今日は日本はクリスマスで、アメリカはイブですね。
この日は日本では恋人と過ごすロマンチックな日かもしれませんが、クリスマスはご存知のように宗教的な祭日です。サンタクロースはすっかり商業化してしまいましたが、元々は聖ニコラスというカトリックの僧侶のことです。
ちょうど仏教徒が仏陀の誕生日を祝うようにキリスト教徒は家族で集まりイエス様の誕生日をお祝いします。それがクリスマスで、日本のお正月のような感じです。
それでは今回は核心をついたお話をしようかと思います。
ちょっと宗教色が出ているのでそれがお嫌な方は、下の文面は無視してブログを閉じてくださることをお勧めします。
今回のテーマは、どうにもならない子育ての中にあって自分がどのような方法で平安を得られるようになったかについてです。
信仰なんてバカらしい?
日本では宗教や霊的な事柄を忌み嫌う人が多くいるようです。
そんなものに頼る人は頭がおかしいか、弱い人間だと思っている知り合いもいます。
でもどうもそういう方は、実際は経典も聖書も読んだこともなく、読んでも内容をしっかり学習したこともなく、座禅を組んだこともなく、勤行を実践したこともなく、祈ったこともない方のように見受けられます。
わかってもいないのに、表面をちょっと引っ掻いただけか噂で判断しているように見受けられます。または頭でそれとなく理解しているだけで、心では感じていないのだと見受けられます。
でも、日本人が嫌う宗教というのは実は宗教そのものではなくて宗教団体なのではないかとも思います。そのため深入りしたりしたら「危ない」と思うのかもしれません。確かにどのような組織にも問題があります。宗教団体もその一つだと思います。完全な組織は存在していません。それはたとえどんな立派な教えを信じていても、人間ですから間違いを犯すことがあるからです。
自分自身も時々眉をしかめるようなニュースに嫌な思いを抱くことがあります。
それでも、そのような宗教団体の問題を抜きにして
本当はほとんどの方の心の奥深くには霊的な思いが存在しているのではないでしょうか。
人の根本的な存在の意味はここにあるような気がするのです。またここになくしてどこにあるのでしょうか。人の本当の存在とは魂であるからです。つまり人間とは肉体を持つ物体である前に霊的な存在なのです。
確かに、何がなんでも信じたくないし本当に信じられなくとも、別にその方に必要がなければそれはその個人の考えであり別に私がどうこう言うべきことではないのです。
もしかして
やっぱりそういうことが言える方は本当に強いのかもしれません。
私はそういう方が羨ましくもあります。それくらい強くなりたいものだとも思います。
でも同時にこうも思うのです。
そういう方には、大した試練がないのかもしれない、と。
なぜなら、人は本当に苦しくて耐えられない時に、神様や仏様にすがるしか道は残されていないからです。
そして信心は苦しみや試練の真髄を教えてくれるのです。
一般的に苦しみを避けて通れる人生を幸福と呼ぶようです。でも苦しみや悩みのない人生は皆無です。どうせ逃げれないなら、その中でいかにして生きていくか、それが生きることの真髄であると思うのです。つまり悩みや苦しみ中に喜びや学びを見つけていくのです。
たどり着いたところ
わたしはこのことをいうに恥じらいなどありません。
わたしは全然強くないです。弱く何もわからない人間だと認識しています。そして親になってますますそう感じるに至りました。自分には全てを解決する能力なんてないし、そもそも、自分の問題だって解決できないのだから子供の問題なんて不可能に近いとつくづく感じているのです。
確かに自分で解決できる部分もないことはないです。その場合は努力をします。
でも自分の最善の努力を何年も何十年も続けても結果が出なかったらどんな気もちになるでしょうか?家族や友人や専門家にも相談したけれどそれでも結果が出ず、心が晴れない場合はどうしたらいいのでしょうか?
これから一体何を頼りに生きていけば良いのでしょうか?
そういう風に悩む親は洋の東西を問わず結構多いようです。
そうやって自分も悩んできました。
やれることは全てやりつくして子供の問題解決に当たっても、親だって人間、教科書通りに進められないものなのです。
そんな時、どんな気持ちになりますか?
人智を超えた何かにすがりたいと思いませんか?
実際、ずっと泣きっぱなしでした。
この母という役目から逃げたいと思ったことも数え切れないほどあります。
自分の能力では抱えきれない重荷でした。
そんな時一体誰が私の涙を拭い不安を取り除いてくれるのでしょうか?
いろいろ探求した後に、究極的に私が最後に行き着いたのは創造主としての神でありました。
もちろんその前から神の存在については信じていたのです。でもその存在を強く感じるようになった、というかいやでも感じさせられるようになったのは親になったからです。
親になって自分が大したことがない人間だと嫌でも思わされるに至ったのです。
親になってすがるものが必要となったのです。
最初は、親の力で子供をどうにもできなければ、せめて心を落ち着かせる方法を知りたかった。だからどうしたらいいものかと模索が続きました。
心を落ち着かせる方法はたくさんあります。
座禅なども素晴らしいと思い実際に試してみました。
ヨガもやったし、他のメデイテーションも現在も生活に取り入れるようにしています。
仏教は自分の魂を強くしてくれるような気がしました。
でも自分にはただ自分の心を一時落ち着かせるだけではなくて、
誰かがどこかで我が子を見届けてくださっているという確信が欲しかったのです。
親にできないところでどうにかしてほしいと思うのは普通ではないでしょうか。
今どうにもならなくとも、もし本当に神様がおられるなら、その一粒の小さな種のような信仰に懸けてみたいと思わないでしょうか?
