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ドクダミママ至言

母業落第の果て:もっと早く知りたかった子育てへの答え

片付けられない子供

我が家の子供で綺麗好きな子供がいるのだろうか?

片付けが得意な子供はいるのだろうか?

全くいない!

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(出典:https://www.understood.org/en/learning-thinking-differences/child-learning-disabilities/organization-issues/understanding-your-childs-trouble-with-organization-and-time-management

我が子の例

彼らが幼い時からわたしはこの「お片づけ術」なることを一生懸命教えて来た。

でも誰もよく学ばなかったようだ。

どこから手をつけていいかわからないらしく圧倒されるそうだ。

だから紙に書いてその手順を説明したり、上から始めなさいと言ったこともある。

当然一緒にやってお手本を見せた。

 

ものがよく片付けられない人はものを増やさない方が絶対にいいと思い、わたしは家の中をシンプルにし秩序立った環境に維持することに努めた。つまりミニマリズムのように無駄なものを排除し片付けやすいようにしたつもりだった。さらにきっちりと生活習慣を整えるために時間割も決めた。

特に長男が集中困難児だったので彼のためにそのような生活リズム及び環境にしたのだ。(今思えば薬と取らせれば良かったかもと思う。)

 

それでも結果は・・・何も言えないほどひどい。

あの〜、

大体片付け方とかってね、人によって違って当たり前で、こういうことは教えてもらうとかいうレベルのことではなく自分で勝手に学ぶものじゃあないの

わたしも特に教えてもらったことはないけど、周りを見たり自分で色々試してみたりして自己流でできるようになった。

だけど、これってみんなそういうわけじゃあないんだね?

我が子を見ていて、人によってそんなこともできない人がいることが判明した。

 

一番ましなのは三男。どうしてかというと、彼は片付けるのが面倒くさくなるとみんな捨ててしまうからだ。だから片付けしなさい!というと10分で終わる。全部捨てるから。

残りの子供たちは物を溜め込むタイプだけでなく「味噌も糞も」人間。つまりゴミも服も本も一色単に部屋中に散らかすタイプである。誰も書類管理もできない。だからファイリングキャビネットを与え、ファイリングの方法を教えた。でもファイリングキャビネットは空のままで全く活用されていなかった。

 

その特性は思春期に入り悪化した。

焦ったわたしは色々対策に講じた。しかしわたしの努力には全く意味がなかったようだ。最初に基本的なコツを教えてあげてそこから自分にあうやり方を見つけていってもらえたらと思っていたのだ。でもそんな方法では学べないことが発覚した。だからかなり丁寧にトレーニングに励んだ。何年も何年も。いつかは必ずできるようになると信じて疑わなかった。

我が子は片付けられないほど手先が不器用か頭の中がかなり混乱しているタイプなのかそれともただ単に怠け者なのか。

でもどの子も楽器を弾くし、そんなに手先が不器用という訳ではない。やっぱり頭のせいか怠け者という性格が原因か。

 

うちは息子がだらしないので娘に期待していた。

女の子だし絶対綺麗好きでお片づけなんて言わなくてもやるでしょ、と

楽観視していた。

 

ところが!

 

親の期待に反し、娘はなんと兄妹の中で一番部屋を片付けれられない!

タンスの引き出しという引き出しからは服が見事にはみ出し、ベッドメーキングなるものは言わなければしない。掃除機などはいつかけているのか謎。クローゼットの中身に秩序というものはない。どんなボロでも全く処分できないタチ。だからものがどんどん増えていき溢れかえる始末なのだ。それなのに物と決別できない性格と来ている。

ちなみに

わたしはコンマリメソッドで洋服のたたみ方を教えてあげた。それも何回も。

あまりにもひどいので何年間にもわたり1週間に一回、部屋のチェックをさせてもらった。でもぐしゃぐしゃにしてタンスやクローゼットに無理やり物を詰め込み隠していただけだ。

何を教えてあげても実行しない娘にわたしはサジを下げた。本人がこれでいいなら仕方がない。

 

けれども乱雑なだけならそれは片付ければいいだけで小さなことかもしれない。

問題は、乱雑を通り越して不潔になることだ。

 

高校の時などは特にひどかった。

食べ残した昼食のサンドイッチを自分のタンスの引き出しの後ろや様々な考えられない場所に隠していた。

部屋に悪臭がするので本人が学校に行っている間に部屋に入らせてもらい調査したところ、緑や黒のカビが生えたサンドイッチが山ほど隠されていた。ベッドの下と裏、タンスの裏と中、本棚の裏、と恐ろしかった。カビというのは空中に飛び体内に入るのだ。そのため皮膚を通して解毒がされていたようで最悪のケースのニキビができていた。

生理で汚れた下着もタンスの引き出しの後ろに汚れたままで隠してあった。何回言っても改善なし。その上(通常の)下着も取り替えない。洗濯に全く出てこないのだから毎日同じ下着を身につけていたに決まっている。お風呂に入っても体をしっかり洗っていないようだった。

乱雑は許せる範囲だが、不潔はだめ!

不潔ははっきり言って罪だよね〜!(とわたしは思っている)

 

職場の人などには、もう大きんだからほっておけと言われたから、ほおっておいたらこの始末だ。今皮膚はかなり回復して来たがこのだらしない生活態度から病気になりその医療費にどのくらいお金がかかったかわからない。

 

ついにこんなにだらしないいい大人の女性(今21歳)のお守りをするのはほとほと嫌気がさした。何も言わなければ自主的にやる時もあるかもと期待していたが今の所そんな気配もないから今後も期待しない方がいい。

本人に言わせると、片付けは精神的に負担で疲れるそうだ。当然。そんなに乱雑なら片付けに時間も相当かかる。それはストレスになるだろう。それでは寝る前に5分片付けなさいと提案してみた。でも、いい考えね、と言っただけでする気配もない。

ベッドメーキングは今もしない。面倒くさいからだ。それにどうせ今晩そこで寝るんだからまためちゃくちゃになる。だからなんでしないといけないのか?と、それが彼女なりの言い分だ。

 

だらしない人というのはある一面だけがだらしないわけではないようだ。だらしなさが生活全ての面に現れるケースが多い。

娘がそのいい例である。事実だらしないのは部屋だけでない。

生活態度の全てがだらしない。時間の管理もこれに入る。現在娘は、ある日は朝の4時に寝て、翌日の正午に起き、その夜は夜中1時くらいに寝て、翌日の朝8時に起きる、とめちゃくちゃなスケジュールだ。これを娘に言わせると「自分のユニークな個性」なんだそうだ。

勝手に言ってくれ〜!

 

だらしないとかそういうのはどう見ても誰が考えても個性じゃないよね〜?

絶対欠点!だから絶対しっぺ返しがくる。こんな生活態度で病気にならないわけがない!

 

見ていられない親は時々本人が知らないうちに物を捨てる。するとこんなに乱雑なのになくなったことがわかるらしく、わたしは怒鳴られる羽目になる。捨てたでしょ!!?プライバシーゼロ!とか怒りまくっている。

だって片付けないってことはね〜、大切じゃあないってことよ。どうでもいいのでしょ?ということはゴミということ。だから捨てた。何が悪いの???

それに

この家の支払いは親がしているんだから親の所有物であり、ということは親はその家のなかにあるものを管理する権利がある。タダで住まわせてもらっている大人の子供にそんな威張った態度は許されないのだ。(ハエがブンブン言っているような部屋を無視することはどんなに努力しても不可能!)

