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ドクダミママ至言

母業落第の果て:もっと早く知りたかった子育てへの答え

何が母親を追い詰めるのか?

ずいぶん前のことになる。

アメリカでアンドリア・イエイツという女性が自分の5人の子供たちをお風呂で溺れさせた殺人事件が話題となった。

 

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(出典: https://thumbnails.texastribune.org/CQRHanOM9DzCA-LQnSB4HD42kBs=/850x570/smart/filters:quality(80)/https://static.texastribune.org/media/images/2014/08/05/AndreaYates-Collage.jpg

 

たまたま出席したある女性の集会で誰かが彼女のことに触れていた。

「信じられないわ。自分の子供を殺すなんて。」

わたしは黙って他の人の意見を聞いていた。

でも内心は人ごとではないと思った。

誰にでも「魔がさす」ことはあるものだ。

殺人は確かに恐ろしい犯罪だが、人のことを言えた立場ではない。

 

それに後でわかったことだが、彼女は様々な精神病を抱えていた。

もともと学力的に優秀で高校も一番で卒業し大学は看護学を専攻していた。

卒業後は看護師(米国では女性のエリート職)として病院に勤務していた。

その後結婚をし子供を産んだ後に症状が悪化したらしい。

産後うつがひどいのに、年子で5人の子供を産んだ。

一人産むごとに症状がどんどんひどくなっていった。

その上ほとんどはたった一人で子育てをしていた。

自分の問題に対応しながら他の人間のニーズも満たさないといけない。

自分が満たされていないのにどうやって他の人間を満たすことができるのか。

様々な精神病薬を摂っていたがそれは一時効くだけで、

かえって狂ってしまったことも考えられる。

そして最後に我が子を全員殺してしまった。

 

私は彼女に同情心を抱いた。

かわいそうに。

一線を越えてしまったのだ。

本当はいい母親になりたかったに違いない。

我が子を愛していなかったわけでもないのだ。(判決は精神病院で一生治療を受けることになったが、毎日可愛かった子供達のことを思い出し自分のしてしまったことを悔いて泣いていたそうだ。)

彼女はたくさんのヘイトメールをもらっていた。

そこには「お前は最低の母親だ!」ということしか書いてなかった。

でもおそらく彼女は人から言われなくとも自分が最低の母親であると充分知っていたはずだ。

 

自分も完全な親ではない。

だからどの親がひどいとかどうだとか裁く資格はない。

ただ辛かっただろう彼女の気持ちがとてもよくわかる。

 

わたしは自分の子供を殺めたことはない。

でも時々、我が子ながら無性に可愛くなく見えたりイライラしたりということはたくさんあった。

プラス母親というのは常に疲れている。疲労が重なっている時に無秩序な子供に対応するのはかなり大変である。それも毎日無欠勤で対応するのである。果てしない砂漠を歩いているような感じでいつ終わりが来るのかもわからない。そして子育てで干からびていく自分を感じるのだ。

 

問題は一人で子育てをする孤独な環境が女性を追い詰めるのではないかと思う。

現代の核家族構成や社会構成に問題があるように感じている。

 

わたしは夫が博士課程にいる3年間、幼い子供3人と大学院の家族用アパートに住んでいた。周りは世界各国からの家族で、中国、韓国、中南米各国、マレーシア、ユーゴスラビア、ギリシャ、ドイツが代表的な国籍だった。アパートには広い芝生の庭が付いていて、各家庭の入り口は1階にあり1階と2階両方が住居スペースだった。だから子供でも自由に外と中を出たり入ったりが可能だった。

我が家の子供達は同じアパートの子供達と言葉があまり通じないけれど、いつも仲良く遊んでいた。母親たちは他の母親たちと話しながら同時に子供達が怪我をしないように絶えず目を離さないようにしていた。私は赤ん坊を抱えていてとても疲れていたために、同じアパートの母親たちがうちの上の子供たちをよく見ていてくれた。4番目の子供を産んだ後も、私が休めるようにと毎日長時間子供達を監視してくれていた。

自分の子供が悪いことをすればその母親たちが叱ってくれた。

悩みがあれば「いつでも」相談に乗ってくれた。

夫は博士課程でクラスを履修しながら新聞配達と大学の講師をしながら家計を支えていた。私は家で絵画を教えていた。お金もなくアパートも手狭でかなり老朽化していたが(プラス、ゴキブリがすごい!)、とても幸せだった。わたしたちには希望があったからだ。そしてもう一つの理由は、アパートには同じような境遇の隣人がいて互いに子育てを支え合っていたからかそれほどのストレスを感じなかった事が考えられる。

ひとえに言える。

子育てには理想的な環境だった。(↓ここに住んでいた!)

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(出典:https://radio.wosu.org/post/buckeye-village-closing-ohio-state-graduate-students-limbo

その後夫は博士過程を終え、私たち家族は他州に引越しをし小さな家も購入した。

そこから私の子育てのストレスが始まった。

一軒家に住み、たった一人で子育てをし始めてから始まったのだ。

家にこもって一人で一生懸命子供と顔を付き合わせながらの子育て。

子供が周りにいるのになぜか孤独を感じていた。

社会から完全に切り離されていたように感じていた。

まさに危険な環境そのものだった。

だからあの貧乏生活が懐かしくてたまらなかった。

 

そう言えば、この家族用アパートの外国人母親たちに聞くと、自分たちの国では皆こうやって協力して子育てをしていると言っていた。家族みんなで、コミュニテイみんなで子育てをサポートするらしい。だから母親が精神病になって子供を殺めるなんてことはないのだそうだ。それならこれは先進国特有の現象にちがいない。

核家族は親の世代とは異なる自立した若世代の好むような家族関係の構築を促すと思われているが、実は自立して子育てなんてほとんどの母親には無理のように思える。

一人で完全に責任を持って?

できるわけ?

私は4人の子供を育てるにあたってそうしようと努力したが、

今思うと「やっぱり無理」だったという結論に辿り着いた。

そして「できません」と素直に認め人の助けをたくさん借りるべきだったと

後悔している。

 

核家族子育てと社会から孤立した子育てが母親を追い詰める気がしてならない。

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ドクダミママ至言

核家族子育ては母親の精神衛生上最悪。

社会からの孤立も危険。

たった一人で向き合わない。

できないことはできないと認める。

理想と現実の違いをよく見極めること。

周りの助けをどんどん借りる。

 

 

 

子供も親も発展途上の旅人

 

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(出典:ttps://www.adirondackalmanack.com/2014/08/roaring-brook-falls-climbing-a-classic.html)

親の犯す大きな間違いに、子供に完璧を望むとか、大人のレベルを期待することがある。

それは子供にとってはとってもアンフェアなこと。

子供は大人ではないから大人のようにできなくて当然なのだ。

でも大人はそれをついうっかりと忘れてしまうことが多い。

 

