離婚願望
最近、自分の周りで離婚の話を聞くことが多い。
階下の住人も離婚を繰り返してる人だし・・・
自分も子育てが終わってから放心状態が続き
見失った自分を回復させるために現場から逃げたいと思った。
精神的だけでなく物理的に逃げたかった。
全てを捨てて遠くに逃げたいと思った。
家族を見捨てて遠くに離れたい。
日本が恋しくてたまらない。
やっぱり生まれた国に勝つものはないのだ。
アメリカの馬鹿でかい家や敷地なんていらない。
四畳半のアパートでこたつに入ってお茶漬け生活を満喫したい。
なんでも近場にある店。なんでも美味しい食べ物。
電車に乗って勝手にあっちこっちに出かけられる。
犯罪が少なく平和な国。
外国にいて歳をとってくればくるほど日本の良さが見えてくる。
それを言うと、
夫は「僕も一緒に行く!」とか言ったので、
わたしは「ついてこないで。一人になりたい」と言った。
夫は黙りこくった。(ああああ、可哀想・・・・💦)
確かにそうやって生きていく方法もあり得る。
ネットでも若年離婚ではなく熟年離婚がなぜか目に入る。
特に最近では自分軸で生きたいとか自分に正直に生きたいという理由で離婚する人もいる。
これは・・・よくいえば現状打破だけど、悪くいえば・・やっぱり逃げ・・・。😅
こうやっていつも
子供のために夫のためにと自分を犠牲にしてきた。
やりきれない気持ちになることも多々あった。
そろそろ自由になりたい。
正直に生きたい。
と妻たちは言うのだ。
でも・・・
自分に正直になって生きるってどういうことなのだろうか?
自分に正直になって誰かが不幸になるって私にはなかなかできない。
だから自分が不幸になるしかない・・・という古臭い考え方に縛られている。
でも、なぜか人としてやってはいけないような気がしてならないのだ。
わがまま
その本当の理由は夫を見捨てられないからでもある。
今まで連れ添ってきたし、たとえ「馴れ合い」でも一緒にいてあげるべきと思うのだ。
夫の健康に問題が出ていることも大きな理由の一つでもある。
それにどう考えてみても離婚は自分のわがまま以外に考えられない。
まずうちの旦那様は
高収入ではないけど
毎日仕事に励んでくれている。
暴言を吐くわけでもないし
暴力もない。
彼をいつも尊敬しているわけでもないし
好きで好きでたまらないわけでもないし
すでに結婚自体とこの結婚相手に「飽きた」なんてお互い様だし
当然性格の不一致なんてあるし(ない夫婦っているんですか???)
イラっとすることもある。
生理的に耐えられない癖もある。(耐えてます💦)
なんでこの人と結婚してしまったのか・・・と自己嫌悪に陥ること何億回!
ついでにこのアメリカという国が無性に嫌になりそのことで暗くなる日々もある。
そしてその嫌な国の市民と結婚してしまった我が浅はかさに何も言えない。
でも結局のところ夫をすっごく嫌いというわけではないのだ。
(自分は基本的にあまり嫌いな人はいない・・・)
要するに・・・なんか・・・かわいそうでできない。
私はいいけど、彼はかわいそう。
だからできない。
自分も伴侶も未完成人間
よくよく考えてみれば
彼にも色々あるけど、自分にも色々ある。
二人とも不完全で未完成人間。
だから彼の足りないところばかりを見ている自分がいけないということにもなる。
(でも自分の方がマシ!と多くの妻は思っている!😅)
立派な伴侶を望む前に自分がもっとマシになる努力。
それが欠けていると文句が出る。
だから離婚を打ち出す資格などないのだ。
おそらく夫の方が打ち出したいくらいだろうけど、我慢しているのだ。
きっとそうに違いない。
でも彼は賢明なので何も言わない。
外では立派な妻だと自慢していると聞く。(のわけないでしょ?!)
(愚妻なんてアメリカで言ったら即刻離婚になるので、嘘でも褒めるのが鉄則!😅)
で、彼の妻(わたし)はどうかというと滅多に外で夫を褒めたりなんてしない。😰
最低。
自分のことはさておき、伴侶の悪態をつく人は忍耐と慈愛が足らない人間である証拠。
さらに、これは最も自分軸がない生き方なのだ。なぜなら自分の幸せが他の人に左右されているからだ。
つまりある種の依存症。
相手にどうかなってもらえたら自分が幸せになれるという考え方ではなくて、結局自分なんだと思うのだ。
(それと同様に、アメリカの嫌なところを挙げ連ねていても問題解決にはつながらないのだ。やっぱり結局のところ自分が変わらないといけないのよね・・・😅)
それで、長い試行錯誤や葛藤を乗り越えたあと(子育てみたいですね?)自分が死の床に臥した時に、連れ添ってよかった・・・と初めて思えるのもしれない。
結婚とは多分そういうものなのだ。
結婚する理由は恋。でも継続させるには「深い慈愛」と「根気」が必須なのだと思う
結論
最も大切なことは、結婚を通して自分の人格を成長させることで、
結婚の目的は家族を持つこと以外に、理解と慈愛のある人間になるための訓練場なのだと思う。
火の打ちどころのないほど素敵で人格的にも申し分ない人を愛するなんて誰でもできる。
でも問題あり人間を愛し続ける(というか受け入れる)ことくらい大変なことはない。
だからそれができるまで頑張り続けるのが人生の目的なのかもしれない。
そのためには
結局現在の立ち位置でいかにして幸せになるか、その方法を見つけるのが課題ではないだろうか。
ドクダミママ至言
離婚が必須の時もある。
でもしなくて済むならしない方がいい。
もし伴侶が嫌いなら、好きになれるようにどうしたらいいかその方法を見つける方が離婚より簡単。
不完全な人を愛せる人が慈愛の人。
この慈愛の能力を高めるのが人生の本当の目的。
所詮、人は一人で生きてはいけない。
特に老後。😅