全てを良きに変えてくださる神
日本の従姉妹が「神が全てを良きに変えてくださるでしょう」と言っているのを常々思い出すことがあります。
でもこの「良き」とは親が思ってもいなかった方法で起きる「良き」であって親の思い通りになるということではないように感じています。
おそらく「神様が一番いいと思われる時に一番いい方法で」のことを意味するのではないでしょうか。
今はマイナスの状態でも、プラスに変えられる時がやってきて、そして現在の状態をバネにしてそれを乗り越える時が来る。
また自分の力でどうにもできないことを親も謙遜になって受け入れ、人智を超えた力により我が子を変えられる日が来ることをただひたすら信じる。
このようなある意味での「信仰」は大嵐の中で心やすらかに生きられる助けになるように感じています。
どうにもならないケースは否が応でも究極的にここにたどり着くようです。
全てを良きに変えてくださる方を信じるしかこの泥沼から出る方法はないと感じています。
私は長男と次男のことで、ニッチもサッチもいかないので、ずっと泣いていました。
そんな時「神様助けてください」と自然にその言葉を言っている自分に遭遇することが多々ありました。
それはわたしの心からの願い、つまり祈りなのでした。
すると今は最悪でも、いつかどうにかなるような気がしてくるから不思議なのです。
こんなことを言うと「神は見えない。ということは存在しない。だから信じるなんてバカ」という方もおられるでしょう。
確かに神様にお会いしたことはありません。
でも確かにそこにおられるような気がするのです。
自然を眺めていると、何かの目的でこれを創造された方がおられるに違いないと思えるから不思議です。規則正しく稼働している宇宙にもその制御担当者がおられるに違いありません。私はすべての命または働きの影にはそういう理解できない現象や力学が存在していると感じるのです。
つまり見えないものかもしれないけれど、世の中のほとんどの現象は見えないものの方が多いしわからないことの方が多いということを人間は忘れているのではないでしょうか。(コロナも見えない😅)最も大切な事柄は見えないものが多い。でも人間はその少しの見えるものから全てを判断しようとしているのです。
だから解決の糸目がつけられなくとも当然ではないでしょうか。
子供がどうにかなると信じられなくとも、自分よりもっと大きな力をもたれた方がハンドルしてくださると思れば気が楽になってくるから不思議です。
信じるとは、まだ起きていないことを、まだ見えないものをひたすら疑わずに信じること。
それが信仰の意味。
見えているものは知識であって、そんなものは誰でも簡単に信じらます。目の前に見えるのだから簡単に証明できるのです。
でも見えないものには信仰が必要。行き先の見えない子育てにも信仰が必要。
だから別にこういう方法で祈れとかどうのと勧めているわけではないのですが、こういう方法で心の苦しみを取り除けるならこんないいことはないのではないでしょうか。
それからこういう方法もあることを認識していることもいいと思います。
人によっては仏様に手を合わせる場合もあるでしょう。それもいいでしょう。
なんでもいいのです。
それであなたの心が穏やかになるなら。
人は苦しみが大きいとすがるものが必要なのです。
何も信じられず、親の努力でできることが残っていなければ、諦めるしかないでしょう。
でもそう簡単に諦められないのが母というもの。
なぜなら本当の意味での諦めとは、母にとっては死の宣告と同じだからです。
我が子がいつか目覚め、人生の舵をしっかりと取れる日が来ることを信じられなければ、母は生きた心地がしないのです。
今宵も手を合わせ、心の底から祈るしか母にできることはありません。
子供たちの心に語りかけ、最もふさわしい時にふさわしい方法で問題が解決しますようにと。
「全てを良きに変えてくださる神」とはそういうことを起こしてくださる神ということ。そして神が一番良いと思われる方法でいつの日かそれが成し遂げられるということをひたすら信じるのです。
人生を信仰によって歩むとは、一人で歩まず、神様と歩む人生のことを指し、一緒に歩めばたとえ真っ暗闇の道でも怖くはありません。
子育ても真っ暗闇のことが結構多いです。
だから一人で取り残されて絶望でおののくこともあります。
暗い道を灯が見えてくることを信じて歩む。灯がある先を見ながら旅先案内人の神様と共に歩む。
それが信じる人の人生。信仰とは暗闇を照らしてくれる松明のようなもの。
もしそれがあなたの親としての人生を向上させてくれるなら信じることに価値はあるような気がします。
親はどんなに子供を愛していても、全部の問題を解決してあげることなどできないのです。
そんな時は絶望しか感じることができません。
絶望の状態で生きていくことなどできるのでしょうか。
できっこありません。
だから私は手を合わせ、いつか親が思いもしなかった一番良い方法で、我が子はどうにかなる、と信じ続けるしかないのです。
たどり着いたところ
これを読まれで嫌な気持ちになられた方もおられるかもしれません。
でもこれは私の心からの証です。
30年間の子育てで得た答えはこれでした。
安心立命とは私の好きな仏教用語です。
その意味は天に運を任せ心安らかに生きよ、という意味です。
親は子供のことになるとなんでも自分でどうにかしようとあたふたと動きまくります。
でも実際親のできることなど少ないものです。
だからじっと腰を落ち着けて心を静かにさせることも大切かと思います。
そして任せるのです。
クリスマスの日に寄せて、皆様の心が穏やかに、
我が子を信じ希望を持って生きていくことが出来ますように。
そしてクリスマスの奇跡が
起こりますように。
ドクダミママ至言
目は真っ直ぐ前を見て
心を神(霊的なもの)に向けるなら
何が起きても安心立命でいられるのです。