考えてもいただきたい。

子供の目線で見たらその子供のレベルで全く問題がないのだ。

でも親の目線で見たらそうとはとても思えない。

それも子供にとってアンフェアである。

だから子供にイライラしたくなかったら、目線を下げることが必須であるかもしれない。

 

自分の子供の現在の立ち位置は問題があるわけではない。

現在の成長過程においてぴったりの段階にあるのだ。

だから今のままでいい、と見てあげることが大切であると思う。

 

それに親がいつも正しいというわけでもない。

大人も子供と同じように日々切磋琢磨しながら成長を心がけて生きているわけだから。そういう見方をすればどちらが上ということもない。

大人も子供も常に発展途上状態にいることを忘れてはいけないように感じる。

 

わたしも、自分の子供を見て「なんでこの年で、このレベル?」とため息をつくことが結構あったし今もある。

でもそういう風に感じると落ち込むのが目に見えているので、そんな時はとっさに自分に言い聞かせている。

「いや、これでいいのだ」

「本人なりに頑張っているのだから」

「失敗しても本人のやり方で納得がいくまでさせるべき」

と。

 

でもこうやって黙って見守ることのしんどいことよ。

だから見守らない。

ただ運を天に任せている。

そういう姿勢も大切かもしれない。

そういう心構えで親業に臨むことが親子両者の精神衛生に良い影響を及ぼすのではないだろうか。

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ドクダミママ至言

親も子供も発展途上の旅人。

親も子供も自分なりの旅の仕方がありそれでいい。

どちらが上ということもない。

だから「親だから」と威張らない。

子供の今の段階を受け入れ信じてあげることが両者の精神衛生に大切。

 

 

 

 

量子力学からみた親子の関係〜なぜ忘れられないのか?

 

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(出典:https://trianglemothercare.com/career-opportunities-for-doulas/

私の心の中から子供のことが消えることはない。

いつも心のどこかにある感じがする。

いい加減子離れしないといけないといけないとわかっているけど、実際はとても難しいと感じている。

 

でも思う。そんなことが果たして可能なのだろうか、と。

親と子供の物理的及び心理的距離は遠くなったり近くなったりはあるとしても

完全に離れたり忘れてしまったりはあり得ないのではないか。

それは親と子供の心は繋がっているからではないだろうか?

おそらく、切っても切れない何かがそこにあるのだ。

 

アメリカでこんなことがよく言われている。

「ママの頭の後ろにも横にも別の目が付いているのよ。だから何が起こっているか全部お見通しなのよ。」

私もこれには同感だ。

実は見ていなくても感じるものがあり、自分の子供に何が起きているか誰にも言われなくとも察知できるのだ。

これを直観と呼ぶ。

母の第六感と呼ぶ人もいる。

これで遠くにいる子供の事もわかる。

そのため心配もすごくする。

 

わかる理由は

子供が一時は自分の細胞の一部であったから?

そうかもしれない。

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(出典:https://dimensional-life.org/quantum-entanglement

他の理由としてTheory of quantum entaglement(量子もつれ論)が考えられる。

これは量子力学の専門用語で、

つまり二つの素粒子がからみ合うと、例えどんなに遠く離れたとしても、つながりがずっと維持され消えることはない、という意味だ。

そして一素粒子に何かあると、もう一方の素粒子にも一瞬にして反応があると言われている。

 

親子の関係もこれに当たるかもしれない。

根本的には人間も何億という素粒子の塊からできている。親の素粒子と子供の素粒子は一時はからみ合っていた。だからどんなに離れていても、その素粒子同士の繋がりが消えることはなく、さらに子供に何かあると親にも反応があるのだ。

だから親は子供に何か悪いことが起きていると察知できるのではないだろうか。

 

結論的に言えば、

本当の意味での子離れというのは存在しないのだ。

子供は自分とは異なる物体であっても、素粒子の段階では切り離すことはできない。

それが現実で、真実でもある。

 

子供の自立のために親は子離れを挑むが100%の子離れは無理であると思う。

でもそれが当たり前なのでは?

どんなに距離的に離れてもどこかでいつも子供とくっついているのだから。

2種の素粒子の塊が離れていても影響を与え合っている。

互いに響き合っている。

それが永遠の自然の摂理でそれが正しい。

 

だから、たとえ干渉を停止したとしても

わたしが我が子を完全に忘れる日は永遠に来ないと思う。

素粒子がつながっているからだ。

 

 

 

なぜ子供に怒るのか

 

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(出典:https://www.ahaparenting.com/blog/Self_Care_When_Your_Kids_Push_Your_Buttons

 

親が子供に怒るのは愛情表現の表れ、とどこかで聞いた。

本当だろうか?

これが本当なら、激怒の度合いと愛情の深さは比例することになる。

つまり激しく怒られれば怒られるほど親の愛情を感じるという方程式になる。

でもわたしは子供の時に大人に怒られて愛されていると思ったことははっきり言ってない。

あなたもおそらく同じではないだろうか。

 

でも確かに親がその子供を思ってと言うのはあるかもしれない。

では、その「思い」とはどんな思いなのだろうか?

その子の将来を思って、という崇高な「思い」?

奥底の思いはそうかもしれない。

でも気がついていない隠れた心の動きも存在している。

 

それは「恐れ」である。

怒りは怒っている人の心の中の「恐れ」を表している。

つまり、怒りは自分を守るための自然なメカニズムなのだ。

では誰を守るのか?

それは親自身に他ならない。

 

例えば

子供が嘘をついたとする。

普通の親はとっさに焦る。

そして子供をしかり飛ばす。

とてつもなく大きな声をあげたりもする。

暴力が伴うこともある。

 

子供が勉強がよくできなかったとする。

ひどい試験の結果を見て親は逆上する。

勉強のできる子供は怒られる回数が少ない。

でもその反対の子供は怒られる回数が増える確率が高い。

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(出典:https://cindysadler.com/cindys-list/2018/9/2/blog-dont-make-me-sing

 

それは「親」の心の中の「恐れ」の表れなのだ。

 

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Scream. Munk. (出典:https://isha.sadhguru.org/us/en/wisdom/article/how-to-overcome-fear

自分では気がついていなくとも

嘘つきが癖にでもなった時の事を想像して怖くなるのだ。

成績が悪くなり進学に影響し就職にも影響し我が子の将来が破滅するかもと最悪の事態を想像して怖くなるのだ。自分のようになって欲しくないから同じ歴史を繰り返す可能性のある我が子を見て怖くなるのだ。

自分が親として社会に顔向けできないという思いにかられ怖くなることもある。

 

それは親の心の安定や平穏を崩すことになる。

親は失った心の均衡感を取り戻すために、原因を作った子供に対して怒りを覚える。

子供は親の心の陣地に遠慮なく侵入し、戦いを挑んてくる「敵」とみなされる。

陣地に潜入して来た「敵」である子供は子供といえどやっつけないといけない。そうしないと自分が代わりにやられてしまう。

 

だから

 

子供に対して怒る=親の自己防衛

これに他ならない。

 

