母親になると自己を喪失する。
子供のために犠牲を払って生きているとだんだん気がつかない内にそうなっていく。
でも多くの女性は心の中ではこう思っている。
子供を育てながらでも自分の個性や自分の興味関心事を維持したい。
今は無理でもちょっと余裕ができたら。
とか考えている。
でも現実は違う。
自分の興味は子供に関することに変わり、それが普通になっていく。
ふと口から出てくる曲は全部子供番組の歌だったりする。
話す事も子供のことだけ。
読む本も育児書のみ(それと時々料理の本)。
個性?それは何のことだっけ?
ああ、恐ろし〜い変貌だあ。
わたしにもやりたかった事など数え切れないほどあった。
でも子供と自分のやりたい事を天秤にかけて比較してみると、いつも子供が勝った。
確かに、可愛い子供たちの幸せのために自分を犠牲にすることは立派なことと言うのかもしれない。
それはわかっている。
でも、そのような理想的な考え方は、わたしのような人間には日々「自分自身」を殺さなければできないことだった。
自分のこともやりたい。
母親という荷が重たい。
そんなことを誰かに言おうものなら、きついお叱りを受けるのが目に見えている。
だから誰にも言えない。
黙って耐えるしかない。
わたしのような「自分で一杯」の女性にはとってもきつい。
自己犠牲を毎日毎日休みなくずっとやっていることが辛いのだ。
でもどんなに辛くともほとんどの女性はこれをする。
結果的に自分を見失っていく。
それはたとえ母親といえど非常に悲しいことなのだ。
消えていく自分を感じる時はたった一人で窓の外を眺める時。
そんな時は涙がふとこぼれる。
わたしは一体なんなのだろうか。
誰かの母親という名が自分のアイデンティティで他には何もない。
自分の存在は子供の延長線にあるだけで、本当の存在ではない。
生きていて生きていない。
生きているとしたらそれは自分の人生ではない。
そんな風に感じられて仕方がなかった。
わたしは一番下の娘が18歳になる時をずっと待っていた。
さあ、これから羽ばたくぞ〜と。
でも、その時がきても何をしていいかわからなかった。
何もしたいことがない、興味もない、と感じた。
子育てで疲れ切っていて何もする気が起きない、というのもあった。
子供達はどんどん巣から飛び立ち、自分には何も残っていない、という風に感じた。
自分の貯水池の水を全て使い切ってしまったのだ。だから何も残っていない。
カラカラの干からびた貯水池でこれから何をしようぞよ。
母親はこうやって少しずつ自分を干からびさせながら子供のために生きていく。
でもそれを素晴らしい理想的な母の姿、と絶賛するのは通常男性。
女性はあまりそうは思っていない。
娘は「わたしはそうなりたくない」と言う。
わたしも娘にそうなって欲しくない。
自分を失うほどに子育てをしてきて、今思うことは、
そこまでしなくとも良かった、に尽きる。
もっと自分を大切にすれば良かった。
そうやって生きることを、自分勝手やワガママのように言う人もいるが
わたしはそうは思わない。
母親には自己を充電させる時間が絶対必要であると思う。
子供とは関係ない趣味や関心事を維持することは
女性にとって贅沢品ではなく生きていくための必需品ではないだろうか。
母親という役目を離れたところで自己を見つめる空間が必要なのだ。
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ドクダミママ至言
子供のために色々やってあげてもいいけれど、自分を100%見失うほどするべきではない。犠牲心に富んだ明るい母ならいいが、暗い母なら意味なし。
実は明るくてハツラツとした母であることが子供にいい影響を及ぼす。そのためには自分を見失うべきではない。充電する時と空間は贅沢ではなく必需品。
自分の内面を充電させるように。