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ドクダミママ至言

母業落第の果て:もっと早く知りたかった子育てへの答え

伝記は自分で書かせること

庭のワイルドフラワー4輪。我が家の4人の子供たちも野生児。みんな好きなところに勝手に咲いて自分勝手に生きている。親としては勝手にどこにでも咲いてほしくないし、もっと土壌がましがなところがありそうだと思う。でもそこで本当にいいならそこで頑張って花を咲かせるのもあり。

長男の誕生日

長男が6月8日に32歳の誕生日を迎えた。

 

ガソリン代が高騰していることから訪ねることを躊躇したが、

一年に一回だけの誕生日だし

コーンブレッドでも焼いて届けてあげることにした。

 

子供の時はいつもケーキを焼いてあげていたけど・・・今はただのパン。

でも彼にとってはお母さんの味だからまあいいか・・・。

バターもたっぷりしみてリッチな食感の黄色いパン。

 

それをタオルに包んで、大雨の中、車を急がせた。

高速で45分。

天気が崩れていたためいつもより時間がかかってしまい

運転中に息子は心配して電話をかけてきた。

 

やっと着き玄関に現れるなり嬉しそうな笑顔で出迎えてくれた。

「こんなシンプルなパンしか焼いてこなかったけど・・・気持ちだけ」

と伝えると彼は包んであったタオルを外し思わず顔をほころばせた。

 

彼は自分は親から何かをしてもらうにふさわしい人間ではないし

愛される値打ちもないと思っているようだ。

だから親が尋ねていくと(年に一度だけど・・・😅)

素直に喜んでくれるので訪ねがいがある。

 

わたしはこの長男に特別な気持ちを抱いている。

 

どんなに泣いただろうか。

今でも思い返すと目頭が熱くなり涙で全てが霞んで見える。

胸がズタズタに切り裂かれるような痛みがよみがってくる。

 

自分はこんなに人を愛したことがあっただろうか。

 

親の気持ちは親になってみないと決してわからないものとはよく言われているけど、

どんなに我が子を想っているか、

その強く果てしない想いは親にしかわからない。

 

心配させられ

苦労させられ

涙を抑えることができないほど親は我が子を愛する。

失恋は一生のうち数回しかない。

でも親はこの締め付けられるような想いを度々経験する。

’Broken heart(壊れた心)’ は実在する症状で多くの親がこれを経験する。

 

世の中にこんなにも深く

こんなにも強く

こんなにもせつなく

こんなにも心を動かすものは他にないと断言できる。

 

ご存じのように長男はゲイで

今もゲイのパートナーと暮らしている。

実はわたしも夫もこのパートナーをとても気に入っている。

人間的に素晴らしい方だと思っている。

実際、他の息子たちの嫁よりはるかに気に入っている。

特にわたしは新しく増えたこの息子をうんと可愛がっている。😅

 

息子は大学院も残すところあと一年。

今もビジネスデータ解析士の仕事も続けているので多忙だ。

精神は安定し、しっかりと地に足をつき、

目標に向かって突き進んでいる姿を見ることほど親として嬉しいことはない。

 

ここまで辿り着くまで長い旅路だった。

心配から父親は髪が真っ白になってしまった。

わたしはそこまで白髪にはなっていないけど・・・シワが増えた・・・特に眉間に・・・😅

(怒りや心配や不安は眉間のシワの原因・・・😅)

 

そのことに長男は気づいていて

今は親に心配をかけないように過去を挽回するかの如くに生きている。

そりゃあ、今だってゲイだけど・・・もうそれはどうでもいい😅。

それにあまり気にもならなくなってきた。

(欧米ではゲイ人口の間にサル痘が流行してきてちょっと心配だけど・・・😅)

 

どの親にとっても

どの子も特別だけれど一番上の子供は特に特別だ。

初めての子育て。

だから右往左往が多く

心配事が多く、

不安が多い。

アマチュア両親の実験台になり・・・親の犯す失敗の犠牲者となりやすい。

 

だから本当に彼には頭が下がるばかりだ。

ごめんなさい、って何回言っても自分を赦せない。

 

でもいつも感じていた。

 

この子はなんと慈悲深く

ダメ親をこよなく愛してくれているのかと。

こんななさけない親でも、赦してくれて感謝しきれない。

 

彼は弟や妹にも優しく面倒見がよく

典型的な長男だ。

心優しく思いやりがあり

エゴは小さく

心の綺麗な人だ。

 

立派になったなあ・・・と長身の彼を見上げる。

こんな日が来るとは思いもしなかった。

 

誕生日おめでとう。

わたしたちを選んで産まれてきてくれてありがとう。

そしていたらないこの親にずっと忍耐してきてくれてありがとう。

それを再度伝えると

彼の住まいを後にした。

 

外に出ると雨は止んでいた。

9時を過ぎていたのに空にはまだ微かな陽が残っていてそれが地平線上に広がっていた。

 

子供の人生の筆者は本人

親は子供の現状を見て

希望ゼロ!と終止符を打ちやすい。

 

でもちょっとまだ早すぎるかもしれない。

それは我が子はまだ自分の伝記を書き終えていないからだ。

その伝記は本人に書かせてあげないといけない。

それは自叙伝であり、親が書くものではないのだ。

その伝記は本人のもの。

 

伝記には成功だけでなく失敗談もないと面白くない伝記になる。

だから我が子には失敗も許してしてあげよう。

修正も編集もだめ。

赤ペンなんて言語道断。

 

それは親にとっては精神的な拷問であり苦悩だ。

それでも伝記は本人に全部書かせよう。

自叙伝にしてあげよう。

 

覚えておくべき最も大切なことはその伝記はまだ書き終わっていないということ。

 

うちの成人した子供たちの自叙伝もまだ最終章には至っていない。

実際のところまだ半分も終わっていない。

だから希望は沢山ある。

 

どんなストーリーが書き加えられるか・・・楽しみだ。

引き続き波瀾万丈人生か・・・・。😅

 

ドクダミママ至言

子供は自分で自分の伝記、つまり自叙伝を書く権利がある。

そこにはプラスの経験だけでなくマイナスの経験も書かれた方が読むには面白い。

それには恥になるようなことも書かれるかもしれない。

それでもいい。

 

その本を書くのは本人でまとめるのも本人。

誰のものでもなく彼の本なのだから好きなように書けばいいのだ。

 

伝記はまだ書き終わってはいない。

だから親は赤ペンで書き込みを入れたい気持ちを抑えて

本人にその偉大な本を完成させてあげよう。

 

 

 

 

 

 

 

千寿の谷に突き落とすことも大切

(画像出典元:https://news.livedoor.com/article/detail/4630379/

親は子を愛するため色々助けて結果的に甘やかしになることも多い。

手助けすることが愛であると思っている。

だから(ライオンの親のように)可愛い我が子を千寿の谷に突き落とすなんてとてもできないと思う親は・・・特に母親に多い。

 

実際、突き落とすことは親にとって辛いのだ。😓

 

でも本当の愛は我が子に最も必要なことをすること。

それには谷に突き落とすことも場合によっては含まれている。

特に成人の子供へは。

 

突き落とされた子供は親を恨みに思うかもしれない。

もっとも

どんな「突き落とし」かにもよるし

どんな「崖」かにもよる。

ただ・・・それが必要なときはある。

 

子供がハンドルできるレベルの

辛い経験は宝になると信じて突き落とす。

それを過去10年ちょっとやっている。

それまではやってきてはいない。

どちらかというと救ってあげていた。

谷に落ちないように先周りし色々警告したり・・と甲斐甲斐しい子育てをやっていた。

 

どうもそれがまずかったようだ。

子育てに失敗した理由にはこれが一理ある。😅

 

toyokeizai.net

 

ドクダミママ至言

千寿の谷に突き落とすことも時には大切。

手を差し伸べるだけが愛じゃあない。

子育ての全ての面で落第という親は少ない

ここを貸している。(引っ越してくる前の写真。今は土足で家の中を歩くので汚れてます・・。)

階下に移ってきた家族について話そう。

母と子供二人。

子育てのスタイルはズバリ・・・

 

「手抜き子育て」!