子供がわがままだったり大泣きを続けると親はイライラして思わず怒鳴ったりすることもある。これも親の自己防衛の表れである。

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(出典:https://www.ahaparenting.com/parenting-tools/positive-discipline/handling-anger

つまり

簡単にいうと、

子供に怒るのは

子供のせいではなく

親の根本的な心の問題にある、ということだ。

 

不安感の多い親は恐れも多い。

そういう親が怒りやすい。

子供が病気がちなら親はなお心配性になる。

心配性は恐怖と化し、恐怖は怒りにつながる(怒りが伴侶に向けられる事もある)。

心は知っている。

自分を守らなければ破滅してしまう、と。

だから自分の心の安定を揺るがす敵はやっつけないといけないのだ。

 

人間は自己を犠牲にして人のために生きることができると言われているが、

結局のところ、自分が一番可愛いのである。大切なのである。

子供が一番なら子供に大声をあげたりはしない。

手を出すなんてまずありえない。

 

自分のことを振り返ってみて、子供に怒った時は自分がすでに他の原因でイライラしていて不安であった時で、そんな時に子供がイライラ原因を上乗せしてくれた時が多い。つまり自分の心の中で勝手に色々妄想していた時である。はっきり言って子供とは全く関係がなかったのだ。

気がつくのに遅いということはない、と自分に言い聞かせ、過去を挽回するごとく今は常に自分の態度を振り返るようにしている。でもやっぱりもっと早くこの事実に気づいていればよかったと思う。

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ドクダミママ至言

これから、もし子供に怒ってしまったら、その時は自分の心の動きはどこから来るのか考えてみてください。それはきっと「恐れ」からかもしれません。あなたの心の中の「恐れ」とは何か、それは果たして恐れないといけないような事柄なのかよくよく考えてみてください。それをすることによって子供に対し怒る頻度が少なくなっていくことでしょう。そして心の均衡性を保つことができるようになります。保証できます。

ほんとに。一緒に頑張りましょう!

母親になると自己喪失症になる

 

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子育ては大変!(出典:https://nekochan.jp/cat/article/1206

母親になると自己を喪失する。

子供のために犠牲を払って生きているとだんだん気がつかない内にそうなっていく。

 

でも多くの女性は心の中ではこう思っている。

子供を育てながらでも自分の個性や自分の興味関心事を維持したい。

今は無理でもちょっと余裕ができたら。

とか考えている。

 

でも現実は違う。

自分の興味は子供に関することに変わり、それが普通になっていく。

ふと口から出てくる曲は全部子供番組の歌だったりする。

話す事も子供のことだけ。

読む本も育児書のみ(それと時々料理の本)。

個性?それは何のことだっけ?

、恐ろし〜い変貌だ

 

わたしにもやりたかった事など数え切れないほどあった。

でも子供と自分のやりたい事を天秤にかけて比較してみると、いつも子供が勝った。

確かに、可愛い子供たちの幸せのために自分を犠牲にすることは立派なことと言うのかもしれない。

それはわかっている。

でも、そのような理想的な考え方は、わたしのような人間には日々「自分自身」を殺さなければできないことだった。

 

自分のこともやりたい。

母親という荷が重たい。

そんなことを誰かに言おうものなら、きついお叱りを受けるのが目に見えている。

だから誰にも言えない。

黙って耐えるしかない。

 

わたしのような「自分で一杯」の女性にはとってもきつい。

自己犠牲を毎日毎日休みなくずっとやっていることが辛いのだ。

 

でもどんなに辛くともほとんどの女性はこれをする。

結果的に自分を見失っていく。

それはたとえ母親といえど非常に悲しいことなのだ。

 

消えていく自分を感じる時はたった一人で窓の外を眺める時。

そんな時は涙がふとこぼれる。

わたしは一体なんなのだろうか。

誰かの母親という名が自分のアイデンティティで他には何もない。

自分の存在は子供の延長線にあるだけで、本当の存在ではない。

生きていて生きていない。

生きているとしたらそれは自分の人生ではない。

そんな風に感じられて仕方がなかった。

 

わたしは一番下の娘が18歳になる時をずっと待っていた。

さあ、これから羽ばたくぞ〜と。

でも、その時がきても何をしていいかわからなかった。

何もしたいことがない、興味もない、と感じた。

子育てで疲れ切っていて何もする気が起きない、というのもあった。

子供達はどんどん巣から飛び立ち、自分には何も残っていない、という風に感じた。

自分の貯水池の水を全て使い切ってしまったのだ。だから何も残っていない。

カラカラの干からびた貯水池でこれから何をしようぞよ。

 

母親はこうやって少しずつ自分を干からびさせながら子供のために生きていく。

でもそれを素晴らしい理想的な母の姿、と絶賛するのは通常男性。

女性はあまりそうは思っていない。

娘は「わたしはそうなりたくない」と言う。

わたしも娘にそうなって欲しくない。

 

自分を失うほどに子育てをしてきて、今思うことは、

そこまでしなくとも良かった、に尽きる。

もっと自分を大切にすれば良かった。

そうやって生きることを、自分勝手やワガママのように言う人もいるが

わたしはそうは思わない。

 

母親には自己を充電させる時間が絶対必要であると思う。

子供とは関係ない趣味や関心事を維持することは

女性にとって贅沢品ではなく生きていくための必需品ではないだろうか。

母親という役目を離れたところで自己を見つめる空間が必要なのだ。

 

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ドクダミママ至言

子供のために色々やってあげてもいいけれど、自分を100%見失うほどするべきではない。犠牲心に富んだ明るい母ならいいが、暗い母なら意味なし。

実は明るくてハツラツとした母であることが子供にいい影響を及ぼす。そのためには自分を見失うべきではない。充電する時と空間は贅沢ではなく必需品。

自分の内面を充電させるように。

 

 

 

ショック!成績はF?

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らせん階段で寝ているニャンタ。僕は世界で一番優秀な猫!寝ることに関しては成績はいつもA!


うちには猫がいる。

時々ネズミを捕まえてくれる以外は何もしないで寝ているばかりだ。

でも何もできなくとも飼い主は最高だと思っている。まさにうちの猫の成績はA!

これを科目別にしてみると、

 

愛嬌:A

愛らしさ:A

柔らかい毛並み : A

目と鼻と口と顎と足のかわいさ:A

鳴き声の可愛いらしさ:A

死人のようにひたすら眠れる能力:A

コニュニケーション能力:A

飼い主に対する忍耐力:A

愛情表現能力:A

自己中心的能力:A

 

その飼い主はというと

恥ずかしげもなく世界で一番素晴らしい飼い主だと自負してやまない。

忍耐力:A

理解:A

自制:A

素行:A

問題に対する俊敏で的確な対応:A

条件抜き愛情:Aプラス

だから飼い主としての我々の成績は当然A!

 

でも・・・

 

もしわたしの母業に成績をつけるなら、間違いなくF!