片付けない娘が悪いのだ。

 

そりゃ苦手なのはわかる。

でも苦手なら苦手なりに努力ってもんがあるでしょうが?

だけどしない。ただ単にやりたくないから。

あのね〜。

こういうのってやりたいとかやりたくないとかの問題じゃあないと思うんだけど。

 

娘はわたしのことをOCD (Obsessive Compulsive Disorder)つまり強迫性障害と呼んでいる。

言わせていただくけど、わたしはOCD なんかじゃない。

わたしはごく普通!

うちの子供が異常なのだ。

(しかし、最近思ったことがある、娘は体力があまりないのでそういうのも関連しているかと考えられる。片付けは疲れるのだ。もっとも生まれつき体力がないのと生活態度が悪いので疲れるということが理由の一つかと思うのだが。)

 

親のせい?

彼らは自分たちの欠点を母親のせいに長らくしていた。けれども子供の将来を案じた私は嫌われてもいいから教え続けた。けれでもそのできないことで自尊心が傷つき、傷つけた母親を呪っていた。

 

悪いけどわたしのせいではありません。

こういうのは周りの人の模範が大きいと思うのだが親として模範はしっかり見せていた。(でも夫の模範がイマイチ。。。)

それでも学べない。学ぶ意欲もない。それは母親のせいではない。

 

世の中は子供がまともに育たないと全て親のせいにする人が山ほどいる。

だから言いたい。

なんでも親のせいにするな〜〜〜〜〜!!!!!

 

直せないわけではない

でも絶対に直せないわけではないのだ。確かに生まれつきだけれど、この欠点(どう見てみ欠点!)を直したいかどうかは本人の認識にかかっていると思う。

その手の教則本やネット上の情報だってたくさんある。だから完全に直せなくとも改善は可能なのだ。

 

どんな人にも欠点がある。生きていくためにはその欠点が人生に大きな悪影響を与えないように戦略が必要だ。でもその戦略は本人用の戦略でないと意味がない。ただそれを見つけるのもその本人で時間がかかる。だから自分に対する忍耐も必要で謙遜にならないとできない。ああ、それは大変そうだ。そんな面倒くさいことはやりたくな〜い!と思うかもしれない。

それなら結局本人次第ということになる。

 

片付けをめぐる親子関係

うちの子供たちのこの片付け能力の問題は親子関係をかなりギクシャクさせる原因となった。一生懸命教えようとしたことで嫌がられた。今となっては、関係がギクシャクするくらいなら諦めた方が良かったのかもしれないと思える。でも教えてあげないとわからないタイプのようだったから、手を取り足を取り教えてあげたのだ。それでもやはり結局親の教えたことなど一切従いたくない反抗心100%の人間(夫の家系は皆こういう性格)に必死になって教えてあげても意味なしとわかった。

結果的にこれは互いに苦い経験となってしまった。

 

結論

現在は娘以外はどうにかなったようだ。

理由は

1。片付けが得意なパートナーや伴侶がついた。

2。片付けられないことから大きな問題が発生し(大切な公文書をなくすなど)本人たちが欠点を変えないとまずいと認識するようになった。

 

また、自分の子供や周りの人を見て、片付けができない理由につて下記のような結論に至った。

1。片付けの能力は遺伝的な要素がほとんどを占める!

2。お片づけが好きかどうかも生まれつき。

3。綺麗好きも生まれつき。

4。片付けができない人は先天的に脳の作りがそうなっている。(舅の遺伝子!)

5。片付けるとか綺麗にする事が優先順位にない。大切でないと思っている。

6。ウツなどの心の問題が影響することも場合によってはあり得る。ウツになると何もしたくなくなるから。掃除や片付けもこれに入る。

7。健康に問題がある人。体力に欠ける人。

 

これらは100%正しい!

 

ドクダミママ至言

片付けや綺麗好きかどうかは先天的及び遺伝的要因が大きい。

だから親がどんなに頑張っても苦手な子供は苦手で得意にはならない。

一応教えてあげることは大切だが大きな期待は抱けない。

親が必死になっても子供の協力と意欲が得られなければ長期的な改善は無理。

自分でいつかどうにかしないといけない状況になるまで彼らは本格的に改善しようとしない。

大人になって自分で苦労して学ぶしか術は残っておらずそれがいちばんの解決策。

 

 

子供から恨まれる

 

 

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親のせいにすることにつきまとう重い代償(出典:https://greatergood.berkeley.edu/article/item/the_cost_of_blaming_parents

 

わたしは息子たち3人に"terrible mom(ひどい母親)" となじられたことがある。

 

謝罪

とうぜん謝った。

謝ることが人の道だからだ。

また謝って帳消しにしてもらえるならそうしてもらいたかった。

 

人間だから間違いは起こすことは仕方がない。

人間は感情の生き物で感情に任せて怒ることなどよくあることなのだ。

どんな理由にせよ間違いは間違いであって相手を傷つけたことは事実だ。

だから頭を下げた。

 

謝ったのは一回だけではない。

そのたびに謝ったし

まとめて大人になってからも再度謝った。

手紙に反省の気持ちをしたためたこともある。

 

それでも息子たちはわたしのことを完全には赦してはくれないのだろう。

なぜか心のどこかにその嫌な思い出を大切な宝物のように保管し続けていたいようだ。

 

長男はゲイのことで親に散々迷惑をかけたことを認識しているので、お互い様だと思っているようでもう何も言わない。

次男は今もずっと根に持っているようだ。自分にも非があることはわかっているが親の前では認めたくない。

三男もお互い様と思っているようだし今は触れないようにしているよう。

 

お互い様

そうだ。

お互い様なのだ。

 

いつも子育ての専門家が騒いでいるように全部親のせいというのもアンフェアな感じがしてならない。

子供の目線だけというのはおかしい話ではないか。

(確かに弱者だから立場が弱いというのはわかるんだけど。。。)

子供は親に謝罪を要求するが、では子供は親に謝罪をするだろうか。

わたしは長男にひどい親と言われて謝ったが、その後

「それではあなたはどのくらい完全な息子でしたか?」と聞いた。

息子はその質問にびっくりして何も言えなくなった。

 

親だって子供に対して根に持っていることはある。

でも、子供がそれを認識した時、果たして親に対して謝りたい気持ちが湧くだろうか?

 

子供のために人生が破滅する親もいる。

子供のためにストレス性の病気にかかる親もいる。

そのストレスで死んでしまう親もいる。

意図的に自殺を企てる親もいる。

子供のために経済的な苦境に立たされる親もいる。

犯罪に手を染めてしまった子供を持つ親などは世間に顔向けできず引っ越しを余儀なくする人もいる。

子供のために仕事を変える親もいる。

 

親だって耐えていることが(かなり)多い。

 

何があっても、どんな状況においても、笑い飛ばせるような大きな器の人間になり天使のような広い心で対応するのが理想的な親の姿なのだろう。

それが正論だということは認めるとしよう。

では、果たして何人の人がそんな親になれるのだろうか?

もしそのように親側の恨みを言われて何人の子供が親に頭を下げるのだろうか?