 

母親は仕事中なので子供たちは下校後、上にいる私のところに寄ることが多い。

寂しいのだろうか。

 

アメリカではこういうのは児童ネグレクトと呼ばれる。

なぜなら、13歳未満の子供は常に大人の監視下に置いておかないといけないからだ。

多分上に私がいるから(リモート勤務)それで正当化できると思っているのだろう。

 

3時半から6時までの間は子供だけで母親はまだ仕事中。

その後母親が帰宅し子供たちに夕食を準備してから彼女はジムに運動に出かける。

帰ってくるのは9時頃。

帰ってくるなり母親は「go to sleep(寝なさい)」とだけ言っておしまい。

よくその後に長女の泣き崩れる声が聞こえてくる(演技らしい・・・😅)。

翌朝、機嫌の悪い子供たちの声が聞こえてくる。

 

子供たちは

鉛筆削りもないから上に借りにくる。

絵を描きたいけど紙も絵の具もない。(安いんだけど・・・😅)

色鉛筆もない。(このくらい買ってあげれるでしょ????)

楽器もうちの電子ピアノを貸してあげた。

自転車も・・・。

当然ヘルメットも・・・😓

 

本だって一冊もない。

公共の図書館に連れて行ってあげたらいいのに・・・と思ってしまう。

中学校の隣にあるのに・・・。

 

そっかーーー何もやらないってこういうことをいうのだ。😰

 

学校にただ行かせておけばいいってものじゃあない。

当然宿題もサボっていたのがバレた時だけ「しろ!」とは言うけど、一切助けたりしない。

長女は私たちのところに来て助けを借りている。😅

 

典型的なアメリカの白人下層階級の家庭を目撃した気がする。

これはたとえ貧しくとも子供の教育に熱心なアジア系住民にはまずもって見られない風景😅

 

我が家もその典型的なアジア系の親。

十分ではなくともできる範囲で教育の機会を与え

学習教材を買い求め

情操教育にも力を入れた。(お金の許す限りだけど・・・)

誕生日の贈り物は常に教育玩具や本。

毎晩寝る前にする「ritual(儀式化された習慣)」があって

それは家族で本を読んで、注意事項を発表し、翌日の予定を確認し、

最後に1日を感謝し互いにハグをしてI love you!と言う。

それから各自の部屋に行かせる。

だからかなのか、就寝時にごねる子供も一人としていなかった。

 

それでも期待通りの大人にならなかったということはそこまですることもなかったのかもしれない・・・とも思えてならない。

 

しかし・・・何もしないのも問題な気がしないでもない。

まず自分が彼女と同じ立場に置かれていて、果たして同じような子育てをするだろうか。

多分しないだろう。

というかできないだろう。(日本人の血が騒いでしまって不可能・・・😅)

 

いくら多忙でも5分くらい本を読んであげるくらいは可能でしょ?

まあ・・精神的にも余裕がないからできないのか・・。

 

実際、子供たちに家にある本を勧めたけど

本は読みたくないと言われた。

本は学校で読ませ’られる’ものだそうだ。

だから嫌いなんだそうだ。😰

じゃあ私が読んであげることにしたが

集中力欠如で2分と座っていられなかった。

(長女11歳。長男8歳・・・幼稚園児じゃあない・・・💦)

 

それで思った!

我が家の子供たちにこういうのはなかった!と。

 

黙って親の話を聞くこともできた。

読み聞かせは習慣化されていたのでそれも問題なかった。

皆、本は大好きで勝手に一人でも読んでいた。

図書館には毎週連れて行っていた(〇〇ランドとか名前のついたところに連れて行ってあげる経済的余裕がなかったからこれが遠出の娯楽・・・😅)。

たとえ大した大人にならなくとも知らなかったこと知る楽しさとその思い出は肌に染みついているようだ。だから、この面では親としてちゃんとやれたのかもしれない。

 

娘にそれを伝えると、答えは

「そうだよ。ママはちゃんと教育的な環境に子供たちを置いてくれたんだよ」だった。

 

娘は親に「子育ては成功した」と思って欲しいのだろう。

もし子育て失敗なら、娘は失敗作ということになるのだから。

確かに失敗だったと思う子供もいるにはいる。

でも全員ではないし、全てにおいてではなかったことは真実なのだ。

 

自分の思い通りにならないと癇癪を起こしそこらじゅうの物を壊すのは次男のみ(今でもそう・・・😅)。

でも残りの子供たちは滅多にワガママは言わなかった。

親子の関係はイマイチでも兄弟同士はすこぶる仲がいい。

刑務所行きの子供も(今のところ)いない。(奇跡!😅)

とりあえず引きこもりはいない。

(うちは成人を養う経済的余裕ゼロ。だから働かざるもの食うべからずが方針😅)

とりあえず全員四大卒(だからって別に成功はしてないけど・・・)

どれもエリート企業ではないし、高収入は期待できないけど・・・

みんな仕事にはちゃんと就いている。

社会でもそれなりだけど・・・’どうにか’機能しているようだ。

親に頼っている子供は今はいない。(時と場合によっては仕方がない時もあるよね・・)

 

それなら・・・自分の子育ての’全てが’悪かったわけではなかったかもしれない。

 

今でも過去を振りかえって自分の犯した子育ての問題点について胸が痛い時がある。

でも・・・他の様々な家族を見ると・・・うまくできたところもあることに気付かされる。

 

所詮、完全は無理。

でも何かうまくできた面も確かにあったようだ。

それを探してみるのも意義があると思う。

 

ドクダミママ至言

子育ての全ての面で落第という親は少ない。

何かよくできた面も絶対にあったはずだ。

それをリストにあげてみよう!

子供の年練に関係なくやってみたらいい。

きっと発見があるはず。

おすすめ!

 

 

 

 

 

親が毒親なら子供はどうなのよ〜?

うちの郵便受けにからまっているPoison Ivy (ツタウルシ)。
警告:ウルシは毒。ウルシ負けすると怖い事になる!

毒という漢字の成り立ちは面白い。

この漢字は上部と下部で成り立っている。

上部は草が芽を出した様子。

下部は、子を産むという意味。

 

子供を産むときに飲む薬草は飲みすぎると毒になることから、

体によくない毒のことを指す。

 

そう・・・

生き物に良くないものは毒。

それなら・・・

子供に良くないものは毒親。😓

 

毒親は新しい言葉

わたしが若い時「毒親」なんていう言葉は存在していなかった。

親が完全でないなんてどこでも同じでそれを期待している子供も見当たらなかった。

実際、それが普通だと思っていた。

そもそも自分だって完全になんてなれないんだから

そういうことを誰かに期待するってことが頭にも浮かばなかった。

親とは未熟な部分を備えた大人で失敗もするということを誰にも言われずとも認識していた。

周りを見渡す限りはみんなそういうふうに見えた。

それに人類の歴史を振り返ってそういう完全に近い親っていたんでしょうか????

 

江戸時代など、親が我が子に切腹を命じることが許されていた。

結婚の自由なんかもなかった。

親には絶対服従しないといけない時代。

子供を売る人もいたし・・・捨てる人もいた。(現代でもいる・・・😓)

どこもここも毒親の鏡で溢れていた。

これに比べれば、今の親なんか’ほとんどは’全然大したことない。

 

それが今の世代の子供は

ネット環境のせいか

親をけなす情報に通じており

わたしたちを毒親呼ばわりすることが多い。

 

それで、そういうことを言っている人のほとんどは不幸な人で、人生がうまくいっていない人が多い。そしてそれを全て親のせいと決めつけている人も目立つ。(全員ではない)

自分のメンタルが弱いのは100%親のせいとも思っているみたいだ。

 

多くの心理カウンセラーも

全人類の問題の根本的要因は育った家庭とその過程にあると言っている。

つまり親のせいであると謳っている人がほとんどだ。

 

確かに親に非がないとは言わない。

親はたくさんの間違いを犯す。

それは真実だ。

 

それでも言いたい。

 

それやっても解決にならない・・・💧

 

それは子供には都合のいい原理なのだ。

自分で責任を取らなくていいから。

かっこうの逃げ道になる。

人のせいにしている分には人が変わればいいだけで自分は変わらなくていいと思っている。

自分には全く非がないと思わせる原動力となるのだ。

 

大人になって何かが嫌なら

変えるように努力をする道もある。

実際そうやっている人はかっこいい。

子供の時はできなくても大人になれば自分の人生を自分で選べる。

でも何年も何年も親のせいにしている人は、みっともない。

かっこよくない。

そして、そういう人はどうもいつも過去のしがらみに縛られて、

自分で自分を苦しめているように見受けられる。

彼らは未来を見ているのではなく過去を見つめているのだ。

だから前進できない。

それは時間の無駄かもしれない。

 