とわたしは思っている。

開き直ってるよね〜。

でもこれほんと。

 

子育て中に毎日思った。

これって、わたしの最も苦手分野だと。

日々自分の自尊心がガラガラと音を立てて崩れていって行くように感じていた。

それなのに瓦礫の中にあってもこの子育てを続けないといけない辛さ。

言葉に表せない気持ちだった。

 

わたしは大した頭ではないのに、あまり役に立たない学歴だけはある。

博士号なんて子育てに比べれば簡単。

自分のことはある程度努力すれば並みの結果を出すことはできる。

でも子育てとは、自分以外の人間が関わっている。

はっきり言って

努力がどうとかいう問題ではないのだ。

 

いつもつくづく思っていた。

女性が男性と同じ教育を受ける理由はなんだろうか、と。

学校教育で母業に役に立ったと思うのは家庭科の一部と読み書きそろばんくらいだろうか。

だからわたしは学校では最も大切なことを学ばなかった。

それは子育てについて。

家庭科では子供の成長とニーズについて大まかに触れただけである。育て方について学んだ記憶はゼロ。

 

子育ては洋裁とか料理とか掃除より困難。

それは上記は技術的な類だから学ぼうと思ったら学べる。上達も約束できる。

でも子育ては技術ではなくアートだ。

 

で、わたしの学士号と修士号はなんと

美術!

つまりアート!

 

それなのに子育てのアートはできないのだ。

長くやっていても上達は約束できない。

 

結局、わたしにはできない。

できない。

その言葉しか出てこなかった。

 

大学の専攻に親業というものがあるなら科目はこんな感じだろうか。そして私の各科目の成績もこんな感じになる。

忍耐:F

理解:F

自制:F

素行:F

問題に対する俊敏で的確な対応:F

条件抜き愛情:C

(F➕F➕F➕F➕F➕C)➗6F。やっぱりFから抜け出せない。

 

これで見ると、わたしは学校制度の中でいうと「落ちこぼれ」以下だ。

つまり落第。

この現実はわたしの自尊心を粉々に砕いた。

 

それで落ち込んでいた。

それもずーと。

 

ある時、友人に言われた。

子供が30歳くらいになるまでは自分に成績をつけらたいけないよ、と。

、それならまだまだ時間がある!

 

そうか。30歳ね。

それを聞いて少しは気が楽になった。

でも、30歳になってもFだったら?

その時は、それは親のせいではない!

と友人は言っていた。

 

でも思うに、わたしのように感じている親は多いのではないだろうか。

それぞれの状況にうまく対応できない自分に対する落胆。

子供が思い通りにいかないことに対する落胆。

子供もFかもしれないけど、自分はもっとFである。

子供がちゃんとできないのは母親の責任だと自分でも思っている。

それは子供が何歳になっても同じで、万国共通の母の気持ちだ。

 

誰が成績をつけるわけではないのだが、

母親は誰に言われなくとも自分に成績をつけるきらいがある。

それは簡単には捨て切れない原始的または動物的属性かもしれない。

そして成績の基準は属している社会が影響していることは明らかだ。

 

成績というものには、そのものさしと基準が関わっている。

誰のものさしでどういう風に測るかが問題。

「成功」の基準をどこに置くかが問題。

基準を高くすれば、自分も子供も当然F。

でも基準を低くすればAかもしれない。

どこから見るかにもかかっているように思える。

 

今でもFという成績を私の脳裏から拭うことは難しい。

でも以前よりは随分改善してきたように思える。

それは自分をいたわる事も大切だと思えてきたからだ。

 

ご苦労様。

成績なんてないですよ。

努力だけで、Aプラス!

 

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ドクダミママ至言

自分と子供に成績をつけてはダメ

(最高30歳までは。その後は親には関係ない。諦めるべし!)。

測るものさしを変えるべし。

測る基準は自分と子供のものさしで決めること。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子供が全員問題ぞろいで真っ青の時は?

わたしの4人の子供たちは健康疾患や発達障害のオンパレードだった。

風邪や中耳炎などのよくある病気を抜かして・・・

 

肥厚性幽門狭窄症

トーレット症候群

ADD

軽度自閉症

虚弱体質

鼠径ヘルニア

アトピー性皮膚炎

胃潰瘍

軽度知的障害

乾癬(かんせん)

難聴

言語障害

潜在性二分脊椎

不思議の国アリス症候群

膵外分泌不全

自己免疫疾患

心膜炎の疑い。

 

だから子育ては命がけだった。

4人も子供がいて健康で平均的な子供はゼロ。

思えば解決策をいつも探していた。

 

どうやって多数の症状を緩和させるか、と考え事ばかりしていた。

でも一夜で答えが見つかるというわけではなく、

どうにもできずストレスばかりが倍増し、

神経はすり減るだけすり減って行った。

 

 

こんなの自分の力では到底不可能。

できない、できない!

 

神様・・・わたしのような人間には重すぎてできません。

助けて・・・。

といつもシクシク(オイオイの方がどちらかというと正解かな)。

 

こんな手に余るような課題から逃げたかった。

でも逃げられないので対応するしかなかった。

多くの場合は西洋医学では無理だったので、代替医療を利用していた。

それに効くものもあったし効かないものもあった。

 

色々試して見たが結論として言えることは、

様々な障害や疾患は成長していくに従ってだんだん改善していくものだ、ということ。

当然、この中のリストには最近わかった病名もあるので、なくなったわけではないのだが。多くは消えていった。

 

今言えることは、

どうにかなるもんだ!

これほんとです。

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ドクダミママ至言

いつかどうにかなると信じて”なるべく”明るく対応する事をおすすめ。

子供はいつも成長段階の途中にいるので今後どんな展開になるかは今は見えません。だから改善すると信じることが親にとっても子にとっても精神衛生上必要だと思います。

それに強く願えば叶うというではありませんか。信じること。これにつきます。

心配しすぎると家の中が暗くなってしまいますからね。親としてできることはやってあげて結果は心配しないで天に任せるくらいの心構えが丁度いいと思います。

 

「子供のために生きる」対「子供を通して生きる」

子供のために生きることは問題ではないと思う。

普通ほとんどの親は子供のために一生懸命いろいろなことをやってあげるものだ。

 

それはどういうことかというと

子供の必要に応じることであると思う。

例えば、

 

病気の子供の看病をする。

宿題を助けてあげる。

相談に乗ってあげる。

健康管理をしてあげる。

など。

 

でも実際は親はこれ以上のことをしているはずだ。

そして子供のために生きるだけではなく

子供を通して自分の人生を生きるようになるケースも多々ある。

 

子供を通して生きるということは

つまり、

 

子供の喜びが親の喜びの全て

子供の成功が親の成功の全て

 

であるかのように生きることを指す。

すなわち、

 

自分を子供の中に見いだすこと。

子供と自分の存在をダブらせること。

子供に自分が成し遂げられなかった夢を託すこと。

自分の理想としていた(でも叶わなかった)人生を子供に生きてもらうこと。

などを意味する。

彼らにとって、子供は自分のエクステンションだから子供の喜びや成功は自分の努力の成果であって当然なのだ。

つまり彼らの子供は自分自身と同じなのだ。

 