親のせいにしている子供のほとんどは下げないと思う。

それは、子供への犠牲と幸福の保証は産んだ親の責任であり、当たり前だと思っているからである。それは子供の権利であると思っているのだ。

 

子供は親を選べないという概念

子供は親を選べないのだから親が全て悪いと言う人もいる。

わたしはそれは違うと思う。

子供は自分の親を選んで生まれてきたのである。

この親の元に生まれて勉強がしたいから是非行かせてくれ、と頼んで生まれてきたのである。この親でないとどうしても学べないことがあるのだから、と自分で決心してきたのである。

 

著名なウェイン・ダイヤー博士も語っていた。

彼はデトロイトで生まれ父親は彼が3歳の時に家族を捨てた。

その後父親は服役を繰り返し家に1ペニーも送ってくることはなかった。

母親は子供を育てることができず彼は孤児院と里親宅で子供時代を過ごした。どのくらい母親と生活したかは定かでない。だがこの境遇をバネに後に大成功をおさめた。

それはこの境遇を覆すかのごとく彼は人生を変えるための努力を惜しまなかったからだ。親を憎む暇があったら努力に時間を割いた。

 

彼が言うことには「人生には偶然はない」のだ。

全ては縁であり人と人が出会うことになっている。

また人生で起こる全てのことは学習の題材なのだ。

だから学習の題材に文句を言ってどんな益になるというのだろうか?

それよりこの学習の機会に感謝すべきではないだろうか。

ダイヤー氏は子供時代の経験を学習と見ており結果的にその経験を生かした職業についた。

これは自分の人生に責任も持った一例であるが、世の中にはこのような卓越した人が沢山いる。そのような人は順風満帆で苦労ななかったわけではなくかえって苦労続きの人がほとんどを占める。その苦労に負けずに生きた人がのちに尊敬される人と言われているのではないだろうか。

楽な人生に面白い話などない。

そんな人の話は誰の役にも立たないのである。

彼の例は、どんな親の元に生まれてきても人生を開花させ、自分を変えることができるという証明になる。

 

子供は親を選んでくる。親もこの子を頑張って育てますと(神に)約束をして子供はこの世に誕生する。それなら、この縁には深遠な意味があると思えて仕方がない。

 

甘え

子供が根に持っていることを親にぶつけることは半分親に対する甘えであるように見える。信頼であるという人もいる。

何を言っても許されるだろうと思っているのだろう。または、こんなことを言っても自分を受け入れてくれるかどうか試しているに違いない。

 

親は子供を喜ばすことばかりはできない。子供が危険に遭遇しそうになる、もしくは現在遭遇していると思ったら命をかけてでも辞めさせないといけない時もある。それが親の仕事でもある。ライオンの母親も牙をむき出しにして我が子にいけないことを教えている。そう言う時が必要な時もあるのだ。

 

親にいつも虐待を受けていた子供の場合は、これは親が確実にいけない。でもその親の親もおそらく同じような人間でその負の連鎖が繰り返されただけなのだ。

その言う点から見れば親だって可哀想なのだ。みんな重たい手荷物を持って生きているのだ。人を理解する時にはこのような深いところを見ないといけないのではないだろうか。皆悲しみや苦しみを抱えた不完全な人間なのである。

ということは親だけに完全を望むのは間違いかもしれない。

互いにその不完全さを赦しあってこその親子関係で、答えはそこにしかない。

互いに相手の非を指差しても何のいい結果も得られない。

 

更に、いい大人が親に謝罪してもらいたいと考える時点で子供にも責任がある。こういう場合は一般的に、人生が思うようにいっていない人が多い。だから自分のうまくいっていない人生を親のせいにするのだ。

結果を出せなかった責任を他の人のせいにしても同情などしてはもらえない。

甘えていると思われても仕方がないのだ。

 

環境だけが影響するわけではない

日本にも多くの社会問題が存在する。その多くの社会問題は家庭に起因することが多い。要するに壊れた家庭のことを指す。そんな家庭で育った人の親への恨みは深い。

でも比較的中流家庭で育った人の中でも親への恨みは絶えないようだ。

 

よく聞く例でこんなのがある。

 

こんな勇気のない人間になったのは親のせい。(自分で行動しないから勇気が出ない)

大学に行けなかった/卒業できなかった、のは親のせい。(自力で行く人もいる。余計なことをしていたので卒業もできなかった)

留学したかったのに費用を払ってくれなかった親が悪い。(自分で働いてすれば?)

やりたいことにお金を払ってくれなかった。(大人になってから自分の稼いだお金ですれば?)

親がコントロールしすぎて自分が何がしたいのかがわからない。(行動力に欠け優柔不断な子供だったか、選択肢が悪かったかで、いまいち頼りないので親はそうした可能性が高い。親の決断に反抗しなかったということはそういう性格でもある。年齢による)

などなど。

 

要するに育て方と家庭環境が悪かったからこうなったと言いたいのだ。

愛情不足だと言いたいのだ。

100%違うとは言わない。

ただし、この考え方は生まれてきた時にゼロの状態で生まれてきた場合は正しい。

 

けれども子供を産み育てた人なら誰でもわかるように、赤ん坊は性格も才能も全てゼロの状態で生まれてくるわけではないのだ。

人間は誕生の時点で既にプログラムされている部分があり、それに逆らうのは難しい。

おとなしい赤ん坊はおとなしい子供になるし、結局おとなしい大人になる可能性が高い、外向的かどうかや食べ物の好みなども生まれつきだ。どのくらいガッツがあるかも生まれつきが大きいように見える。それを反対の人間になるように育ててくれなかった親に文句を言っても始まらない。

いつも怒られてばかりだったから勇気のない大人になった!と言いたいかもしれない。

怒られてばかりでも、それを跳ね返すような勇気の塊のような人もいる。

この違いは何なのだろうか?

 

だから親を恨んでいる子供はこんな意味のないことはさっさとやめたほうがいい。

そして子供から恨まれている親は、100%自分のせいであると思わないほうがいい。真実それはありえないからだ。

 

ドクダミママ至言

親の立場にある方へ:

自分に非があると思い、もし子供がそれを望んでいるなら、謝ることも考慮すべきかもしれません。そして赦しを乞うことがいいと思います。

でももし謝っても赦してくれなければそれは子供側の問題です。

子供が赦してくれてもくれなくとも、自分が謝ったなら、自分をも赦し、前に進むべきです。あとはより大きな存在に全てを委ねて勉強させてもらったことに感謝をして生きていくことが平安への道なのです。そして貴女のストレスの原因となった我が子を受け入れ赦すことです。

 

子供の立場にある方へ:

親のしたことがどのようなものであったとしても親を赦してあげることしか心の平安への解決口はありません。それをしない限りは一生苦しみ、恨みつらみで人生を終えるでしょう。それが嫌なら、幸せになりたいなら、今それを手放すしかありません。

 

生きていく中でいらない感情の一つに恨みというものがあります。

そんなものはさっさと捨ててしまいましょう!

