なっかしい・・)。

こういうのを’一応’成功と呼ぶ人もいる。

 

でも私たちは子育てに成功したように感じてはいない。(完全に失敗だと自認している)

一つは子供たちが親の願うような理想から180度反対の方向に行ってしまったから。

二つ目は、この先彼らの人生が向上する兆しがあまり見えないから。

そして最後にこれ。これが一番大きい。

 

三男以外は家に連絡を入れる子供がいない。要するにあまり関係が良くない。特に上の二人と。そしてこの上の二人に最も手がかかった。

とても手がかかったということは、親の介入が多かったたということ。

そのためか、怒涛の反抗期に入ったまま一向に出てこない。

こういうのは親子の密着が強いという証拠らしい。

また彼らにとって親はうっとうしい存在で邪魔ものと見られている証拠。

世は過干渉の母をなじる傾向が強い。でももし不健康で学習障害などを抱える子供を持ったら親は過干渉になるのが普通なのだ。だから、お願いだから、そんなわたしたちを「悪い親」などと呼ばないで欲しい。

でもやはり、そういう親だからこういう子供ができるわけ、というのは当たっている。

 

ちまたでは頻繁にラインで繋がる(アメリカではテキストを送るという)家族が多いらしいが我が家に限ってはそれはない。送っても返事はない。あちらからも緊急でない限りは何も来ない。誕生日もクリスマスも何もないのが普通。

連絡が来ないのは良い知らせという考え方もある。でもやはり寂しいものだ。

この現実は、身を粉にして子育てをしてきたわたしたち夫婦にとってはとても悲しい。夫は夢があった。でも子供たちにあまりにも手がかかるので、妻をサポートするために自分の夢を諦めたのだ。今思うとそんなことは無意味だった。自分の人生を生きた方がよかった。わたしも、個人的な夢は捨てて子供たちのために生きた。いや、子供たちを通して自分の人生を生きた、と言った方が正解かもしれない。

彼らは親は自分たちの踏み台的存在だと思っているのだろう。

(踏み台でも全然いい。高く跳んでくれるなら・・・😢)

あまり感謝もしてないようだし、

いろいろやってもらって当たり前だと思っているように見受けられる。

多分無視されているに違いない。

だからこんなにやってあげたのに・・という思いは脱ぎ切ることが難しい。

実際、

ニーズの高い子供たちを案じ必死になって子育てをした年月の重みは筆舌には尽くせないものがある。30年という年月はキャリアになる年月なのだ。でも子育てはプロ級にならなかった(絶対になれない!)のでキャリアとは言わない。

 

今、夫と一緒に互いを慰め合う日々だ。

子育てはものすご〜〜〜〜〜く大変で、夫婦関係に多大な影響もあった。

 

それでも残りの25%には入ることはできた。

それはわたしたちの方向性が同じであったから救われたのかもしれない。

 

確かに子育ては大変だったけれど、楽しいこともあった。

ただそれを思い出すことはあまりない。

真剣勝負すぎたせいであると思う。

やっぱり

子育ては真面目にやらない方がいい。

なんでも真剣に対応しないことや、

どうにもならないことの中に笑えるようなことを見つけることは気分的に違う。

 

そういう風に生きたかった。

でも・・・

できなかった。

 

わかっている。

子供は親を捨てて出ていくのが当たり前。

結局残されるのは夫婦のみ。

だから一番大切な存在。

ベターハーフとは、自分の半身。伴侶は自分の半身で、足りない自分を補ってくれる存在。

ずっとそばにいてくれてありがとうと今となっては言える。

 

ドクダミママ至言

手がかかる子供がいると夫婦関係が壊れやすい。

でもそれは、二人がどこを見ているかにかかっている。

伴侶がたとえ十分でなくともそれなりに子育てに参加してくれていることを認め感謝する。

子供の問題を伴侶の遺伝子のせいにはしない。

どんなに焦っても子供の問題は一夜で解決はしない。だから解決しようなどとは思わないこと。

治らないものは治らず、治るべき時がくれば治り、その自然の法則に身を任せた方が楽な時も多い。

自分の力で全部どうにかしようと思わないこと。

なんでも真剣勝負で頑張らないこと。

sense of humor(冗談を言うこと)が切り抜ける鍵。

 

問題がなければ、ストレスもないし、家庭生活は快適であろう。

でもそういう人生はないと思った方がいい。

鍵は、嵐の状態の中でいかにして精神を落ち着けて生きていくかにかかっている。

恐怖そのものが船を沈没させるからである。

そんな時

船を降りるかどうかは自分次第。

降りるのも人生。

降りないのも人生。