子供が喜ぶのを見て喜ばない親は普通いない。

でもそれが全て、というのがまずいのではないだろうか。

 

そして、子供の成功が親の成功というのはプレッシャーのかなり高い子育てになりうる。

成功すればいいが、もし成功しなかったらどうなるのか。

それは親も成功をしなかったということになる。

そうなった時にはどんな結果が待ち受けているのだろうか。

 

親業にはかなりの犠牲が伴う。

これを長くやっていると、親は子供を通して自分の人生を生きることになりかねない。

それには「重たい親」になりやすい要素がたくさん潜んでいる。

子供にとってははっきり言って負担である。

大体が精神衛生上よくない。

 

子供を通してではない人生を生きるとは

自分中心に生きると言うことではなく

親は親で自分の成長に焦点を置くことではないだろうか。

そして子供には子供なりの人生をおくらせてあげることではないだろうか。

親は精神的に自立していないといけないのだと思う。

自分の幸せを子供に依存していてはいけないのだ。

 

親が自分の人生を自分の考えで生きているならその子供は心が楽になるのだ。

親がそうすることは、子供にも自由に自分の人生を選んでいいんだよ、と許可を与えることにつながる。

転びながらでも自分の人生を開拓していくことが許されている子供は親から信頼されていることを知っている。だから勇気があり素直に自由に生きることが普通だと思っている。そういう子供は幸せな子供だ。

 

氷点という小説を書かれた三浦綾子氏がこんなことを語っていた。

「どんなにその人を愛していても、あなたの200%を捧げてはいけない。あなたはその人をいずれは憎むようになるでしょう。」と。

 

子供ために200%人生を捧げるということは、普通愛情だけが理由ではない。捧げる限りはしっかり結果も伴ってくれないとその犠牲が台無しになってしまう。

200%の犠牲というのは限界の上のそのまた上を行く。

でも普通親は容易にそれくらいのことをしているものだ。この子の幸せのために、この子の将来のために、と止むところを知らない。

でも、その子供の幸せとは親の知らない別のところにあるのかもしれない。

そしてもしその別の道を我が子が選んだら、親は「子育て失敗」と言うのだろう。

 

親の目から見て立派にならなかった我が子を指して、親は「裏切り者」と言う。

そんなことを言われて子供はなんと返せばいいのだろうか。

たとえ親が子供にどんなに犠牲を払ったとしても、どんなに愛していても、

子供は親のトロフィーでもないし、親の所有物でもない。

そんな親を持つなら子供は息苦しさを感じるだろう。それと同時に、親を喜ばせられるような結果を出せなかった場合は子供は引け目に感じたり罪悪感を抱いたりもする。

反対のタイプは、親を愛しているから自分のやりたいことを捨ててまでも親の希望に沿うようにするだろう。でもそれは子供の本心ではない。本心でないことを選ばされた子供はあとあとまでそのことで親を恨むかもしれない。親は親でそう思われ続け嫌な思いをする。

両者が不幸になるのだ。

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私は子供のために生きたと思う。そして子供を通して自分の人生を生きた。

もちろんそれにはそうしないといけないような背景があり、結果的にそうなってしまったからだ。でもそれをとても後悔している。

私はある意味で重たい母だった。もっと軽やかに生きればよかった。

だからちょっと(かなり)遅いけど、今軽やかに生きようと毎日跳ねまくってま〜す。

でも最近体が重くて、いまいち跳ベな〜い。汗。

 

ドクダミママ至言

自分の人生を子供を通して生きてはいけない。

親は精神的に自立すべきで、子供に執着したり無理な期待をかけたりしないこと。

子供には子供の人生を生きさせてあげること。それが本当の愛情というもの。それが本当の犠牲心。

 

 

 

 

 

 

 

考えすぎる母は教科書が大好き

教科書はどこ?

機器関係のものを購入すると通常は使用説明書なる便利なものが付いてくる。

でも・・・

子供は子育てマニュアルなしで生まれてくる。

説明書がないので大体の人は「平均的な」子供向けの説明を読み情報を得ることになる。

 

私も子育て中にいつもやっていたことは教科書探しだった。

それぞれの子供の問題に対応するための答えが書いてある教科書。

それをずーと探していた。

だから最低100冊は読んだと思う(これプラス、ネット情報も少し)。

 

その結論とは?

読めば読むほど混乱していった。

 

答えはあったようでなかったような。

今でもよくわからない。

 

親業は実地訓練でトライアル&エラーで行われる。

それで本などに頼る人にはこんなことが起きやすい。

 

この本にこう書いてあったからこれをやってみよう。

3ヶ月。

う〜ん。

うまくいかない。

次!

これもうまくいかない!

次!

 

活字に頼るとこんなことを繰り返す可能性が高い。

そしてその犠牲者は当の本人である子供にしかり。

当然、子供はたいへん混乱することになる。

親が子育ての方法をいろいろ変えるからである。

私は息子の一人にこんなことを言われた。

「実験台」と。

それを言われて「ごめん」としか言えなかった。

 

その実験でうまくいく場合も確かにある。

うまくいかない場合の方が多い。

 

なんとかメソッドが素晴らしいと言われているから飛びつき、でも我が子には合わないこともある。

ここが親業の非常に難しいところなのだ。

料理は失敗しても、次に気をつけてまた作り直せば良いし、まずかったらもう作らなければいいのだ。

子育てはそんな風にはいかない。子育てで失敗すると取り返しがつかないことにもなる。それが怖くで親はますます学習意欲が増す。

それでまた混乱する。

でも何もしないよりはいいと思い、とりあえず色々試してみるけれど、うまくいかず失敗を繰り返す。

で、自己嫌悪に陥る。

ああ、ため息。

 

散々失敗を繰り返した私が行き着いた結論はこれ。

本を読むのは大丈夫。

研究もよし。

でもそこに書いてあることを全部うのみにするのではなく自分の子供に適用できるかよくよく照らし合わせないといけない。

それには自分の心に聞かないといけない

人に聞くのはだめ。

自分の子供のことは自分が一番知っているはず(なんだけど・・・汗)。

母親は第六感が優れている。

特に我が子のことになるとそうだ。

教科書がなくて生まれてくる子供をどうやって育てるのか。

やはり第六感、つまり直感であると思う。

 

もし神様がおられるなら、なんの説明書もなく

「ほれ、今日からあんたが親だよ。しっかりやっておくれ」と

あなたを置き去りにしていくはずがない。

親に与えられた一番の教科書はその直感であると思う。

これは本当であると断言できる。

 

だから本などで情報を得たあとは、

それを

あなたの心がどういう風に感じるかを把握しないといけない。それが自分の声を聞くと言うことだ。

 

そしてくれぐれも言いたいことは、

専門家が勧めているなんとかメソッド我が子をきっちりと合わせるのではなく、

我が子メソッドを(合うところだけ選んで)合わせてあげないといけない

つまり、メソッドを曲げて、子供を曲げない

主役は子供でメソッドではない。

これがコツ。

 

日本人は活字が大好きな国民だと思う。

教科書も大好き。

規則とかルールも好き。

それは安心するからでしょう。

大先生の意見とかね、大好きでしょ?