(と自分にも日々言い聞かせているのですよ。ああ〜困ったもんです。はい。)

 

よい母になる条件

 

良い母になる条件とはなんだろうか。

当然、誰もがいきなり理想的な母になれる訳ではない。

でも、条件が満たされているというか条件に近い人はいるように思える。

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理想的な母という神話。(出典:https://www.newyorker.com/business/currency/selling-the-myth-of-the-ideal-mother

いらない条件

一般的に様々な特技を良い母になるための条件と考慮している人が多いようだ。

でも、

良い母になるためには

 

ピアノが弾ける必要はない。

歌が歌えなくてもいい。

子供の服を縫ってあげれなくてもいい。

料理が得意でなくともいい。

クッキーやケーキが焼けなくともいい。

手編みの靴下を編めなくてもいい。

絵が描けなくともいい。

高学歴はいらない。

博学でなくともいい。

勉強を教えられなくてもいい。

外国語をしゃべれなくともいい。

作文が上手でなくともいい。

運動神経が鋭い必要もない。

掃除や整理整頓が得意でなくともいい。

 

上記のことはできるに越したことはないだけで必須条件ではないのだ。

 

では良い母親になるための必須条件とはなんだろうか?

 

よい母親になる条件

つまり、

1。忍耐

2。思いやりの心

3。体力及び健康。

これだけ。

 

上記が満たされるなら、母親の務めをかなりよくできること請け合いだ。

だが、この三つが最も難しいときている。

 

わたしは、上記の三つを満たしていなかったどころか、はっきり言って全部欠けていた。

母親にこの要素が欠けると子育てに失敗しやすい。

だったら子供を産む前に訓練を積めばいいのではないか、と思うかもしれない。

傾向と対策だ。

 

条件を満たさず親になる

けれども、大体がこのような特性が身についていない状態で、つまり準備が十分になされていない状態で親業が勝手に開始されてしまうものだ。

そして予想もしなかった子育てが始まる。

 

親業は、「実地訓練」の繰り返しなのだ。

実施訓練なので試行錯誤が多く、結果的に失敗も増える。

それでいつかマスターできればいいのだが、悪いことに、ずっと試行錯誤が続いてしまう。

特に自分の親がとても理想的な場合は、経験があるので同じように理想的な親になれる確率が上がる。その反対の場合はそれに比例した結果が起こりやすい。

じゃあ、条件を満たしていない人は子供を産むべきではないのだろうか?

それに賛成する人も多くいるのは知っている。

実際に自分自身も「産むんじゃあなかった」と後悔したこともある。

それは、子育てはどの面をとっても自分の経験外で能力以上のタスクだったからだ。

 

本当に最も理想的でよく準備された女性だけが産むという法律ができたならどうなるのだろうか。名付けて「出産規制」。

もし現実化するなら、子供を産む女性の数は大幅に減ることだろう。

そして悩む母親の数も減り、児童虐待などもなくなるだろう。個人及び社会全体に良い影響を及ぼすかもしれない。

でもその反面、社会が機能しなくなる恐れも考えられる。

 

親になる本当の理由

思うに、ほとんどの親は理想的な親になどなれない。そしてそれは仕方がないのだと思う。また特別なケース(DVとか)を除いて、その方がいい時もある。

それは子供は不完全な親のところに産まれてきて、そこで苦労して学習の機会が増えるからである。そして親を含め全ての人間は不完全であることを学び、そこから忍耐も学び、赦しの機会にも恵まれる。

親は親で、悪戦しながら人間的に進歩を遂げていくのだから、

子育てが魂の成長の機会につながる。

 

では、なぜ魂が成長しないといけないのか?

それは気がついていなくとも人間というものは成長したいと思っているもので、自分が成長できる経験を知らずと選んでいることが理由にあげられる。

子育てもそれに含まれる。

 

そして数多くのこの世での学習の中で最も大切な学習は「愛する能力を高める」学習といっても過言ではない。

まさしく、この世に生まれてきたのは愛について学ぶためで、

人は親になることによってこの「愛」というものを最も効果的に学ぶことができるようだ。

 

おわかりのように、自分を嫌な目に逢わせない人を愛するのは誰でもできることで、簡単なことなのだ。その反対に、自分をイライラさせる人や怒らせる人を愛することはとても難しい。

それができるようになるための訓練を積むために生まれてきたのだ。

なるほど。

でも残念なことに、この訓練は難しく一日二日では終わらない。ずっと続くのだ。

 

それなら、良い母になる条件は簡単に満たせるものではなく、一生かけて満たしていくものではないだろうか。

だから今理想的な母でないと思っても、まだ終わっていないから大丈夫。

母業は結果だけでなくその過程も大切なのでは?

 

全ての事物は常に移り変わる

わたしは、三つの条件をまだ満たしていない。でも当初に比べると自分が変わってきたことを感じている。

1。忍耐:子育てが始まった時に比べると忍耐力がついてきた。

2。思いやり:子供に対しても同じ道を歩む他の親に対しても以前より思いやりが身についてきたと思う。親にならなければ親の気持ちはわからないもの。つまり人の気持ちをくむことが以前よりできるようになってきたかもしれない。

3。体力。これは年齢的な理由で下降線をたどるばかり。

体力がなくなってきたので、子供のことでいちいち目くじらをたてる元気もなくなってきたので、一見忍耐があるように見えるらしい。本当はただ疲れているだけ。

その点から見ると、体力がなくなることもいいことかもしれない。

 

母は今完全に条件を満たしていなくとも、魂の成長に向かって日々歩んでいることは確かなのだ。でも自分ではその成長があまりよく見えなかったりする。

覚えておくべきことは、どんなにゆっくりでも、いつも同じところにいるわけではなく現状がずっと続くわけでもない。子供も今の状態がずっと続くわけではない。その度に親側は調整を要求される。そこが難しいがいつかは慣れる。

 

全ての物事は常に移り変わっていくものだ。

今だけを見つめていると辛いことが多い。だから一瞬一瞬事物は変化していることを自分に言い聞かせ、子育てを通して人間としての成長を楽しみに生きていくことが乗り越えるコツかと思う。

 

良い母になる条件は現在進行形で今満たしている途中と思うこと。

今理想的な母に慣れていないと落ち込んでも、子供が一向に立派にならないと見えても、実は見えない成長を遂げていることが多い。

 

 This shall pass. (これもいずれは過ぎるはず)

とわたしは子育ての試練の場に立たされるたびにこのフレーズをマントラのように唱えている。

 

ドクダミママ至言

貴女が親になりたかったのは魂がもっと成長したいと思っていたから。

最も学びたかったことは最も崇高な「愛」という課題についてで、人を「愛する能力」を高めたかった。

貴女は「愛」について学習するために親になった。

よい理想的な母になるには一生を要する。

現在進行形で条件を満たしているから大丈夫。

事物は常に移り変わり同じところに留まってはいない。

だから今の状況もいずれ変わる。

見えない成長をどこかで遂げていることを信じる。

 

 

 

エンドレスラブ

 

 

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(出典:https://www.facebook.com/Mothers-love-is-deeper-than-sea-Mothers-Love-is-higher-than-sky-1377908912433896/

The mother's love is deeper than the sea.