そもそも・・・毒親なんて・・・多くの親は多かれ少なかれ毒親の部分がある。

完璧な親なんて存在しないのだ。

それを期待する方が間違っている。

 

それでも世間が毒親を正当化するなら

私は新しい言葉を誕生させよう。

名付けて・・・

 

毒子

英語では既にこういう言葉が誕生している。

Toxic Adult Children

つまり、成人毒子😅

 

毒親の定義が子供の毒になる親ということなら

毒子は、親にとって毒になると言うことだ。

 

全ての子供が素直で育てやすいというわけじゃあない。

確実に育てにくい子供もいる。

でもそれって仕方がないのだ。

だから親は仕方がないと思って我慢して子育てをやっている部分も大きい。

育てにくいけど、力不足だとわかっているけど、試行錯誤しながら頑張ってやっているのだ。

我が子をしかってもそれは子供を愛していないということではない。

でも相性が合わないというのはある。

それでも!逃げずに続ける親がほとんどではないだろうか。

 

もし完璧を求められるなら、とっくの昔にサジを投げていたことだろう。

多分養子縁組に子供を差し出していただろう。

完璧なんて無理。

 

うちの子供たちが私のことを毒親と呼んでいるのは聞いたことはない。

でも多分・・・・心のどこかで密かに「毒親」呼ばわりしている気がしないでもない。

それならわたしも’密かに’我が子を「毒子」呼ばわりさせていただきたい。😅

 

でももし我が子に面と向かって毒親呼ばわりされたら・・・

 

その時はこう言うつもりだ。

「はい、そうです。まさしくわたしは毒親です。

親になってはいけない人なのです。」

開き直る。😅

 

子供は親に変わって欲しいから言っているのだろうか?

(努力してます・・・😅)

 

それなら、親もこう言うことができる。

子供も変わってください、と。😅

 

実際、子供たちに散々文句を言われて、

その度に誤った。

そしていつも親が全部悪いわけではないけれど、「親にふさわしくないのに親になった」と彼らが聞いて嬉しくなるようなことを口走ってあげていた。

でもそれをしたせいか、彼らの一部はいまだに全てを親のせいにしている。

 

間違った。😓

 

さらに、誤って許してもらえてそれで終わりならいいけど、実際はそうじゃあない。

特に元次男はことあるごとに、

赤ん坊の時からの恨みつらみを言ってくる。

今でも・・・。

つい最近も・・・😰

(あんたは赤ん坊の時のことなんか覚えてないだろうが!!!!💢)

 

親だからなんでも言っていいってそんなこと許されるわけない!

人類の歴史を振りかえってみて、こんなに親に対する態度のでかい時代はない!

どんなに親が未熟で問題ありでも、言ってはいけないことがあるのではないだろうか?

(言ってもいい場合もあるけど言い方にも問題がある・・・)

大人になったからって、同等の態度ってそれはないと思う。

そもそも誰のおかげで大きくなったわけ?(ってみんな思ってるでしょ???)

 

まず親を罵倒する。

日本人は常識が好きな国民性だと理解していた。

それならこれは常識に反することではないだろうか。

昔は親のことは「父上、母上」呼び。

現代は、「クソジジ」「クソババ」呼ばわり。😰

こんなふうに扱われて、平気な顔をしていられる親がいるのだろうか。

子供を持ったことを悔いる親は後を絶たないに決まっている。

 

欧米の真似はやめた方がいい。

欧米は割と子供を同等に扱う風習がある。大人になるとこれがますます顕著になってくる。

そもそも日本語のように目上がどうとかそういった言語形態が根本的に異なるから

同等の口の利き方になりそれが同等の態度として現れる。

それがとてもいいようなことを言う若人もいるけど・・・・

親はやっぱり我慢を強いられている。

よって親子の関係がいいかと聞かれると、実はそうでもない。

親子断絶は西洋に結構多い。

自分の周りにもたくさんいる。

(英国では20%の親子が断絶状態にある。)

みんな至極まともな親なんだけど。

 

こういうふうになるのは、子供時代の面影のかけらも残っていないほど変貌し、

全てのことに親とは全く違う見解を持った子供と関係を続けることが難しいからだ。

親子間に共通のものには果たして何が残っているのだろうか。

 

友達になれる人は共通点が多い人

ちなみにあなたの友人とはどういう人だろうか。

人は通常、自分と似たような意見を持った人と友人関係を築く。

もし全く異なる意見を持っていたら友人関係を築きたいと思うだろうか?

もう答えはお分かりかと思う。

 

つまり、成人した子供と血の繋がり以外は何も共通点がないなら、この関係を築くことは難しいのだ。

おまけに家族ならなんでも言っていいと思っているのか、親の考えを古臭いと言い、馬鹿にし、自分の意見で丸め込もうとする。もし親が子供の意見に納得しないなら口喧嘩に発展する。

人によっては今までの恨み辛みの仕返しと称し(元次男がこれ😓)、このことによって親をわざと苦しめようとする。(ザマアミロ!とかネット上でも言ってますね・・・😰)

これで親子関係がうまくいかないと言って、それを親だけのせいにするなんて言語道断。

それで親と縁を切ってそれで幸せならいいけど、実際は違うらしい。

心理カウンセラーは縁切りを薦めるかもしれない。

しかし何をしても、心の中の曇り空を消すことができないのが親子というもの。

 

親を毒親と呼ぶなら、子供は毒子。

つまり、みんな大して変わりはないということだ。

だから互いにあまり期待しないこと。

そして本音を控えること。

これしかない。

 

ドクダミママ至言

毒親があるなら毒子も存在する。

人類が始まってからいつもそうだった。

完全な人はただ一人として存在したことなはい。

そして毒親と毒子では互いに仲良くなんて無理。

なんとなく上手くやっていくためには

本音は言わないでおこう。

互いに期待しないでおこう。

時にはそうすることでしか親子関係を続けていくことができないのだから。

 

 

 

 

 

 

子育て後の自分発見方法

森の中で迷子になって道を見失うこともある。子育てという森でも迷子になることが多い。
それは最初からはっきりとした道がそこにはないから。子育ては人によって違う。歩むべき道は自分で開拓していかないと行けない。それは時として怖く当然迷子になって右往左往したりもする。

子育てが長いと母は自分を失っていくことが多い。

それで子供も成人したし・・・これからは自分の人生を生きるぞ〜〜と意気込んでみたりする。

でも現実は・・・

何していいかわからない!

 

そして放心状態になったりもする。

 

それで、自分を再度発見するためにできることがある。

それは自分に質問をすること。

 

前回、五巻を刺激することをするといいと言ったけど、それそれ。

 

視覚

何を見ることが楽しい?

何が綺麗だと思う?

何を見ている時が充実する?

満足感がある?

何に囲まれている時が幸せ?

 

聴覚

なんの音が好き?

どんな鳥の鳴き声が好き?

どんな音楽が好き?

どんな自然の音が好き?

 

触覚

どんな服の生地が好き?

どんな触り心地が好き?

 

嗅覚。

どんな匂いが好き?

好み?

どんな匂いの花が好き?

どの季節の香りが好き?

香水は?

食べ物の匂いは?

 

味覚。

どんな味が好き?

どんな果物が好き?

どんな料理が好き?