一人歩きって怖いですからね。

誰かのバックアップが欲しいのです。

特に自分の子供に責任があると思うとついつい真剣になってしまう。

 

でも

活字や人の意見に全て耳を傾けると悩みは尽きない。

頭も混乱する。

 

だから

そこのお母様。

もう一冊読もうとか思ってはいけないよ〜〜〜。

 

自分の心に聞いてみて。

自分の心が一番正しいと思う。

四人の子供を育てて散々失敗した私が言うんだからほんと。

でも、直感とか第六感ってね、リラックスしていないとよく働かないのですよ。

だから、子供に問題がある場合は、そこから頭を離すことが必要。

 

でも役にたった本(2冊だけ!)はあるのでまたの機会にご紹介したいと思います。

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 ドクダミママ至言:

子育ては直感と第六感。

プロの言うことを全部うのみにしないこと。

心の声を聞くこと。

 

 

年相応という化け物

親に襲いかかる最も危険で狂暴な化け物とは

年相当という言葉。

その化け物は巨大で、親が悩めば悩むほどパワフルになる傾向がある。

そして親が恐怖で動けなくなる原因となる。

 

この化け物とは他でもなく

同年代の子供と自分の子供を比較すること。

これさえやめれることができるなら、子育てはかなり楽になるはずだ。

 

親は常に他の子供と自分の子供を比較する。

平均より進んでいれば

喜び

少しでも遅れていれば

焦りを隠せない。

そして「並のレベル」に追いつかせるように様々な策を構じる。

 

親の献身的な努力により少しは追いつくことが可能である場合もある。

けれども

それには取り返しのつかない副作用が伴うこともある。

 

我が子は遅れているという恐怖は親の心から離れることはなく

どうにかしようとする焦りは隠すことができない。

その恐怖感と不安は親の体からオーラを通して放たれ、

子供は全てを読みってしまうからだ。

 

親の努力は、子供に「できない自分」「遅れている自分」を認識されることに拍車をかけてしまう。

 

大体の場合は、そんなに簡単に追いつくことはできない。

だから親はストレスを常に感じることになる。

親がこんなに頑張っているんだから、子供も協力するのが当然、

と子供にもプレッシャーをかける。

だから家族全員の精神衛生に悪い。

結果的に家庭に暗い影を落とす。

最も悪いことに

暗い家庭に育った子供には様々な問題が出やすい。

 

年相応にさせることは果たしてそんなに大切なことなのだろうか。

何歳で何ができるようになるはずという尺度はあくまでもただの平均でしかない。

ということは上も下もあって当たり前なのだ。

 

普通、人はそんな同じサイズの箱の中にしっくりと収まるようにはできていない。

みんな同じというのはあり得ないのだ。

考えても見ていただきたい。

みんな平均的な人ばかりの社会ってどういう社会なのか。

 

我が家には年相応という子供がいなかった。

学力は年齢平均より上という子供が二人。

年齢平均より下が二人。

でも年齢平均より上の子供が全分野で優れていたわけではない。

遅れていた部分もたくさんあった。

年齢平均より下の子供は「学校」の学習は遅れていたかもしれないが、他の面で進んでいた面も多かった。

それが普通だと思っている。

自分自身もそうだから、納得できる。

でも主に学校などの社会がこの化け物を創造し、親を苦しませることになっている。

 

もし文科省またはその道の専門家が決めた平均的な年齢相応という考えを捨てることができれば、親も子供も楽になれると思う。

でも、すごくわかる。

親は競争社会で我が子が立派に生き延びてくれるように願っているものだ。

でも競争よりも、個性を認めて共存社会を築く方が、長い目で見て世の中の発展につながるのではないだろうか。

どんな能力を持った人も社会に必要であり、そのままで価値があるのではないだろうか。

 (でも、親は普通、他の子供が遅れているのは問題なく、そういう子供に理解を示し優しく対応もしてくれるが、我が子が遅れているのは許せないのだ)

 

大体、平均に足並みを合わせるなんて不可能なのだ!

親も自分のことを考えてみたら良い。

親だって無理。

だから子供はもっと無理。

どの大人も無理。

年相応という言葉は自分らしく生きることを阻む言葉であると思う。

 何歳だからこのくらいできて当たり前という考えは捨てないと子育ては辛いものになりやすい。親も周りの目ばかり気にしていて自分らしく生きれない。

 

周りについて行くことがそんなに大切なのだろうか。

それとも我が子の今の幸せが大切なのだろうか。

「恥ずかしくない人に育てる」というがそれはもしかして「親が恥ずかしくないように育てる」の間違いなのではないだろうか?

でもその考え方は間違いなく子供を潰してしまう。

 

何歳で立ち、歩いて、走って、話して、読み書きができ、どこどこの高校に入り、どこどこの大学に入り、どこどこに就職して、と心配は尽きない。最悪なことに、この先もずっとこれが続くのだ!大人になったら大人になったらで、うちの娘はいつ結婚するのだろうか。よそのうちには孫もいる!とこれなんかはとてもよい例だ。

 

こんな風にいちいち周りと比較していたらどんなにしんどいことだろうか。

まさしくいばらの道に違いない!

 

とっても難しいが、

現状で喜んであげれるような親になりたいものだ、

と今も思っている。

そして日々自分に言い聞かせている。

自分の子供にケチをつけないように、とね。

 

ドクダミママ至言

年相応など、そんなものは存在しない。

今の状態でいい。そのままの我が子を受け入れることが最も大切。

世の中に受け入れられるということよりも親が受け入れてあげることの方が大事。

 

 

 

義理の家族

今年のクリスマス休暇は、

息子のカイリーは嫁と3回目の結婚披露宴をするためにメキシコに渡っている。

つまり3回目の大騒ぎ。

 

私たち残りの家族は参加しない。(もう2度も参加したでしょ?)

メキシコの2019年の殺人事件は約30000人に及ぶ。

ひょえ〜〜〜!

もしかして!

これなら

自分が犠牲者になる可能性も十分あり得る!

だから行かない。

でも他にも理由がある。

それはもう彼らの大騒ぎについていけないからだ。

ねえ~もうじゅうぶんじゃない?