「母の愛は海よりも深し」とはよく聞く言い回しだ。

 

それは自己犠牲の上になった愛で、

常に我が子のことを思っている愛で、

我が子を何よりも最優先させる愛で、

それは海のように深く、

海のように終わりがない。

 

なぜ母親はそうなってしまうのか。

何が母親をそうさせるのか。

 

それには生物学的な理由が考えられる。

オキシトシンというホルモンである。

オキシトシンは一般的にラブホルモンと言われているように、このホルモンが分泌されると養育的な感情や行動を刺激し良い気分になる。

このオキシトシンは出産時の陣痛及び母乳の分泌も引き起こす。

 

母親のオキシトンレベルは母子の絆を深める役目を持つ。

哺乳動物は妊娠中及び産後にオキシトシンの分泌レベルが劇的に上昇する。

そして母親が子育てに参加すればするほど、このオキシトシン分泌が増加する。

 

ということは、子育てを長く続ければ続けるほど、オキシトンも増加していことになる。(養子でも子育てを続けることによりオキシトンが分泌される)

結果的に母親の我が子に対する絆や深い愛情や、それと同時に心配も増えて行くことになる。

 

つまり、このオキシトシンというくせ者が母親を母親ならしめ、それと同時に崖っぷちに立たせることになる。

 

オキシトシンは子供の

夜泣きに付き合わせ、

わがままと癇癪に対応させ、

慰め役や励まし役を務めさせ、

学習のサポート、

外部との対応、

病気の看護、

あらゆる分野の教育係

を長期間に及び休憩なしで強制的に実践させる力を持つ。

自分のことなどすっかり忘れさせ、おろそかにさせるほどの影響力を持つ。

 

これを人は「愛」と呼ぶが、「愛」だけでこれだけのことはできない。

なぜなら泣き叫ぶ我が子に対して常に一分一秒「愛」を感じるかというとそうではない。

横暴な態度の子供を前にして「愛」などという気持ちなど遥か彼方に飛んでいってしまうことなど、いくら母でも当たり前のこと。

ではなぜ母親は「愛」という気持ちが一瞬消えても、子育てを続けることができるのか。

それはオキシトシンのせいに他ならない。

 

それは自然が母親に与えてくれたもので、これがなければ哺乳動物の乳児は生命を維持させることができない。

誰かが自分の命を犠牲にして乳飲み子を生かしてくれないといけないのだ。

それはいうまでもなく母に他ならない。

 

これが母性で、社会がどう変わろうと、この部分は何も変わるところがないのではないだろうか。どんな先進技術が開発され生活がより便利になっても母業にとって変わることはできない。

あなたの仕事の代わりはいくらでもいる。でもあなたの子供の母親になれる人はいない。子供がちゃんと育たないと社会に迷惑がかかり結果的に自分に降りかかってくることになる。

このことからわかるように、母業は最も軽んじられ易いが実は最も大切な仕事なのだ。

それを考慮するなら、世の中で最も大切で最も偉大なのが母の仕事かもしれない。

 

こんな母業に多くの人が神聖ささえ感じると語っている。

そこには何か深い意味がありそれを担う役目に任命されたといっても過言ではない。

母業は使命とさえも言える。

オキシトシンにバックアップされた「慈愛」という名の偉大な仕事なのだ。

慈愛には底を突くこともなく終わりもない。変わることがない。

その愛は洞察力に冴え、肉眼では見えないものを認識する力を備える。

その愛は無条件で透明で時に心を粉々にさせるほどの力を持つ。

 

母の仕事は偉大だ。

 

ドクダミママ至言

母業はオキシトシンという自然の贈り物によって子育てがサポートされている。

どんなに技術や科学が発展しても母の代わりになるものは世の中にはない。

だから社会で最も貢献度の高い仕事であるといっても過言ではない。

そして最も神聖で、最も美しい仕事である。

あなたは選ばれた女性なのだから、それに誇りを持ってほしい。

 

 

 

 

ナゲキバトと藁

家の軒下にナゲキバトの巣がある。

 

ツガイの巣だと思っていたけれど、雛鳥がいることがわかった。

母鳥が雛を隠していたのでよく見えなかったのだ。

 

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巣作りに励む母鳥。

母鳥は常に雛の上に座り込み雛を温めているようで、その間、父鳥は頻繁に飛び立ち、その度に餌や巣を作る材料を持ち帰ってくる。

往復頻度が多い割には一度にほんの少ししか口にくわえることができないため、巣作りははかどっていないように見えた。

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狩猟と建築材料獲得から戻る父鳥。

 

効率的でない。

 

そう思った夫と私は、巣の下の地面に藁を置いてあげた。

いらぬお節介だったのかもしれない。

ナゲキバトの父親は2〜3本取って行っただけだった。

そのかわりもっと硬い小枝ばかりを運んでいる。

より頑丈にするためか。

 

その様子を見ていてあることに気がついた。

人が良かれと思って先回りしてやってあげたことでも、それが必ずしも気を利かせたことにはならないということを。

その鳥によってニーズが異なるため役に立つとは限らないのだ。

硬い小枝では居心地が悪かろうと詮索したのは相手の立場を何も理解していない自分達だった。

 

それと同じように

親も子供のためを思い色々先回りして助けてあげようとするが必ずしも本人のためになるわけではない。

おそらく子供は自分に何がベストか既に知っているのだろう。

それを検討に入れずちょっかいを出しても

子供にとってはありがた迷惑なのだ。

 

おぼつかない我が子を信頼してあげることの大切さ。

藁を与えたことはナゲキバト(我が子)を信頼していないこと。

それをナゲキバトの父親に教えてもらった。

 

その名称どおりの憂い声が我が家の敷地にこだましている。

何を憂いているのか。

何もわかっていない愚かな人間に嘆き悲しんでいるに違いない。

 

ドクダミママ至言

どんなにおぼつかないと見えても子供を信頼することは大切。

子供の思いは親の思いの届かない遥か彼方にあるもの。

でも親はそれを理解することが下手で発見することさえもできない。

 

子供の心は心の目で見てあげること。

その方法として、自分のアジェンダがどんなに素晴らしく完璧でも、それは一旦横に置いて、自分の心を子供の心の中に置いてみることが挙げられる。

 

そうすれば見えてくるものだ。

 

母誕生

 

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パステル画。作者:わたし。

実は時々コミッションで肖像画を描いている。絵の中の女性はこの春ご長男を出産したばかりの若い母親。(子供を産んだばかりとは思えない美しさ!)

 

母になると

出産の日、全ての新しい母は聖母になると言っても過言ではない。

疲労の只中で、言葉に尽くせない感動、つまり生命の不思議と偉大さを感じるのだ。

実に、産まれたばかりの赤ちゃんを見てなぜルネサンスの絵画に出てくる天使のほとんどが赤子であることが納得できる。

その清らかと完全さに圧倒される人は洋の東西を問わず時代を超えて途絶えることがない。

 

母になると、女性は今までの人生に全くなかったような新しい経験に遭遇するものだ。

人生が全く変わってしまったりする。

それは子供を産むことで、女性は肉体的だけでなく心理的な変貌を遂げるからである。それには自分の興味分野や好みだけでなく、新しい価値観の誕生をも意味する。

 

出産と子育ては女性の心を新しい希望と恐れで一杯にする。

必要性に迫られこれから何を優先するべきかを新た吟味させられる。

また出産は全ての身近な人間関係に影響を与え、一族の歴史の中での自分の立場と役割を再定義することにも影響を与える。

つまり女性は母になることで自己中心的な存在ではなくなるのだ。

反対に、より大きな大宇宙の流れの一部となって生きる存在となる。

それを認めようが認めまいが、その生き方には深遠な意味が潜んでいることを女性は心の奥深いところで感じている。

 

誕生

赤ん坊が胎児及び乳児の過程で成長して行くように、

女性も多くの月日を経て、心理的に母として誕生過程を経験する

つまり内面の変貌を遂げるのだ。

そして新しいアイデンテの構築が起こる。

 

母は生まれながらにして母ではなく

この経験を通して母として生まれるのだ。

つまり子供だけが誕生するのではなく

母も誕生することになる。

 