 

などなど。

こういうことを自分に聞いていく。(長く考えたりしてはだめ。直感的に答えを出す)

それが自分に素直になる最初の段階。

これをたくさんやっていくど、だんだん自分の声がより鮮明に聞こえてくるようになる。

 

今までは自分の声を無視してきたかもしれない。

これからはやめよう。

 

わたしも無視してきたから・・・

好きなもの?なんて聞かれても・・・

答えは決まって

「特に」

としか言えない。

(他の例:美術畑出身の人間が好きな色は?と聞かれて・・・「全部」と答える始末・・・。母になるとは実に恐ろしいことだ・・・。)

 

自分の好きなものなんてどうでもいいのだ。

でも子供の好きなものなら知っている。

それが一般的な母親。

 

そして自分を失っていく。

自分を失った母は子離れも上手にできない。

子離れを上手にできない母は子供から「重たい母」と呼ばれ、避けれらる。

 

だから今日から自分に聞いてみよう。

何が好き。

そんなシンプルな質問なら答えられるはず。

いきなり「何がしたいの?」なんてそんな大それたことを

聞かれてもすぐに答えられっこないのだから・・。

 

ドクダミママ至言

子育て終了後、母親は自分を失っていることに気がつくことが多い。

そして自分を取り戻そうとしてみるけど、これがなかなか難しい。

だから最初にすることは自分の声を聞く練習をすること。

それには簡単な質問を自分に投げかけてみること。

そして行動に起こすこと。

これを続けていくと感性が戻ってくる。

そして自分が見えてくる。

 

 

 

子育て後は虚無感で一杯になる

虚無感一杯のニャンタ。何もする気になれない。全く動けない。ああああ😅

子供が育ち家を出ると、母親は喪失感だけでなく虚無感に襲われることが多い。

自分の場合はこれと同時に更年期障害が始まり、虚無感はかなり酷かった。

毎日息をするのもしんどいと感じていた。

朝起きるのも苦痛だった。

そしてそこから這い出るのに何年かかったのだろうか。

実は今もこの虚無感が完全には消えてはいない。

でもかなり改善したとは感じている。

 

この虚無感とは、

空っぽで虚しい感情のことを指す。

全ての俗世のものに価値や意味が見出せなくなること。

 

虚無感があると

何を見ても感動しない。

何をしても楽しいと思えない。

何を食べても美味しくない。

人とたわいのないことを話す元気もないし、しても嘘の笑顔を振り撒いているだけで、

心の中はちっとも楽しんでいない。

かえって疲れる。

 

自分は一体なんのために必死になって子育てをしてきたのだろうか?と虚しくなる。

所詮、自分には何も残っていないような言いようのない虚しさを感じる。

エネルギーが全く残っていないようにも感じる。

この時期、いきなり様々な健康の問題も出てきたりもある。

 

自分の場合は子育てがなんとなく終了したけど、その結果が思わぬ結果となり・・・

その理由からもあり、自分の子育てを虚しい経験としか取れなかった。

だから虚無感。

どっと今までの疲れが出てきて、動けなくなるのだ。

あの時私は仕事もしていた。

だから何もしたくないけどぼーとしているわけにはいかない。

動かない体を引きずるようにして出勤しこの虚無感を隠すようにしていた。

無理やりは本当にしんどかった。

だから仕事中にいきなり涙が出てくることもあった。

(これはホルモンのバランスが崩れているからだと思うけど・・・)

 

虚無感。

 

それを感じる母は多くいる。

辛いからどうやってここから抜け出すか四苦八苦してみる。

でも

ここから無理やり抜け出そうとしても

ほとんど無理。

 

ただただその状態がいつかなくなる日を待つのみ。

気がつかないうちに

時がそれをしてくれる。

 

もう頑張らなくていい。

頑張れなくてもいい。

というお告げなのだ。

 

そういう時期なのだ。

 

虚無感からの早期回復

早い抜け道は多分孫ができることだと思う。

わたしの友人の一人は子供たちのほとんどが早婚だった。

だから虚無感に襲われる前に孫の顔が見れたのでそれが彼女の生き甲斐となった。

最後の子供が家を出るときにすでに孫が三人いた。

虚無感なんて皆無。

幸せそうだ。

 

でもその反対に親はどんどん歳をとっていくのに

子供がいつまでも結婚しないとか

しても子供を産まないとか・・・

そういうのってどうだろうか。

だって、孫は今までの子育ての苦労を一掃してくれるのご褒美なのだから。

 

もし苦労を一掃してくれるものがなければ

親は虚無感で一杯になってもおかしくない。

 

所詮人生はなんてこんなものか・・・と思えてきても当然のこと。

 

ということは

虚無感バスターは、次の生き甲斐を見つけることにほかならない。

生きている甲斐があると思えること。

それはなんだろうか?

その一つが孫。

でも他にもありそうだ。

 

ただ長く母親をやっているとそれがなかなか見つからない。

見つからないと焦る。

焦ると、ますます見つからない。

そうすると今さら・・・という気持ちにもなる。

結果的に虚無感は悪化を辿る。

 

悪循環。😰

 

もし生きがいが見つからなければ

ただこの日1日を少しは気分が高揚するようなことをして過ごすことがあげられる。

特に五感を刺激することをする。

つまり、味覚、視覚、聴覚、嗅覚、触覚を刺激する。

 

これを心がけることによって少しは改善するようだ。

でもやっぱり時間がかかる。

最初は大して感動もないのは仕方がない。

ゆっくりでいい。

 

ちなみに「虚無感」の反意語は「充足感や満足感」

自分もよく頑張ったと思えるし(思ってる😅)

子供も立派な大人になったと思えるなら(思えない😓)充足感がある(ない・・・😰)。

これでよかった、と満足もできる。(無理😓)

つまり達成感がある。(何も達成していない・・・😰)

 

充足感と満足感と達成感。

ところで皆さんはありますか?

 

ドクダミママ至言

子育て後の虚無感はよくあること。

それは時が解決してくれる。

ただ今は、なるべく普通に生活して

目立たない些細な喜びを日々の中に見つけること。

1分でけでもいい。

自然に触れることは特にいい。

五巻を刺激することがいい。

大きなことはいらない。

目的も達成感もいらない。

今は休養をとる時。

 

十分休んだらいずれは元気も戻る。

心の病気を治すには時間がかかるのだ。

 

もしもあなたがヒビ入り茶碗ママなら・・・

ヒビ入り茶碗。自分の器がヒビ入りなら、子供の気持ちをよく汲み取ってあげれない。
しっかり支えてあげれない。
ヒビ入り茶碗なら、ボールに次々と入ってくる子供の問題に圧倒されて、
ヒビからこぼれるだけでなく、涙と一緒に溢れかえってしまう。

子育ての上手下手は生まれつきなの?

女性は誰でも愛情深く人を養い育てる直感に優れているはず、と一般的には信じられている。

でも人によってはそれに時々欠けてしまうこともある。

(実はほとんどの母は欠けてしまうことが多い・・・。😓)

 

それはなぜだろうか?

 

それはおそらく彼女に良い母の模範がなかったからが一理あるかもしれない。

その母にも良い母がいなくてその母の母も大したことがなかった。

それは代々の傷なので傷は深い。

そしてこのパターンをずっと繰り返す家庭も多く存在する。

専門家はこれを負の連鎖と呼んだりもする。

 

親からリジェクトされる子供もいる。

無視されたり危害を加えられる子供いる。

そんな子供時代を生きるべきではないのはわかっている。

子供はみんな幸せになるべきなのだ。

でも残念なことに現実的にこういうことは起こりうる。

 

そしてこの問題は子供時代に解決されることは滅多になく

結果的に子供時代の傷を抱えたまま

引きずったまま

大人になる。

 

そして親になった時に

自分の器がいかに壊れているかを認識するのだ。

だから子育ての上手い下手は環境の影響がかなり大きい。

 

傷ついた子供時代の影響

お気づきのように

親が傷ついた子供時代を送っていたりすると

自分の子供にうまく対応できなかったりする。

 

人が傷を負っているまま親になると、

結局今もどこかに潜んでいる傷や痛みやトラウマに反応しながら、

子育てをすることになりやすい。

 

いやもっと正しく言うならこう言うことだろう。

親になって、その治っていなかった傷が再度開くと言った方が近いかもしれない。

 

そもそも、自分の怪我が治っていなく今もズキズキと痛くてたまらないのに、

他の人の腕に包帯をしてあげることはできない。

自分が瀕死状態で、地面で生死を彷徨っている人を救命することはできない。

 

つまり、これを子育てに応用するならこういうこと。

 

自分のニーズが高すぎて子供のニーズに上手に関わってあげれないのだ。

子育て中にこの完治していない傷が開きっぱなしなら、

子育てはかなりのストレスになりかねない。

だって・・・

自分の問題に直面しながら、同時に別の人間のニーズに応えるなんて神業だから。

 

傷ついたインナーチャイルドに出会う

意識の奥底に埋めてしまっていたと思っていた自分の悲しみは、我が子の子育てで掘り返され

泣いている我がインナーチャイルドに直面することになる。

でもインナーチャイルドをじっと見つめながら同時に目の前にいる子供の世話はできない。

 

だから結果的に

大した親になれない。

そして子供から毒親呼ばわりされたり

毒親だと自分自身で認めてしまったりすることもある。

本当はもっといい親になりたい。

どうしてできないのか。

こうやって自己嫌悪に陥る母は世界中に沢山いる。

 

でも・・覚えておいて欲しい。

それは親だけの問題ではない。

全部自分のせいにしなくてもいい。

本当に。

 