 

パーテ文化

結婚すると息子というものは自分の実家に寄り付かなくなるのはアメリカでも同じだ。

だからこの面は仕方がないと思っている。

でも・・・。

 

息子は嫁の実家に入り浸りだ。

付き合っていた時からず〜とこれ。

本人も半分迷惑がっていたけれど、恋人が半強制的に連れていくので断れなかった。

今は結婚したので益々訪問義務が増えた。

 

息子の義理の家族は典型的なメキシコ人でとても暖かい感じのいい人たちである。

そのため息子はそこに行くのが好きだ。

それに比べて、自分の家は「く真面目」で「真剣」で「堅苦しい」と思っているようだ。

はっきり言って「嫌でしょうがない」らしい。

 

ラテン文化は日本文化とも一般的なアングロ文化とも異なる。

リラックスしていて家族(友達も)が集まる機会が異常に多い。

実際恥じる嫌いもなく

We, the Latinos, love getting together ALL the TIME! 

(僕たちラテン系はね、年中つるむのが大好きなのさ!)

と言っていた。

はっきり言って多すぎる。

集まる理由などなくとも

勝手に理由をこじつけて集まる。

多忙な人は最低週2で、ほとんどの人はもっと多い。

 

誰かの誕生日や記念日はもちろんのこと、

メキシコ、アメリカ両国の全祝祭日。

(これに日本の祝祭日も追加しようかとも言っていた。唖然。)

雨が降ったからパーテイ。

雪が降ったからパーテイ。

太陽が出たからパーテイ。

虹が出たからパーテイ。

友達から連絡があったからパーテイ。

何となく嬉しいからパーテイ。

落ち込んでいるからパーテイ。

お酒が飲みたいからパーテイ。

お給料日だからパーテイ。

なんとなくそんな気分だからパーテイ。

・・・・・・・

 

日本人の私から見ると

はっきり言って

やりすぎ!

絶対そうだよね〜?

 そう思うでしょう?

 

彼らはいつ生活態度を見直して将来のための計画を立てるのだろうか?

彼らはなぜするべきことが終わっていないのに平気な顔で遊びに行けるのか?

彼らは資産の管理も貯蓄も全くしない。

今日一日の事しか考えていないようだ。

それで心配じゃないのか?

息子もそれと同様なのでメキシコの文化が大好きだと言っていた。

別に妻の実家に行くなとは言わない。

ただ、他の全てのするべきことを終えてから行く、というのが賢明な人のすることじゃないの?

それとも

それって日本人だけの考え方?

 

ちなみに嫁の実家は貧乏なメキシコ人ではない。

息子の姑は医者の家の出身で本人も歯学部出身。

舅はエンジニア。両方とも大卒。

家族もみんなそんな感じだ。

まともな家というかメキシコの実家は裕福層に属する。

それでもメキシコ人には変わらない。

 

その文化。

勘弁してほしい。

 

優先順位がおかしい

カイリーはなんでもゆっくりで今一頭が働かない。

だからなんでも理解が遅いし時間がかかる。

ということは、妻の家で遊んでいる場合ではないのだ。

今の仕事も1年半後には解雇になることは分かっている。

それでも彼にはそのことを不安に思っている素振りもない。

次の動きを検討している感じもゼロ。

カイリーの嫁はものすごく頭がよく何故こんな優秀な女性がうちの息子と結婚したいのか全く理解できない。

(私は付き合っている時から嫁に止めておいた方がいいよ〜、と警告したんだけど)

別に彼らの人生なので今更反対をしても仕方がないけれど、

この親の家にしょっちゅう呼ぶのは止めて欲しいのだ。

息子は他にやることがあるんだよ!

職業的も経済的も健康的にも問題を抱えているのでそれに焦点を当てるべきで、

遊んでいる場合じゃないんだよ!!!!

そうやって生きていると、今は楽しいかもしれないけれど、

しっぺ返しがすぐにやってくるのだよ。

だいたいが、息子は借金を抱えていて遊びにいけるような身分ではないのだ。

一刻も早く借金を返ししっかり生活の基盤を築くことが最優先じゃないの?

じきにポンコツトラックは完全に機能停止し、仕事も失い、我が家の地下からも追い出され、苦しい人生が君を待っている。

それでも親は君をどん底から救ってあげれないことを忘れてはいけない。

 

お好きなように

それを言ったら、逆上していた。

なので諦めた。

底をつかせるしかない。

いや。底の底の底の底の底の底の底の底の底の底をついてもらおう。

当然そんなことを望む親はいない。

でも薦めに従わない人に他に何ができるというのか。

 

頑固で生意気で高慢で反抗的で感情的で繊細で教訓から全く学ぼうとしないオスライオンに何を言っても無駄(怒らせるとすごく怖い!)。

私は彼に関しては(かわいそうだけど)親業から足を洗わせてもらうことにした。

(メキシコにいるし)今のところまだ口を利いていない。

 

息子はいっそのことメキシコに移住したらいいと思う。

生活費は安いしゆったりとしていて人は暖かい。

彼に絶対向くと思う。

困ったことがあればメキシコの親戚に助けてもらえばいいのだ。

彼は妻の名字に変えたいと言っていた。

どうぞどうぞ。

賛成です。

 

彼にはメキシコ文化が似合う。

毎日楽しければそれでいい文化。

あの国に原子爆弾が落とされても絶対復興しないだろう。

そんな国民性なのだから。

 

ドクダミママ至言

1.成人した子供に何を言っても無駄。

2.   頑固で生意気で高慢で反抗的で感情的で繊細な人間に何を言っても無駄。

3.   他国の文化は尊重したいけど、家族のことになると別件。

 

 

 

 

軽度知的障害を抱える息子への手紙

私には軽度知的障害の息子がいる。

その子に私は最近手紙を書いた。

いつか、機会のある時に渡すつもりでいる。

でもそれがいつになるかもまだわからない。

もしかして永遠に渡さないかもしれない。

 

でもせっかく書いたので

今回その手紙の一部(オリジナルは英語)をご紹介させていただきたい。

********************************

 

カイリー君(仮名)へ

 

初めて自分の腕に抱いた時、そのヘーゼルかかった青い目を見つめた時、

お母さんはあなたに恋をしてしまったわ。

ふっくらしたピンクの頬のあなたは世界の誰にも負けないほど愛くるしくて

心が溶けてしまったように感じたのよ。

あなたは私にとってとっても高価な宝物。

だからあなたがこの世に誕生してくれてお母さんはとっても幸せだったのよ。

 

お母さんにとって、

あなたの乳児期も幼児期も子育てがとっても楽しくて仕方がなかった。

あなたはスイートで抱き心地のいい子供だったわ。

毎晩お母さんのお腹の上で寝ていたわね。

寝付いたのを確認して自分のベッドに移そうとすると泣いていた。

あなたはお母さんの跡ばかり追いかけていた。

二人の間にはとっても強い絆があったことは疑いの余地のないことと、

みんな知っていたわ。

 

ダーラのデイケアセンターでは、あなたはとても行儀がよくて、他の子供たちともいつも仲良くできたのよね。

お母さんが迎えに来る時間を知っていたようで、

5分でも遅れると、ダーラに「僕のママはいつ迎えに来るの?」と聞いていた。

 