誕生には両者に痛みを生じ、

特に母には感情の混乱という痛みが伴う。

混乱と痛みを繰り返しを経験しながら女性は真の母になって行くのだ。

それは母という役割を通して自己の成長を遂げて行くことを意味する。

この段階で、女性はもうただ単に女という性の人間ではなく、母なのである。

だたやはり真の母に脱皮するには時間がかかる。

 

思うに、

どんなに長くかかっても

その脱皮の過程に最も意味があるのではないだろうか。

 

ドクダミママ至言

子供を授かり育てることにはただ単に生物学的な意味のみでなく深遠な目的と意味を宿している。だから、生きていることの真の意味を考える機会にもなる。

女性は生まれながらに母親ではなく出産と子育ての過程を通して母となる。それには感情の混乱や痛みが伴う。

けれどもその経験を通して自己も成長して行く。

真の母に脱皮して行くには時間がかかるがそれでもいい。

その成長過程に意味があるから。

 

母の日が嫌い

 

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(出典:https://www.substanceusecounselling.com/blog-articles/what-to-do-when-adult-children-fail-to-launch

 

最も嫌いな日

わたしの一年で最も嫌いな祝日ははっきり言って

母の日だ。

 

母の日が来ると憂鬱になる。

なぜって?

それは自分が立派な絵に描いたような母親にどう頑張ってもなれないからである。

母の日が来るたびに自分の足りなさを思い知らされ、罪悪感と落胆で打ちのめされる。

この日にダメな母だと公式にレッテルを貼られているようなものだ。

だから、「ありがとう」は嫌味にしか聞こえない。

 米国ではこの日に緊急病院にそして翌日に精神科に駆け込む母親が結構いる。

 

子供達は母の日に「お母さんありがとう」とカードをくれるものだ。

でも本当にそう思っているなどとは思えない。

本当にそう思っているなら日々の態度にあらわれるものだ。

でも今の所ほとんど見えない。

数年前に次男がカードにこんなことを書いていた。

「今の自分の姿があるのは、お母さんのおかげだよ。ありがとう!」

 

なにこれ????

あんたは人生めちゃくちゃでしょうが?

なにがありがとうなの?

めちゃくちゃなのは母のせい、とでも言いたいわけ?

こんな台詞は絶対ネットから写して来たに違いない。

 

随分前までは、娘が母の日になると朝から頑張ってケーキを焼いてくれた。

息子たちは遅く起きてきて

「ああ、いい匂いだな〜。なんかあるの今日?誰か来るの?」とほざいていた。

 

娘はそれを聞いて、

「アホ〜〜〜〜〜〜!」

と叫んでいた。

 

ついでにケーキをほとんどたいらげたのも息子たちに他ならない。

 

我が家の息子に限ってはこんなもの。

それで父親に促されて強制的にカードに「ありがとう」と書かされていた。

そういう言葉を書くのが常識だからだ。別にそう心から思っているわけではない。

 

今は長男がメールをくれるだけ。

娘はカードをくれる。

残りは自分のことしか考えていない人間なので母の日がいつさえも覚えていないに決まっている。

 

思うに

母の日なんて祝日がなければ

母は子供から正式な感謝の言葉をもらう日はないかもしれない。

日本では結婚式に感謝の言葉をいただけるが、アメリカにこんなのはない。

多分死ぬ直前だけかもしれない。

でもアメリカでは、息子は母の死に目に「ありがとう」ではなく「ごめんなさい」を言うケースが多いそうだ。なんかうなずける。

 

まあ、こんなもの。

母親は犠牲に見合わない結果に泣くことも多い。

結果が出ないのは社会では母親のせいと裁かれることも多い。

だから母の日は審判に立たされるようなものだ。

「お前は最低の母親だ」と判決を下される。

その日が母の日なのだ。

そして処罰は翌年の母の日まで(精神的な)牢獄暮らし。

辛い。

 

努力は味を結ばないもの?

2017年7月11日付の日本の新聞にこんな投稿が載っていた。

 

題:努力は味を結ばないのね

 

虫歯で苦労しないように仕上げ磨きを欠かさなかったのに、

今じゃあ歯磨きをしない男に。

毎晩本を読み聞かせていたのに、

今じゃあケータイ以外の活字は読まない男に。

保育園や学校の給食表を冷蔵庫に張り、

献立が重ならないように手作りしていたのに、

今じゃあカップ麺大好き男に。

環境のために親子でエコ活動していたのに、

今じゃあ一面ゴミの部屋で暮らす男に。

 

少子化万歳。

こんな理不尽な母親になれなんて、未来ある人に絶対言えない。

徒労感でいっぱいで、私は卒親する気満々だ。

ただ溢れる愛で、大切な存在を守ることに必死だった日々。

幻でも一時それがあったことに感謝している。

卒親に当たって息子らに一言。

「努力が全く味を結ばない世界があるってこと、教えてくれてありがとう。」

(西東京市、疲れた母、55歳)

引用元:http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1499752528/

 

心から同感。

 

でも我が家の息子たちはだらしないのは良くなって来たようだ。(娘はまだまだ)

親の勧めは聞かないが、伴侶と恋人には耳を傾けるらしい。

だからいつか親の教えて来たことを思い出してくれる日も来ると信じている。

無駄ではない。

ただやっぱり結果が出ていないうちは、犠牲は全て無駄に見えて来ても仕方がない。

母業は理不尽な仕事だ。

 

こんなに努力が味を結ばないのは親業に関してはありすぎるくらいだ。

それならなぜこんなに頑張ってしまうのか。

女性はバカだと思う。

出産も子育ても大変なのに子供をもうけ、ずっと信じ続け、ずっと重荷を抱え耐え忍ぶことばかりだ。わかっているのに、どんなに時代が変わってもやめようとしない。泳ぎ方も知らないのに、大海原に自ら飛び込んで行っているのだ。まさに自殺行為そのものでなくて何なのだろうか。

 

癒し

この日曜日に一年の判決の日がまたやってくる。

神に、子育てがうまくできなかったことに対して赦しをこうしかない。

結果はどうにも仕方がなく謝るしか術がない。そして母の努力と犠牲を台無しにしてくれた我が子をも赦すしか道はないのだ。

黙って自分の心の奥深くにある痛みを受け入れ愛する。

胸が軽くなるまで泣いて泣いて

その涙で心の中の塊を溶かす。

そして全てを手放す。

手放さない限りは癒しはない。

癒されなければ母は永遠に幸せにはなれない。

 

Happy Mother's Day

英語圏では、母の日のカードには "Happy Mother's Day"と書かれていることが多い。

 "Thank You Mother's Day" ではない。だから母の日は「ありがとう」と言ってもらえる日ではなくて、

母が幸せになる日のことを指す。だから家族はこの日に母親が一瞬でも笑ってくれるように企画を立てる。日頃の感謝を込めて。

でもこんな一瞬の感謝は一瞬であって長続きはしない。

ちゃんとしていない子供を目の前にして、どんなに感謝してもらっても、特別なお祝いなどしてもらっても、母は心からの幸せなど感じることはできないのだ。

 

日本語では「母の日おめでとう!」というが、子供がちゃんと育たないで、何がおめでたいのか?と思う人も多いのではないだろうか。

子供は母の長期的努力の成果物とみなされており、成果物がひどければどんな優しい言葉も母には届かない。

ずっしりと重たい石ころが胸の中に居座っているのだから幸せに感じられなくて当然だ。

 