母が最初によくすることは自分を責めること。

そして親を責める。

だけどそれが終わったら、

悲しい我が心をいたわってあげよう。

 

自分のインナーチャイルドを癒してあげないと良い親になんてなれない。

癒せれば子育てももっと楽になるはず。

置いてきぼりにされた子供。

それがあなた。

だからその子供を癒してあげないといけないのだ。

 

自分の魂のケアは最も大切なこと。

 

ドクダミママ至言

子育てがうまくできない場合はインナーチャイルド問題が潜んでいることが考えられる。

子育て中に子供時代のマイナス感情がぶり返し

ただそれに反応しているだけの子育てになりやすい。

結局このインナーチャイルドが元気にならないといくら必死になってもダメなのだ。

傷の入った器はあなた。

その傷を癒すこと。

それが最も大事なこと。

 

 

 

 

 

元次男に仕事が見つかる

母の日でちょっとくぼんだけど火曜日には回復した。

地元の中学校の聖歌隊の発表を見に行って気分転換できたのが理由かもしれない。

あまり上手じゃないし・・・生徒はまっすぐ立ってないし・・・

(飛び回っている輩もいた!😅)

歌と歌の間に舞台でおしゃべりまでしていた。

服装もバラバラ。

ひどくまとまりのない発表会。

唖然。😰

これは日本では絶対あり合えない。😅

親はみんな怖い顔をしてじっと舞台を見ていた。(私は親じゃあないのでリラックス!)

 

帰ってから東京の友人に母の日のことについて聞いたら過去25年間何もやってもらってない!とこぼしていた。

そっかー。そんなものなのね。

安心した。

 

話は変わるけど・・・

 

元次男の人生が最近ちょっと変わってきた。

もっとも彼とは連絡を取り合っていないのでこれは娘から聞いた話だけど。

今まで彼はGoogle社で品質管理・データエントリーの仕事を契約社員としてやっていた。

でも今年の11月からはその仕事ができないため他の仕事を探していた。

 

そしてやっと正社員として就職が決まった。

さては30歳の誕生日を目の前に焦ったのか・・。😅

(これで焦らない人はどうかしてるよね・・・😅)

 

医療データ解析が会社の専門業務らしい。

最終選抜6人の中に入れてもらえ、その中で最終的に彼が一人選ばれたらしい。

これも品質管理職(データに間違いがないかどうか確認するだけの繰り返し作業)だけど、彼は他に色々なことができるのでそれを買われて雇われたらしい。(本当かどうかは謎)

 

どうしていきなり彼が重い腰を上げたかというと

年齢が一つ。

もう一つが嫁が教職の仕事を解雇になったからだ。

上司と言い争いになり彼女は引かなかった。(謝ればいいのに!頑固だから引けない😰)

それでその場で解雇を言い渡されたらしい。

同時に大学院も退学。(大学院と教職の仕事がつながっているのでこういうことになった)

 

だから必死になったのだろう。

よかった。

その後、嫁も弁護士事務所で事務の仕事が見つかったらしい。

これで両方の家族が心安らかに生きられそうだ。

ただあと2ヶ月で大学院は卒業できたのにもったいない話だ。

 

でも二人には何も言わない。

この息子も嫁もしばらく(この’しばらく’はかなり長い年月のこと😅)

そっとしておくと決めたのだから。

 

本人の人生。

自分で試行錯誤を繰り返しながら生きることが彼の人生であり嫁の人生。

親の出る幕はもうないし出てくると怖い顔であっちに行けと言われるのだから、

これでいいのだ。

 

親になるということは悲しいことだ。

今まで一生懸命育ててきても・・・時が来れば

いきなり邪険に扱われたり

必要なしと言われたりする。

 

でもこれで良いのだ。

独り立ちとはこういうことを言うのだから。

そしてこれが普通。

 

いつかはどうにかなるとは聞いていたけど本当なのだと納得した。

道を切り開いていくのは本人。

でも・・・多分また他の試練がやってくるだろう。

それでも

そこにきて根掘り葉掘り探りを入れてはいけない。

探るのがやめられない親は距離をおいた方がいい。

 

もちろん母の日も連絡はないし

今後もずっとないだろう。

このままの状態が続いていいのかって?

いいと思う。

 

親としての長い苦悩の日々はまだ自分の脳裏に焼き付いているけど、

今後はもっと速度を上げて忘れていけるはずだ。

確かに忘れるのも悲しいことかもしれない。

でもそれしか完全な脱皮方法が残っていない。

母業のトラウマからの・・・。

 

あとは娘が結婚でもしてくれたらもっと楽になれる。

でも・・・しなくてもまあいいっか。

そして三男が軍隊の訓練を6月に終えてから就職が決まってくれれば、さらに楽になれる。

でも希望通りに見つからなくてもそれもいい。

孫はもう諦めたのでどうでもいい。

 

子供の不幸は知りたくない。

全ては自分には関係のないこと。(と自分に言い聞かせている・・😅_)

 

なんか・・・期待しないって幸せなことだ。

 

執着を捨てて

全てを神に委ね、

ちくりとする胸に手を当てる。

もう親ではないのだなあ。

その実感を噛み締めるのだった。

裏庭の果物の木々に花が咲き始めてきたと同時に元息子の人生にも花が咲き始めてきた。

自分の心もこの空のように澄み切っている。

心配しないで自然の成り行きに任せること・・・が本来の親のあるべき姿かもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

悲しい母の日

昨日、私宛にターゲットから贈り物が届いた。

中身はガーデニング用のブーツと手袋。

差出人は長男と長女らしい・・・(なんとなく夫が買ってきたような気がする)。

 

中身に感謝の気持ちを綴ったカードもなかったし・・・箱もボロボロだった・・。

(やっぱり夫が娘に誘って娘が品物を選んで、夫が買ったことがバレた!)

 

そして夫がいうには、翌日の母の日に私をレストランに招待するとかいう予定だったらしい。

夫は、「ほら子供たちもこうやって感謝の気持ちを示そうとしているよ。

なんだかんだと言ってもやっぱり母親を愛している証拠だよ」とか言っていた。

 

そして今朝、夫が何時に食事をするか長男に確認の電話を入れた。

すると・・・

「いきなりだけど予定が変わったよ。他にすることがあるから今日は会えない」

と言ってきた。

まさか・・・ドタキャンか・・・。😓

 

その直後夫は娘にも連絡した。

 娘は・・

「キャンプしているから無理」と返答。😓

 

ん?ということは昨晩からキャンプということよね?

それなら、最初から母の日を祝うつもりなどなかったのだ。😓

(母の日にわざとキャンプ???)

どうも臭い。

 

そして電球が自分の頭上で光った。

 

絶対そうだ。

シカゴに住む元次男が妻の実家(近所)に帰省したのだ。

なんたって母の日だもん。

電車で安く往復できるということがわかったからそれで昨日から来ているのだろう。

それで仕返しと私の不幸を狙って残りの子供たちを呼んだということだ。(夫の家族はこうゆう仕返しとか、一生恨みを抱くとか普通なのだ。これって遺伝子なのだろうか?)

二人もそっちの方が楽しそうだし(なんたって明日のことは心配しない陽気なメキシコ人だもの!)、最初から実家に寄るのは乗り気じゃあないし、だからそっちに行くことにしたのだろう。

 

子供達のことに関しては、今まで私の感はほぼ外れたことがない。

だから今回も当たっているはずだ。

 

元次男の嫁はメキシコ人。

彼らの文化といい子供の育て方といい、日本のそれとは正反対。

子供たちにほぼ何も特別なことはしない。(ここの家だけなのか??)

娘には異常に厳しく、息子は溺愛。

学校の勉強にも一切干渉しない。

習い事なんてゼロ。

自分に散財することはあっても子供たちにはしない。

我が子の大学の学費は払わないけど自分のためにグッチのバッグは買う。

自動車教習所へも申し込まない。(アメリカでは親が教習所代を払い練習にも付き合う)

常にブランド物で身を包み外見重視でお金重視。

自分のことばかり考えてきた女性だ。

 

そんな母親が「お母さんありがとう」と言ってもらえて、

なんで私のような母が無視されるのか・・・・全く理解に苦しむ。

 

むしゃくしゃするので外に出て庭の草むしりを始めた。

ずっしり重い気持ちをどうにかしようと

ひたすら手を動かした。

 

なんでこんなふうになってしまうのか。

こういう嫌な隠れ遺伝子を持つ夫と結婚したことがそもそもの間違いだった。

そのあとは全てが間違い続き。

結局自分のせいか・・・。😅

 

家族のために生きてきた自分にとっては

この家族に問題があるということは

何も希望が残っていないことの証明なのだ。

 

涙がポロポロ出てきて大声で泣いた。

(幸いなことに田舎ですから近所には聞こえません。😅)

 

するとある思いが浮かんできた。

彼らが私に会いたくない理由がわかったのだ。

 

それは・・・母親に顔向けができないからだ。

ズバリ!彼らの出来具合いが母親の犠牲に見合わないから!

