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ドクダミママ至言

母業落第の果て:もっと早く知りたかった子育てへの答え

学校に行きたがらなくても大丈夫

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ニャン太、いつまでも寝てばかりいんといて、はよ起きんかい。学校に遅れるで〜!

 

日本には子供が学校に行きたがらないで悩む親が沢山いる。

登校拒否は家庭問題を通り越して社会問題とも化している。

 

実はわたしも大の学校嫌いだった。

 

何が嫌いかって、

それは・・・

 

学校の嫌なところ

いつも団体行動をしないといけない。

いつも人に囲まれている。

騒音。

興味のないことでもはり切って勉強しないといけない。

意地悪で思いやりがない教師が多くいる。

意地悪な子供がいる。

仲間外れや暴力を振るったりと子供たちは意外と残忍で野蛮。

競争を奨励する。

苦手な科目があって頑張ってもできない。(体育とかね。できないと同級生だけでなく教師からバカにされることもある。)

一日が長い。

一日中教師の説明を延々と聞いていないといけない。

体力不足のため学校に行っているだけでエネルギーを消耗し帰宅しても何をする気力も残っていない。

学校の教え方が自分に学び方と合わない。

とにかく学校の雰囲気が好きになれない。

 

でも行かないといけない。

学校が嫌いとかなんて口が裂けても言えない。

だからものすごいストレス。

 

私も登校拒否くらいした

一番嫌いだったのは小学校。

登校拒否?

したした。

1年くらいだったか。

小学校4年生の時だった。’

あの時は二番目の母が心臓病の手術で失敗して亡くなった時だった。

母の死亡だけでも手一杯だったのに葬式直後に引越しと転校を余儀なくした。

再婚の話も持ち上がっていた。

 

それでなくても学校は嫌いだったのだ。

それに加えて急な環境の変化にとても心はついていけなかった。

 

だから登校拒否に逃げた。

父は仕事でわたしは鍵っ子。

だから家の中で隠れていた。

父が時々昼食時に家に寄る時は押入れに息を潜ませて隠れていた。

 

この時わたしの複雑な心の変化に気づいてくれた大人は誰もいなかった。

引きこもって他人の目の触れないところで自分を癒すしか術がなかったのだ。

 

勉強なんて頭に入らない。

どんな面白い授業も馬耳東風。

でも興味のあることに対しての好奇心は旺盛で学ぶのは好きだった。

ただ単に学校の教え方が合わなかったのだ。

そして何よりも、

新しい家庭環境に順応することにエネルギーを取られていて勉強どころではなかったのだ。

全てを振り切って他の生徒たちと同じように行動する気力もすでに消え失せていた。

 

そう言うのを「わがまま」とか「自分勝手」いう大人もいる。

大多数に合わせられないし

謙虚になって先生方や親の望み通りにできないからだ。

 

楽しくないのに笑顔でいないといけない。

なんたって暗い顔をしているといじめられるし嫌われる。

日本では自分の心を殺して登校することは美徳だし、

当然、立派な人というのは我を殺して集団に合わせられる人のことを指す。

 

それは「わがまま」でも「自分勝手」でもなく個性の相違でしかないのに。

嫌いだけど我慢して耐えていると自分の声が聞こえない人間になるのだ。

そういう自分がない人は日本に嫌なくらいいるではないか。

わたしは自分の声は聞こえていた。

でも人前では本音を隠すように言われていた。

そうしたら自分の声が本当に聞こえなくなってきてしまった。

 

それならそれは学校のせいかというと学校のせいにもできない。

学校は所詮、大多数を教育する場であり、その大多数から外れてしまう子供は組織の犠牲者となる。仕方がないのだ。

なぜなら学校は一人一人のニーズに応えることができる機関ではないからだ。

行政も同様だ。国民一人一人を救ってあげることはできない。

 

それでわたしは

大人になってから日本を飛び出した。

留学したのだ。

それから学校というものが好きになった。

 

 

うちの三男

わたしの三男は大の学校嫌いだった。

幼稚園から学校嫌い。

お迎えバスが来てもドアにしがみついて意地でも離れようとしなかった。

親は困り果てた挙句

諦めることにした。

ま、無理やり行かせなくともいいか、と楽観視。

学校側からは「通学は親の義務」と言われたがそんなのは無視。

 

そもそも、”通学”は法律では義務ではない。

教育を受けることが義務なのだ。

ただその方法はなんでもいい。

 

それで息子は結局それから高校まで学校という名前のつくところには行っていない。

つまり正真正銘の登校拒否児。

高校には進学したが、そんなに学力のあったタイプではなかったので高校もついて行くのがかなり大変だった。

 

 ところが奇跡が起きた!