癒されるために

でも子供の個性ややっていることが全部平均以下というわけではないのだと思う。

いいところも絶対あるはずだ。

ただそれは見過ごしてしまいそうな小さなことの方が多いかもしれない。

 

我が子を全体的に見るのではなく、それぞれの子供のいいところを個別に探してみると、今まで見えなかった何かが見えてくるのではないだろうか。

重箱の隅をつつかないと見えてこないこともあるかもしれない。

でももしそれができるなら、母として自分が我が子にしてあげたことの中に何か良いこともあったかもしれないと思えてくる。

それが発見できれば、達成感が得られ、結果的に幸せを少しは感じることができる。

母になったことを感謝することも可能になるかもしれない。

 

母の日は癒される日。

癒されて幸せになれますように。

 

ドクダミママ至言

子供のために何かをやってあげるときはただ愛情からやってあげるだけで、何も期待してはダメ。

成人した我が子は自分の好きなように生きる権利がある。目をつむり、耳栓をして、なにも知らないふりをするべし。子供のことは天に任せ自分のしたいことにでも没頭する方がいい。子供が成功していなくてもどうなろうとも、それは母のせいではない。人はそれぞれ自分の人生に責任がある。上手くいかないのは誰のせいでもない。それに自分で気づくまで(どんなに辛くとも)そっとしておいた方がいい。

母の日は母が母としての幸せを探す日。

見過ごしてしまうような子供の小さないい点を探すことによって母親としての幸せを見出だすことができる。

 

でも、やっぱり、どうしても母の日が辛いなら?

そんな見も知らない他人が設定した祝日など無視して、自分で自分にふさわしい祝日名をつければいい。例えば、美人の日とか、化粧品の日とか、痩身の日とか、ファッションの日とか、美術館の日とか。う〜ん。考えただけで楽しくなってくる感じがする!

なんで全く面識のない人が万民に良かれと思って設けた祝日を祝わないといけないのか?嫌なら参加しなくてもよく、自分で勝手に決めればいいんじゃないの?

私はこの日曜日は母の日じゃあなくて、環境美化の日(要するに家の掃除の日)と呼ぶことにした。わたしは子育てより掃除の方が得意である。得意な分野で認めてもらいたい。

その方が絶対に幸せになれる。

 

 

子育てが楽しくない

 

 

 

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言わずと知れた怖い現実(出典:https://news.com.au//lifestyle/parenting/kids/the-terrible-unspoken-truth-about-having-kids/news/news-story


子育てが楽しくない。

そう思っている母親が沢山いる。

あなたもその一人だろうか。

 

でもそもそも子育てとは楽しいものなのだろうか?

そこから考えて行きたい。

 

はっきり言って

子育ては仕事である。

仕事は毎日楽しいことばかりだろうか?

もし仕事に行かなくていいならみんな休みたいはずだ。

確かにやりがいがある、という人もいるだろう。

でも遊園地気分っていうのはないのでは。

仕事だから嫌なこともあるしチャレンジもある。

だからいつも楽しくなくて当たり前なのだ。

 

でも子供と一緒に遊んだり、子供の屈託のない笑顔を見たときなど、楽しさや幸せを感じる時が全くないわけでもない。

ただ、普通の生活の中の単調な繰り返しの多い子育てが、つまり仕事が楽しくないと感じられるのだ。

 

それは当たり前で、

常に楽しい感情を期待する方が間違っているかもしれない。

 

楽しくなくて当たり前。

そう思った方がいい。

子育ては仕事。

もっともやりがいがありもっとも努力に見合わない仕事。

 

お給料もボーナスもない、週7日24時間勤務で、退職金も出ないし、達成感の感じられない時がほとんど。おまけに当たり前だと思われていて感謝も滅多にされない。それだけでなく、あまり尊敬もされないし、尊敬どころか、子供の暴言に耐えないといけない時も多々ある。そして子供は経験不足と未熟さから予想のつかない事件を起こしやすく、往々にして大人の極めて平和な生活を乱すきらいがある。また、家に小さな子供がいると計画性のない生活に陥りやすい。毎日何やってるんだかわからないし、ただ振り回されているだけ、と思う親が洋の東西を問わず大多数を占めるはずだ。

 

こんな労働条件下では、

どんなに我が子を愛していても、楽しくない日が沢山あっても当たり前なのだ。

だから、そもそも子育てが楽しいなんて期待する方が間違っているかもしれない。

 

子育ては

長い耐え忍びの連続。

思い通りにいかないことの方が多い。

 

子育ては無給の仕事。

無給で文句言われてもね〜。

無給でプロレベルを要求されてもね〜。

困ります。

 

1週間に一回くらい、「なかなかいいかも」と思える日が一瞬でもあればラッキー。

あとはルーテインが多く、ただひたすらこなしているだけ。それが辛い。

 

でも子育てには意味がありより深遠な目的も存在する。それは親のトレーニングだ。

日々の単純な事柄に感謝できるようになるためのトレーニング。

つまり子育ての目的は謙虚になること。

謙虚になると感謝する気持ちが芽生えてくる。

小さなことに感謝できる人になれれば子供との単調な生活に意義を見いだせるかもしれない。そして小さな楽しみをそこに見いだせる。

 

でもそんな気持ちにどうしてもなれないタイプの人は、仕事として子育てに向き合うしかない。

そう、ただの仕事。

面白くなくとも楽しくなくともいいのだ。

自分自身に「楽しいかどうか」なんて聞かない方がいい。

そういう感情を無視して仕事として向き合う。

それが対処法の一つかと思う。

 

ドクダミママ至言

子育てはいつも楽しくなくてもいい。

子育てはただの仕事。

仕事として捉えられれば感情に振り回されずに済む。

でも一番いいのは感謝することを見つけること。

日々のどうでもいいような小さなことに感謝することを見つけられれば、幸福感がみなぎってくる。子育てにも感謝できるようになる。

謙虚さが欠けると子育ては苦痛以外の何物でもない。

 

裏切り

 

 

 

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(出典:https://www.pajiba.com/miscellaneous/how-do-i-tell-my-conservative-parents-im-in-love-with-someone-theyll-hate.php

こんなことをどこかで読んだ。

裏切るのが子供の使命で、

裏切られるのが親の使命。

と。

 

それなら、我が家の子供達は自分の使命を見事に全うしていることになる。

そして裏切られたわたしたち親は自分たちの使命に向き合わせられている。

 

裏切り、つまり反逆罪は18世紀のフランスならギロチンの刑。

米国憲法によると反逆罪は最低5年の刑務所行きプラス日本円で最低百万円の罰金、もしくは死罪と決まっている。また米国官職に就くことが禁止されている。18 U.S. Code § 2381. Treason

 

だから我が家の子供達の反逆罪は、

ギロチンの刑!もしくは罰金と監禁となる。

 

でも子供たちは何も悪いことをしたとは思っていないようだ。

 

通常親は、子供にたくさんの時間と犠牲と愛情をかけ、こんなにやってあげているのだから我が子が裏切るなんてありえないと心の中で思っているものだ。親の真心を絶対に考慮してくれるものと思っている。