それを彼らはしっかり知っているのだ。

だから顔を合わせられない。

よって逃げる。

隠れる。

色々口実をつけて。😅

つまり罪悪感の表れなのだ。

 

はっきりと確信した。

彼らは自分の人生を生きたい・・・けど結局親の目も気になっているのだ。

たとえ、私が別に自分の好きなようにしなさいと言っても、それは本心から言っているのではなく、90%諦めの境地から言っていることを悟っている。

見放されているようで嫌なのだ。

かといって介入も嫌ときている、

よくわからない心境だが、かなり真実に近いはず。

 

親の期待に応えられない悲しさと同時に自分を正当化したいという思いの間に挟まれ、

いたたまれなくなり、だから無視をして逃げるのだ。

Ignoring altogether!というやつだ。

 

これでわかった。

 

母の洞察力に勝てるものはこの世にない。

だから自分の察しにはかなり自信が持てる。

 

休憩に家の中に戻ると三男から留守電が届いていた。

そして彼の嫁からも「母の日おめでとう」とメッセージが届いていた。

 

4分の1が親を大切にしてくれている。

それって25%。つまり成績で言うなら’F’だよ。

’F’はちょっとね〜〜〜落ち込むよ〜。😰

 

まっ、仕方がない・・・か。

これって自業自得ってことなのだろうか?

 

こういうことが続くと引っ越したい気分になる。

やっぱりオーストラリアあたりに移住もいいか。

そういえば、成人した子供との関係が思わしくなかったのでオーストラリアに移住してしまったイギリス人女性もいる。

本当は親友家族のいるニュージーランドにしようかと思ったけど・・・ニュージーランドは条件がかなり厳しい。

だから代わりにオーストラリア。

近年は洪水が多いけど、アメリカだって自然災害はある。

どこだって同じ。

子供のいない世界に行けるならどこでもいい。特に外国。

最近はタイなどが退職者に流行りらしい。

それもいいかも。

 

でも一番行きたいのはやっぱり日本。

地震があってもいい。

人間関係が複雑でもいい。

今の人間関係(つまり子供との)より絶対マシなはず。

怖い国が隣にあってもいい。

四畳半のアパートでもいい。

 

そんな気持ちにさせられた母の日だった。

もう母の日なんていらない。

長男と長女から届いた母の日のギフト。箱を開けた途端思ったこと:「薄い色のものって困るんだよね。泥にまみれるのに・・・白?汚れが目立つ〜〜。仕方ないこれは飾りに使うかね。」そもそもこれを身につける度に我が子を思い出す事になると思うと使いたくない気分。😅

 

ドクダミママ至言

母の日が全ての母にとってハッピーな日というわけではない。

そういうことって結構多いようだ。

 

結局悲しむ自分の心を慰められるのは自分だけ。

仕方がない。

こんなもんだ。

ほとんどの人は現実を生きていて理想を生きている人は少数派。

 

ただ今日という日が終わることを待つのみ。

明日からはただの日。

今日だけ耐えればいいのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

毎年母の日が近づくと事件が起こるのはなぜか?

母の日到来。😅

カーネーションではなくて裏庭のバイオレット、つまり雑草が今年の母の日の花。
母のすることの多くはバイオレットのように些細で、目だたず、存在感も影響力も小さい
と感じることが多い。だから落胆も大きい。
でもたとえ土壌が貧しくともそこにしっかり根を張って、
踏みつけられてもめげないで、太陽をしっかり見て生き延びる。
そして年を経るに従って拡張していく。
母の涙はこの貧しい土壌の栄養となり、母をますます輝かせるエッセンスとなる。

どんな環境にあっても自分らしく輝いて生きよう。
それがたとえ理想からはかけ離れていても。
今咲いているこの環境でどうにかして輝くことが幸せへの道。
これが母の日のメッセージ。

卒親完了したと思っていたんだけど・・・

母の日、それは親としての成果をいやでも思い起こされる日。

今年もまたやってきてしまった。😰

でも今年の母の日は心穏やかに過ごせそうだ(と楽観視していた・・・😅)。

 

なぜなら、子供たちのアルバムを全部完成させ、思い出のものも一人につき一つの入れ物にしまい、蓋をしたからだ。

思い出は全てその中にしまい密封してしまった。

 

子供たちが親宛に書いてくれた可愛い手紙もそこに入れた。

賞状のようなものも入れた。

上手に描けた絵も入れた。

 

もう2度とそれを開けることはないだろう。

 

断捨離のパワーを今更ながら感じている。

心を変えるのは難しい。

だから型から入るとよりスムーズに行くようだ。

 

どんな結果になっても

母はこれ以上できないほどの努力をしたことには変わらない。

 

だから自分に慈悲をかけることにした。

母を悪く思う子供はその子供の責任。

 

すっきりした。

と思っていた。

 

しかし・・・

 

事件が起きた

実は自分には芸術家の友が数人いる。

その一人に仕事の空きがあるからどうかと思い連絡した。

すると・・なんでも2年前からミシガン大学の美術学部で教えていると言うことだった。

わあ、すごい!と思わず思ったが・・・

自分の頭も心もなんとも重苦しいもので一杯になった。

 

彼女は大学卒業後は公立学校の美術の先生をしばらくしていたが、その後思い切って仕事はやめ大学院に入りなおした。卒業してからは、あちこちの小規模なカルチャーセンターのようなところで教えたりと細々とその道でずっと頑張っていた。ついでに小さな個展とかもやってきていた。

たとえどんなに経済的に大変でも常に自分の芯を貫き通したのだ。

だから長年の苦労が今やっと報われて自分の専門分野で就職することができた。

それも難関のミシガン大学の。

 

よかったね。と心から言ってあげたかった。

 

でも私の心は複雑だった。

なぜなら自分はそうやって生きてこなかったからだ。

そうやって生きてこなかったのは

それも自分の選びであったのだから今更何も言えない。

 

どうして彼女のようにやらなかったのか。

確かに彼女は独身で子供もいないからできたのかもしれない。

でも所帯を持ってるからといって全くできないわけでもない。

 

そんな心境の時はそれに上乗せするようなネガテイブな考えが次から次へと浮かんでくることが多い。

この時も、他の同じような知り合いのことが頭に浮かんできた。

 

(ダブルパンチ!😅)

上記の友人の次はこの人。彼女はフロリダにいたけど、今はニューヨークと行ったり来たりの生活をしていて自分の夢を達成しているようだ。夫はフロリダにおいてきている。二人の子供の子育ては小学生の時にすでに、「ママは自分のことをするからこれからは自分の人生に責任を持って生きなさい」と言い、子供たちには最低限のことしかしなかったらしい。学校の宿題とか助けたこともなく、習い事をやらせたこともなく・・・担任との懇談にも出かけたこともなく・・・部屋を片付けろと言ったこともなく・・・つまりハンズオフぺアレンテイングだった。そして長期で家を空けることが普通だったようだ。夏休み期間もアートフェアでの出展があるので3ヶ月家を留守にしていた。誰が子供の面倒を見ていたかは謎。

その結果、子供たちは自立心の塊のしっかりした大人になった。何も教えられていないのに、非行も犯罪もない。人間関係でも問題なし。社会適応にも問題なし。

何も言われなかったから、口答えも反抗もゼロ。

親子関係も良好。

二人ともとても努力家で・・自分たちの母を尊敬しているみたいだ。

 

三番目の人。(トリプルパンチ!😅)

彼女は田舎に住み織物をするのが生きがいだった。結婚しても夫は東京に残し(夫はそれで全く問題がないと言うから)自分は田舎に住み好きなように生きた。一人息子も勝手にさせていた。ずっと作品を売って生活している。今67歳だけど、年を感じさせないくらいハツラツとしていて可愛い女性だ。好きなことに夢中になって幸せに生きた人なのだ。家族の中に彼女の悪口を言う人はいない。自分のことで頭がいっぱいだから他人の人生に口出ししている暇がないのだろう。だから好かれている。

 

そういう生き方でも・・・いいんだ・・・ね。😓

 

どうしてそうやって生きてこなかったのか?