でも、

4歳の誕生日の1か月後に弟が生まれて、それであなたは急に変わってしまった。

以前よりイライラするようになって、怒ってばかりで、お母さんにはとても手に負えないやんちゃさんになってしまったのよ。

あなたは意志が強固で自立心が旺盛だった。

自分の思うようにならないと猛烈に癇癪を起こし、

叫びまくり、

棚にある全てのものを殴り落とすほどだった。

お母さんは、それがいつものことだったので、

元に戻してね、とだけ伝えたのよ。

そんなのごく普通の男の子だと思っていたわ。

 

それから、

オハイオのプレスクールで、先生方に呼ばれてこんなことを言われたのよ。

あなたはちょっと学びや理解が遅いし言語の発達も遅れている、と。

外国から来た子供たちがどんどん追い越している、と。

でも体を動かすことは得意で他の子供たちより優っているとも言われていたわ。

 

そんなことを言われてもお母さんは全然心配していなかった。

男の子って最初は遅れているものなのよ。

それに先生方は女の子たちと比べていたわけだし。

すぐに追いつくでしょう。

全然気にしていなかったのよ。

 

5歳になってダックスベリー小学校付属の幼稚園(*)が始まったわね。

担任のトレント先生から、こんなことを言われたわ。

「おたくの息子さんはお行儀が良くてクラスのみんなのとってもいい模範です。」

ってね。

あなたはクラスのみんなにいつも「先生の言うことを聞かないとダメだよ!」

って言っていたんですって。

家での態度とは全然違うので驚いちゃいました。

 

それから1年生に上がり、その時点では問題は見られなかったけれど、担任の先生からは少し問題視される時もあったよう。イライラすることも増えたようだったわ。

2年生になり、学習にはどうにかついていけていたけれど、理解に時間がかかることが目に見えてはっきりしてきたのよ。

でもあなたはいつも誰よりも一生懸命で頑張り屋さんだった。

お母さんはそんなあなたをとても誇りに思っていた。

 

でも学年が上がるとともに、

あなたは本当に学習についていけないようになっていった。

親は交互にあなたの家庭教師を務めたけれど、

手を替え品を替え教えようとすればするほど、あなたは混乱していった。

自分でもわからないことを充分わかっていて、

そのためフラストレーションが溜まっているのが態度に表れていた。

あなたは学べないわけではなかったの。

ただ学び方が違ったのよ。

それから、ある概念を学ぶふさわしい時期が平均的な子供たちとは違っていたのよ。

 

助けてあげたくてたまらなかったけど、そのプロセスで私もがっかりしてフラストレーションが溜まっていってしまった。

お母さんがあなたに怒っているように見えたでしょう?

でもそれは違うの。

お母さんは自分自身に怒っていたのよ。

あなたをうまく助けてあげれない自分自身に対してね。

それであなたの気持ちを傷つけてしまったと思う。

だからお母さんはそんな自分自身のことを嫌いになっていった。

お母さんはすごく忍耐に欠けていた。

あなたがお母さんを嫌いになっても仕方がないと思っている。

お母さんは母という立派な名前には全くふさわしくない人間だと思っている。

 

それでもあなたは毎日一生懸命努力を続けたわね。

そして高校は特別なカリキュラムを持つ学校に入りものすごく大変だったけど、

あなたはこれ以上できないほどの努力を重ね、本当に頑張っていたわね。

頑張っていたあなたを助けようとたくさんの先生方が親身になってくれたお蔭で、

良い成績で卒業できたのよ。あの時は本当に勉強しかしなかったわね。

卒業式の時に表彰台に立つあなたの姿をみてみんな涙をこらえきれなかった。

あなたは本当に頑張り屋さんでした。

 

その後、本人の希望で4年生大学に進むことになって、

でもそこであなたは発見したのよ。

四年制大学はかなり難しいと(**)

大学生活を満喫したかったあなたは、

クラブとかデートとかアルバイトとか、いろいろなことに手を出し始めたのよね。

あなたは自分の人生を自分のやり方で切り開いていこうとしていたのよ。

それは素晴らしいことだと思う。

でも人はそれぞれ違うから人によってはうまくいかないこともあるのよ。

それはやめた方がいいという親の勧めにも反抗して、

自分の好きなように生きるために、結局家を飛び出して行ったわね。

心配だったけど、お母さんはいつも心の中であなたの人生がうまくいくように祈っていたのよ。

 

他の学生は勉学以外にいろいろなことをしてもやっていけたようだけど、あなたは無理だった。そして自分が他の学生より劣っていてゆっくりであるということを、いやおうなしに感じるようになってしまった。

当然勉強する時間は足りず、課題は難易度を増し、成績はどんどん落ちていき、焦りで心はいっぱいになり、ますます逃げるようになっていった。

ずっと今まで頑張って来て、これからも、いやこれからこそが今まで以上に頑張らないといけない現状を見て、あなたの心は打ち負かされてしまいそうに感じたのよね。これ以上頑張れないという気持ちだったのでしょう。

多分燃え尽きてしまっていたのよね。

 

自立心の強いあなたは親の助けなしで、アルバイトもしてデートもして友達とも遊んでと、「普通」にやりたかった。

でもそれは能力以上の賭けだったのかもしれない。

 

あなたは自暴自棄になり、それでもやっとのことで大学を卒業した。

成績もかんばしくなく、ポートフォリオも競争に勝てるレベルではないため、大学の専攻に関係する仕事は見つからず、結局ずっと洗車の仕事とホテルの夜勤をしていたわね。今は会社で2年契約の仕事をしているけど、あと1年半でそれも終わる。

こんな状態なのにこの8月に結婚もしてしまった。

明るい兆しは今のところ何も見えない。

今27歳。

 

親は心配して助言をするけど、助言なんて聞きたくないでしょう。

この間もあなたに「ほおっておいてほしい!」と怒鳴られた。

そこから今までに類を見ないほどの大げんかに発展してしまった。

 

でもわかってる。

自立したいのよね。

大人の男性になるためには母親の言うことなんて聞いていられないものね。

 

母にはもう何もいう権利も義務もなく、黙ってあなたの大変な人生を影から眺めているしかないのです。

それがどんなに辛いことか。

今のあなたにはわからないでしょう。

 

ただあなたのその強固な意志で艱難を乗り越えて行って欲しいと願うばかりです。

いつか人生が好転してくれますように。

せめてこの手紙をあなたが読むときにはそうなっていますように。

どうぞいたらない母を赦してください。

母より

 

****************************

◎息子の当初の知能指数の検査結果は70前後だった。知能指数は変化するので、現在は以前より高くなっている可能性が高い。大学を卒業した時点で90くらいまで伸びたかもしれない。

*注:米国は幼稚園は小学校の一部として組み込まれている

**注:米国の大学は課題数も多く難易度も高く、ついていけなくて辞める学生も多い。教授が一つ一つの概念を丁寧に説明するとかはなく、自分で理解していかないといけない。つまり上位思考スキルが伴わないとやっていけない。