けれども、裏切りはほとんどの場合存在する。

子供は親の思い通りになどならないからだ。

それを親は裏切りと呼ぶかもしれない。

でも子供の立場からすると、それは裏切りではなく、ただたんに自分の人生を生きたいだけなのだ。

わかっていても、親の立場からするとやっぱり裏切りに見える。

子供が自分の人生を勝手に生きることを親は裏切りと呼ぶのだ。

親の犠牲を無駄にし、親の期待を裏切った犯罪なのだ。

 

わたしと夫には子供たちにこんな感じの大人になってほしいという願いがあった。

でも子供たちはそれを迷惑がるようになった。

それは私たち親の勝手な要求であり期待であったからだ。

別に、一流大学に行ってほしいとか、一流企業に入ってほしいとか、人が羨むような仕事についてほしいとかはなかった。

かといって心が優しければそれでいいというのもなかった。

ある最低限のレベルがあってそのレベルに到達してもらいたいとは思ってた。

そのためにありとあらゆる援助をあげた。

でも子供たちはそれを思い切り蹴ってくれた。

 

結論。

やってられません。

この一言。

 

それで

今子育て真っ最中の親御さんに一言。

「裏切りは必ずやってくる。

だから期待しない方がいい。」

どんなに可愛くても、なんでもやってあげたくても

しない方がいい。

してあげることによって期待感でいっぱいになるからだ。

 

何もできるようにならなくとも

親が思うような立派な基準に到達しなくとも期待もなければがっかりすることもない。

だから

ただその子の存在とその子独特の可愛い個性を笑って見ていてあげるだけでいい。

 

つまり必死にならないということだ。

真面目に子育てなどしない方がいいということ。

親は子供のために様々なことを教えてあげたい。

でも本人が教えて欲しくなければ意味がない。

あとで結局、色々教えてくれてありがとう、と言うかもしれない。

お母さんは正しかった、と言ってくれるかもしれない。

でもそれには何年かかるのだろうか?

あなたはそれを気長に待つことができるだろうか。

期待された子供は親に対して嫌な気持ちを抱いていることも多い。

親子の関係を狂わせることにもなりかねない。

それでもいいと言えるのだろうか?

 

裏切られるのが親の使命。

裏切るのが子供の使命。

子供に嫌われたりするのも親の使命。

それが普通で、それ以外は例外。

そう考えておいた方がいい。

そう考えておいた方が精神的に楽。

 

そんなものだ。

だからあなたの子供が裏切ったら

「使命を生きているね」と褒めてあげるといい。

そしてがっかりしている自分自身にも

「しっかり使命を生きているね」と褒めてあげるのだ。

わたしのように、しなくていい努力をしてしまったと後悔しているなら、

そこから学んだことをリストしてみるといい。

何か学ぶことがあったならそれでよしとする。

そして後ろを振り返らず前だけを見て生きる。

それも大切かと思う。

そして、親のエゴによる期待が根本的に間違っていたことに

気づかせてくれた子供に感謝しよう。

 

ドクダミママ至言

親を裏切ることが子供の使命。

裏切られるのが親の使命。

子供に嫌われるのも親の使命。

それが当たり前。

もし裏切られたと思うなら、

それは世の中のほとんどの親と同じということになる。

だから裏切ってくれた子供に自分を平均的な親にしてくれたことを感謝するしかない。

そして落胆し悲しんでいる他の親の気持ちのわかる人間にしてくれた子供に感謝。

親になるって辛くて苦しいね。

 

 

 

 

冷え切った心

 

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涙に暮れる母親(出典:https://www.mnn.com/health/fitness-well-being/stories/why-do-we-cry

地下に次男夫婦を住まわせている。

経済的に不安定な彼らの助けとしてせめてできることはこんなことしかない。

 

彼らの住まいは、

台所、バスルーム、寝室、ダイニング、リビング、書斎、と完全に二世帯住宅化している。これを他人に貸せば1ヶ月最低1200ドル(12万円)は取れる。

でも、家賃はタダにして光熱費だけ払ってもらうようにしている。

感謝の気持ち?

あるかもしれないが、息子は決して口には出さない。

それどころか「当たり前だ」態度が目立つ。

 

最近、下から、息子のコンコンと咳をする音が聞こえてくる。

このご時世、コロナウィルスに感染したかもとふと思った。

自粛するようにとの命令を無視して、彼らはほぼ毎日買い物に出かけている(嫁が買い物大好きだから)。自宅に友達を呼んだりもしていた。

嫁の実家にも頻繁に出かけて行く(メキシコ人にとって親戚に会えないのは自殺行為?)。

そのせいかもしれない。

 

免疫の低い彼にはコロナ感染はあり得る。

最初にしたことは、娘に地下に行かないようにという勧めだった。

そして次に、地下には私も出入りする洗濯室があるので、そこを殺菌することだった。

ドアをノックして「大丈夫?」なんて優しい言葉もかけない。干渉するなと怒鳴られるのが目に見えているからだ。

 

娘は息子が亡くなったりでもしたら私が泣くかどうか聞いてきた。

多分たくさん泣くと思う。

でも長くは泣かない。

運命だから仕方がない、と言うに違いない。

 

それは私の心はほぼ完全に冷え切ってしまったからだ。

息子のことで泣いていた時はまだ心が熱かった時だ。

でも、泣きすぎてカラカラになったダムからこれ以上出てくるものは何もない。

何を聞いても

「I don't care. (どうでもいい)」しか口から出てこない。

夫も同じことを言っている。

 

周りの人には決してこんなことは言ってはいけない。

言ったら、なんて冷たくひどい親だと言われるだろう。

でももしこれ以上息子のことを心配するなら、すでに傷と割れ目だらけの自分の魂が完全に破壊されてしまうことは簡単に予想される。

 

これは自分の魂をこれ以上傷つかせないための、自己防衛術なのだ。

氷のように冷たくなっても、太陽が出ない限りは溶けることもない。

壊れやすいガラスの魂では生きていけない。

だから今は冷たい氷になることにしたのだ。

 

氷の心は何も感じない。

こんなもんだ、と開き直っている。

悲しみも落胆も、それだけでなく喜びも感じない。

 

結局、自分の人生でさえどうにもできないのに、子供という他人の人生をどうにかすることなんて無理があるのだ。

子供は親とは異なる別の人間で、自分の人生を自分自身のやり方で生きていかないといけない。当然失敗もある。でも親は失敗から救ってもあげることもできない。

親には何もできることはないのだ。

それは悲しい。だから魂が打たれっぱなしで傷だらけになってしまう。

 

泣き人生に終止符を打つためには、どんな大嵐が来ても何も感じないようにするしか親には術がない。

粉々になって修復不可能となる前に手を打たないといけない。

感じやすい母は美徳かもしれない。でも感じやすい母は命取りでもある。

 

子育ての後に悟ったことは、

運命は存在する、ということ。

だからそれを謙虚になって受け入れるしかない。

受け入れたら奇跡を信じることも可能。

ジタバタしているうちはまだまだだと思う。

 

ドクダミママ至言

母親は自分の心を守るための戦術が必要。そうしなければ、異常に手のかかる子供に振り回され、魂は破壊される。Broken heart つまり心が打ち砕かれるということは医学的にもあることだとその手の書物で目にした。人の文化はそれを美化する嫌いがあるが、どんなに美しいと言われていても、避けて通った方が賢い。それは魂を守るため。

運命も奇跡も存在する。それを信じながら全てをあるがままに受け入れ淡々と過ごすこと。それが氷の心になること。