じゃあ、どうして自分はそうやって生きてこなかったのだろうか。

そうやって生きることもできたはずだ。

でも

家族を犠牲にできないと思ったのだ。

罪悪感もあった。

 

でも家族を犠牲にしないなら自分が犠牲になる。

それなのに、子供たちからは一微塵も感謝されていなし、

おまけに子供たちは特に立派にもならなかった。😅

 

わたしは最初はフリーランスでイラストやデザインの仕事をしていた。

でもすでに結婚していたし幼い子供もいたし、夫が博士号に進むため遠くの他州に引っ越さないといけなくなった時、その仕事は終わってしまった。

(インターネットがない時代なので・・・😰)

 

その代わりに絵を教えて小遣い稼ぎをしていた・・でもそれだけ。

子供は四人になり、日曜画家にでさえなれなかった。

常に家族優先だった。

 

ミシガンに引っ越してきてからはちょっと教えて・・・ちょっと描いて・・・ちょっと展覧会に出して(年に一回くらい)と誰にも迷惑がかからない程度のことしかしなかった。

 

長男が大学を卒業しフラフラしていた時に、本格的にまた絵を描き始め展覧会にバシバシと出し賞を取ったりもしていた。作品も売った。

 

でもまだ子供たちは全員自立していなかったし経済的な援助が必要だった。

そんな時にアシスタント件翻訳の仕事が舞い込んできて、特に興味もなかったけど、なんか勝手に決まってしまった。全く自分軸でないけど・・・やってみるか・・・という軽い気持ちで始めて今もダラダラと続けている。当然絵なんて描く気力も体力も時間もない。仕事は楽しかったかと言われると・・・芸術畑の人間には全く合わない仕事だったから特に楽しくもなかった。日々「感謝感謝」とその言葉をマントラのように繰り返し我慢してやっていた。でもその甲斐あって残りの子供たち全員の大学の学費を払うことはできた。子供のためならなんでもやる・・・と我慢していたのだ。

(自分はなんと立派な母かと密かに自負していた!

ついでに我が子は母を絶対に裏切らない!とも確信していた!

見事に外れました・・・。😅)

 

現在、確かに翻訳は長くやってきているのでできないことはない。でも・・やっぱり得に好きというわけではないから・・・仕事として割り切ってやっているだけ。

アシスタント業務、つまりエンジニアのヘルプ業務(つまり雑務)においては・・・自分の魂が日に日に衰弱していっていると感じている。それでも続けているってどうゆうこと?(アホの骨頂???)

それは・・得意でもなくおまけに嫌いなことを我慢し続けるのが美徳で大人のすること・・・というような日本的な考えが頭のどこかにあって・・・それを取り除くことができないからだ。

 

でも・・・これは間違い。

人生は好きなことをして生きるべき。

得意なことをして生きるべき。

そもそも苦手で嫌いなことをして認められるってあるわけないでしょ?

(子育ても得意でない!だから当然成果がイマイチ・・・😰)

翻訳はともかく、アシスタントの仕事はアメリカでは馬鹿にする人がたくさんいる。同僚から馬鹿にされていると感じることも多くある。こういう仕事はプロフェッショナルとは呼ばないからだろうか。

ちなみに私だって修士号くらいある。博士号だって持っている。

本当は苦手な事務をしなくてもいいのだ。

 

子供達も皆大学を卒業したことだし(とりあえずしたけどその後がちょっと・・😰)

この辺で足を洗いたいと去年あたりから心底思い始めてきた。

でも迷っていた。

今の仕事を辞めたいと思い始めてから、特に最近、いろいろな仕事のチャンスが耳に入ってくる。

でも・・・キャリアを積んでこなかった自分には無理だろうという消極的な考えが頭をよぎり行動に起こせない。そもそもアメリカは経験が一番大切なのだ。

(なんで関係ない分野の仕事を続けたのか!自分の浅はかさに何も言えない!)

 

おまけに勇気がないだけでなく迷っていると自分が何をしたいのかもわからなくなっている。

もう体力もないし・・頭も働かないし・・・英語も(相変わらず)イマイチ。

それに夫の面倒を見ないといけないし・・・。

と言い訳を言うことに忙しい。😅

 

そんな時に友人のいい知らせがあり、目が開いた。

 

結局、逃げても逃げても、

自分の心から完全に逃げることは無理なのだ。

友人の明るい知らせを耳にした時心にくすぶるものの正体を見た気がした。

それで自分は今まで一体全体何をしてきたのだろうか?と落ち込んだのだ。

 

自分を大切に

子供は幼い時は可愛いもの。(だから4人も産んだ!)

でもそれがずっと続くわけではないのだ。

成長するに従って独自の考えを持つようになり

親に反抗したり馬鹿にしたりもする。

大きな期待をかけて一生懸命育てた親はショックに決まっている。

頑張った親に限って、子供が大人になっても色々口出しする癖がやめれない。

そうなると子供から煙たがられることもある。

 

そうゆうふうにならないためには今から

自分の人生を生きるようにしないとダメなのだ。

自分の人生を生きるなら子供に変な期待をかけるなんてこともしない。

自分の人生を生きない母は依存症にかかっているのだ。

 

まずは自分から。

子供をどうにかしようとか

そういうことを考える前に自分の人生を修復し充実させ

自分の生き方に誇りを持てるようにしないといけない。

誇り高い母は子供にも尊敬される。

 

それをしなかったから自分は尊敬されていないし

避けられている・・・(と勝手にそう思ってる・・・😅)。

 

母が幸せに生きないと子供が犠牲になるんだ・・・と

我が子はみんなそう言いたいのだと感じている。

そしてそれが真実であると今更ながら納得する羽目となった。

 

母の日が近づくと事件が起きると思ってしまうのは

自分の潜在意識に潜んでいる本心が呼び起こされ、それに対して反応するから、起きること全てが事件と感じられるからなのだ!

 

だからこの母の日に皆さんに伝えたい。

私と同じことはしないように、と。😓

 

ドクダミママ至言

私のように人と比べて落ち込むようなら

今から自分を大切にして生きた方がいい。

犠牲を払っても後々感謝されるとは限らない。

自分の人生を充実させ自分の人生を生きれば

子供が彼ら自身の人生を生きることに口出しをしたりしないですむ。

ガッカリなんてこともない。

笑顔が増える。

すると子供にも好かれる母になれる。

 

まず、自分の本当に望んでいるものはなんなのか

自分の心の奥深にあるものはなんなのか感じ取ることが最初にすること。

本心は潜在意識の中に潜んでいる。

それを掘り起こして直視することははっきり言って怖い。

でも結局自分自身から逃げることはできない。

 

 

 

坊主に手を焼く母が多いのは普通

新しい住人

4月1日から階下を貸し物件として人に貸している。

借主はシングルマザーで子供が二人。

 

11歳の娘と8歳の息子。

とても人懐こくでかわいい(わたしにとってはね〜😅)。

 

       彼らの住んでいる階下の入り口。

 

で・・・あることを発見した。

毎朝この8歳の息子が大暴れをするということ。

 

母親のTさんが「朝だよ、おきて〜〜」というと

最初にいう言葉が「ノー!」😓

次にいう言葉も「ノー!」😓

何をいっても「ノー!」😓

おまけに大声で怒鳴るは叫びまくるは・・・で

手に負えない。

 

それから家を出るまで大騒ぎはずっと続く。

しかし母親のTさんはそこで大声をあげたりはしない。

ひたすら低く穏やかな声でリクエスト続けている。

(でも心の中は爆発しそうな雰囲気・・・)

 

たかが小学2年生でこれ。

先が思いやられる。

 

子供の素行は親のせい?

こういうのを「プロ」や子供のいない人が聞いたら多分こう言うのだろう。

 

育て方が悪い。

シングルマザーだから子供が寂しがっている・・・。

だから子供は心が荒れている・・・

などなど。

 

しかし子育てで苦労した私の立場としては

Tさんの立場を擁護する。

母親のせいではない!

 

自分ならどうするか?