 

現在大学4年生で経済学とビジネスマネージメントのダブル選考。日本語とインフォーメーションテクノロジーの副専攻。

おまけに過去3年半すこぶる成績優秀。

いつ変わったかというと

ある日突如本人がやる気になっていきなりできるようになった。

 

学校が嫌いでも問題なし

だから

あなたのお子さんが学校が嫌いでも心配しなくても大丈夫。

今、順応性に欠けていても大丈夫。

そもそも

学校に行くことが大切なのではなく

社会で生きていける最低限の学力が大切なのだ。

それ以外はおまけみたいなもの。

 

学校に行かないとか行けないとか

そんなことは大きな宇宙世界から見ると大したことではない。

また人生を永遠の観点から見ると小さな点でしかない。

 

まずは親が余計な期待をかけないこと。

学校に行ってもらいたいとか

よその子と同じになってもらいたいとか。

せめてこれくらいとか。

そういう固定観念を親が捨てないとイジイジした子供になりやすい。

立派な大学に入って立派な大企業に勤めなくとも子供が自分なりに満足の行く人生を生きれればそれでいいのだ。

学力というのは上の学校に行くためにあるわけではなく、

社会で生きて行くための必要なツールでしかない

 

子供がどうとかいう前に

まずは親自身が現状をそのまま受け入れる姿勢が大切なのではないだろうか

 

登校拒否児に最も必要なものとは?

登校拒否から引きこもりになり、そのまま中年になり、と悪化するケースも多くある。それは、例外も多くあろうが、親が子供の現状を卑屈に思ったり恥ずかしく思ったりするとそういう傾向に向かいやすいようだ。

つまり親の「焦り」や「不安」が子供のマイナス感情を悪化させる。(そしてネット中毒やゲーム中毒などにかかり、抜けられなくなってきたりする。そして親はますます焦り不安から抜けられなくなって来る。つまり悪循環。)

 

だから、まずは親がこの現状での我が子の成長状態を受け入れてあげることが必須であるように思える。

だって、そもそも行けないのは子供自身のせいではないのだ。

子供には子供なりの正当な理由があるのだ。

まずはその心の内に寄り添ってあげて欲しい。

 

小学校2年生の国語の教科書に出てきた詩。

「みんな違って、みんないい。」

本当にこの詩の言わんとすることが実践されるようになってきたのだろうか。

多分自分が子供の時よりは数倍もよくなっているとは思う。

 

それでも、同世代と同じに生きていないと感じる時の焦りや不安を消すのは容易ではない。

子供も苦しいかもしれない。

でも親はもっと苦しい。

 

苦しまなくともいい。

なぜならどうにかなるからだ。

いつかどうにかなると信じていればそうなる。

ただ

”いつ”、”どんな風に”、”どうなる”のか、それは誰もわからない。

 

親が子供を信じるとは、

子供が学校に行ってくれる日が来ることを信じるのではなく

子供が子供なりに幸せになってくれることを望むことを意味する。

ただ信じて、日々を”なるべく”明るく生きていく

それだけが親ができることかもしれない。

 

 

ドクダミママ至言

子供が登校拒否をしても大丈夫。

学力とは上の学校に上がるためのものではなく

この世で生きていくのに必要なツールでしかない。

でも心がボロボロならまともに生きていくこともおぼつかない。

子供が現状から這い上がるためには

まずは親が明るく生きること。

学校に行かなくとも気にしない!くらいの度胸がものを言うのではないだろうか。

行けないのは子供が悪いわけでない。

子供には子供なりの正当な理由があるのだ。

まずはその心の内に寄り添ってあげること。

 

「みんな違って、みんないい。」って本当に思っていますか?

この”みんな”とは、建前では「みんな全員」だが、本音はどうだろうか。

”みんな”とは、実はよその家の子供を指していて、我が子は大多数と同じになって欲しい、と言うのが普通の親の考えること。これが隠された本音。

違うだろうか?

 

でもこの”普通の親”をやめない限りは、子供が良い方向に脱皮して行けないかもしれない。