この様子を聞いていて

うちの子供達はあそこまではひどくなかったかも・・・とちょっと安心。

しかしよくよく思い返してみれば同じような感じだったかもしれない。😅

 

今の自分ならどうするだろうか。

今ならもっと忍耐を示すことができそうだ。

それは叱る元気も残っていないせいもある。😅

 

もっと優しく対応可能かもしれない。

でもそれは長年の子育ての後にたどり着いた結果で

あの当時にそれをやれるかって・・・それはやぱり難しい。

 

あの当時は毎日が戦いだった。

子供が学校に行ってくれている間は内心ほっとしていた。

子供がいない時間が安らぎの時間。😅

そんな風に感じていることに対して罪悪感もあった。

しかし自分がどういう風に感じているかなど自分の自由意志の管轄領域であり

そこまでコントロールはできない。

 

坊主に手を焼くのは普通

なんでここまで母親に反抗しないといけない理由は一体なんなのか。

父親にはしない。

怖いからだろう。

でも母親にはする。

そしてわたしたちを苦しませる。😰

母親はフラストレーションの吐口なのだろうか。

つまり彼らのゴミ箱?

 

我が息子たちも、こんなことで、というような些細なことで反抗していた。

権威に反抗していたのだ。

どうもそれが男の子というものなのか。

でもそれは母親にとっては地獄なのだ。

この苦労・・・

大騒ぎしている本人たちは決して理解できないだろう。

 

こういう傾向は100%親のせいとは言えない。

生まれつきの部分が大きい。

9割の男児は母親に反抗するのが普通のようだ。

自分の意志を通すためには卑怯な戦いを挑んでくる。(誰かさんもやってますね・・😓)

そういう傾向がある。😅

 

三人の息子の養育に楽しいことがなかったわけではないけど

常にこの「権威を脅かそうとする」「反抗心の塊」である男児の養育に

魂をグサグサに刺されながらひたすら耐えていた。

(耐えたのはこんな息子でも可愛いからに決まったいる!)

 

反対にうちの娘にはそういうのはなかった。

同じ親から全然異なる子供が生まれる。

同じような感じで育てても結果は違う。

娘はくだらないことで日々悪いオーラを喚き散らしている兄たちを横目で見て

半分呆れていたようだ。

何故どうでもいいような理にかなわないアホらしい自己主張をやっているのか、

やってもまずいいことなど起きないのに、

何故いつになっても学ばないのか・・・と言っていた。

(だから娘は結婚して息子が生まれたらどうしようかと・・今から心配している・・😅)

 

現代は少子化が進んでいる。

子供の数が少ないと、もっと広い視野で物事を見れなくなってくるものだ。

それもあって

やいばはほぼ常に母親に向けられる。

ちゃんと育てられなかったからこうなったと。

それも一理あるかもしれない。

しかし・・・ほとんどは生まれつき。

特に男児。

四人の子供を育ててみて

子育てには親の手の届かない部分が多いことを認識する結果となった。

 

だから・・・

 

つまり・・・

 

私の言いたいことは常にこれ!

子育てに必死になるな!

 

いい加減子育てで全く構わない。抜け道を作って全然かまわない。

 

当然、住むところと食物を与え、気候にあった服を着せることは必須。

残りは・・・ただの選択肢。

 

それでいいのだ。

 

どうせ頑張ったって大した成果は期待できないのが普通。

それに親が頑張ってどうなるの?

(本人が頑張らなきゃ!)

 

子育てを頑張るんじゃあなくて

自分の人生をしっかり生きることの方が大切。

自分の人生が充実している人は子供に変な期待をかけたりしない。

そのままの状態の子供でも受け入れられる

(というか考えているひまもない・・)。

 

子育てを頑張るんじゃあなくて

自分の精神を強くする方が大切。

精神を強くすれば余裕も生まれる。

余裕が生まれれば子育てもよりスムーズに行く。

 

ドクダミママ至言

息子に手を焼くのは普通。

彼らが親に反抗するのも普通。

子供に期待するよりも自分の人生をしっかり生きることの方が大事。

自分の精神を強固にする方が大事。

この精神の強さから余裕も生まれる。

余裕があれば子育てもうまくいくようになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

親の励ましの言葉が子供の重荷になる

石畳にほんのちょっとの隙間を見つけ勝手にそこに住むことにしたさくらんぼの木。こんな貧環境で生き延びられるのかなあ?頑張れ!!!と水をあげる。するとちゃんと応えてくれてしっかり育ってきてくれている。我が子にも親は励ましの言葉をたくさんあげる。でもしっかり育ってくれない子供もいる。そんな時はどうしたらいいの?と迷い悩むのが親。それに答えはあるのか?

励ましの言葉に応えられない子供もいる

一般的な親は子供に励ましの言葉をあげることが多い。

頑張れ!という一言だけでない場合も多い。

 

自分の例で行くと

著名人の名言を口走る・・などもこれに入る。

 

例えば・・・こう言った感じの・・・

  • 努力は必ず報われる!(王貞治)
  • 諦めるのはいつでもできる。でも諦めないのは今しかできない!
  • 他人が休んでいる間に走れ!(本田圭佑)
  • 本当の成功者はやる気のない時でもやる!

などこういう言葉を’常に’😅投げかけていた。

おそらく自分は親というより、メンターでありコーチでもあった。

 

そう、わたしはまさしく日本のタイガーマムだった。

我が子のためにはどんな犠牲も払うつもりで、

それには常に励ますということも入っていた。

 

でも・・・その応援に応えられない人間がいるということに後になって気づいた。

親の励ましが重荷となり

成功どころか

やる気が完全になくなり

引きこもってしまったりする子供も世の中にはいる。

自暴自棄になったりもある(我が子がそれ・・)

 

多分その励ましには「期待」が入っているからだと思う。

 

励ましの言葉に期待が含まれているなら子供によっては害あって利はないこともある。

世の中にはこういう親の励ましについていけない子供もいるのだ。

励ましが重荷になるくらいなら

何かがうまく行った時に「よかったね」と言ってあげるくらいの軽さで丁度いい。

 

そもそも、やる気も個性のうち。

励まされたからってみんながみんな頑張れるわけでもない。

頑張るかどうかは、究極的には本人の生まれつきの性格と選びなのだ。
(常に誰かに励ましてもらわないとやる気が出ないような人は最初から成功する器じゃあないのだ!やる気の自家発電ができる人が普通は成功するものだよね)

 

励ましの言葉は自分に言う

それじゃあ親はどうしたらいいかというと・・

上記の励ましの言葉を自分自身に言うのだ!

所詮、他人の人生はコントールできない。(我が子だって他人なのです😅)

子供は結局は親の願いとは別の方向に行くことが多い。

だから期待は自分にかける!

自分自身の人間としての成長に重きを置く。

 

子供には子供の人生がある。

自分には自分の人生がある。

 

自分の人生を変えられるのは自分だけ。誰も自分のためにそんなことをやってはくれない。

(キャロル・バーネット:女優)

 

子供こととで落ち込んでしまうのもそれは自分の問題。

落ち込みの引き金は子供でも

落ち込んでいるのは自分自身。

その状態から這い出るには

結局自分で変わりたいと思い

変わろうと行動しないといけない。

 

同じように、

子供がしっかりやれない面があるのも子供の問題。

色々事情はあっても究極的には本人の責任なのだ。

子供がその状況から這い出るには

結局本人が自主的に変わりたいと思わないといけない。

変わろうと行動しないといけない。

 

人生の目的は自分磨き

今も心に重くのしかかってくる子供の問題。

もうすでにたくさんのアドバイスをあげ援助をしても本人が腰を上げないなら

自分を変えようとしないなら

それは本人の選びであり、

親にはもうできることはほとんど残っていない。

だからその代わりに

親は自分の魂の成長に心がけ

人格を磨くことに焦点をおくべき。

実際、頑張っている親の姿の方が「頑張れ」と言う励ましよりも遥かに力がある。

 

結論として

親はエゴを捨て、

親の見栄も捨て、

ほんのちょっとの進歩を喜んであげれるくらいでいい。

それぐらいで丁度いい。

それ以上は望まないこと。

 

同時に親は自分の人生を生きる。

これに尽きる。

子供はあなたの延長線ではないのだから。

 

ドクダミママ至言

励ましが重荷になる子供もいる。

手の届きそうもない期待と励ましは害あって利なしのことが多い。

励ましや期待をかけるよりも小さな前進を褒めてあげるほうがいい。

子供の人生は子供のもの。

親の人生も親のもの。