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ドクダミママ至言

母業落第の果て:もっと早く知りたかった子育てへの答え

クリスマスー母マリアの心(歌リンク入り)

今日は米国ではクリスマスイブです。

世界の多くの国でもクリスマスの曲は町中に流れイルミネーションで飾られ、

皆様もこの特別な季節を深く感じておられることでしょう。

 

今日はクリスマスにちなんで日本ではほとんど知られていない歌を一曲ご紹介したいと思います。

クリスマスというと商業化してしまい、歌と言えばサンタやプレゼントの歌ばかりですが、この曲はよりクリスマスの心を表したものです。特に救い主の母の気持ちを表したもので、世界中の母の心をも反映しているように思います。

我が子が産まれたその晩に母マリアの脳裏にはこんなことがよぎったはずです。

それはどんな親にも起こり得ることです。誕生という奇跡を目の当たりにして天使のような我が子を見て神聖なものを感じる気持ちを抑えきれない人は多いと思います。そしてこの子はどんな大人になるだろうか、どんな人生が待ち受けているかと思うことでしょう。それは国や文化を問わず、ずべての親が思うことです。

私もそれぞれの我が子の誕生の際には、計り知れないほどの篤い気持ちで胸が一杯になりました。そしてどんなことがあっても我が子を守って行くことを自分に誓いましたが、その時はどんなに願っても待ち受けている苦難を止めることができないことが母にはあるとは思ってもいませんでした。

 

二つのバージョンを載せます。最初のは映画のクリップが入ったもので、2番目のは歌詞入りの歌のみです。歌詞の和訳はちょっといまいちですが私がさせていただきました。

この曲がクリスマスの心を呼び起こしますように。

 

https://www.youtube.com/watch?v=-AyLgHChza4  

https://www.youtube.com/watch?v=5cxUjKhO_4A

 

Mary's Lulluby - Tonight You are Mine

マリアの子守唄ー今宵汝は母のもの

 

All mine in your loveliness, Baby, all mine;

汝の愛らしさに母の心はことごとく溶けてしまう。赤ちゃん。母の全て。
All mine in your holiness, Baby Divine.

汝の神聖さに母の心はことごとく引きつせられてしまう。神聖な赤ちゃん。
Sing on, herald angels, in chorus sublime;

歌い続けて、使者である天使たちよ、崇高なコーラスで。
Sing on and adore, for tonight you are mine.

歌い続けて崇拝して。でも今宵汝は母のもの。

The wise men are coming to worship their king.

博士たちが彼らの王を拝みにやってくる。
The shepherds are kneeling, their homage to bring.

羊飼いたちはひざまづき忠誠を誓う。
Out yonder, the star over Judah will keep;

遠くかなたのユダヤの空にある星は消えない。
No harm can befall thee, then sleep, Baby, sleep.

汝になんの害も起きないから、大丈夫おやすみ。赤ちゃん。おやすみ。

Oh, let me enfold thee, my baby, tonight;

ああ。今宵汝を抱きしめさせて。私の赤ちゃん。
While legions are singing in joyous delight.

天の軍が嬉しく喜ばしく歌うとき。


A new star has risen to hail thee divine,

新しい星が神聖な汝に万歳と言うかのごとく舞い上がり、
For you are a king, but tonight you are mine.

汝は王だから。でも今宵は母のもの。

Away, spectered future of sorrow and plight.

かなたに、将来の悲しみと苦境が見える
Away to the years that must follow tonight.

それは今宵の誕生のずっと先のこと。
The pangs of Gethsemane, let them be dim;

ゲッセマネの苦しみと激痛がかすんで見えますように。
The red drops on Calvary, not, Lord, for him!

カルバリーに落とされる赤いしずく。

いいえ、神様、それは私の赤ちゃんのものではありませんように!

Oh, let me enfold thee, my baby, tonight;

ああ、今宵汝を抱きしめさせて。私の赤ちゃん。
While legions are singing in joyous delight.

天の軍が嬉しく喜ばしく歌うとき。
A new star has risen to hail thee divine,

新しい星が神聖な汝に万歳と言うように舞い上がり、
For you are a king, but tonight you are mine. 

汝は王だから。でも今宵は母のもの。

All mine in your loveliness, Baby, all mine;

汝の愛らしさに母の心はことごとく溶けてしまう。赤ちゃん。母の全て。
All mine in your holiness, Baby Divine.

汝の神聖さに母の心はことごとく引きつせられてしまう。神聖な赤ちゃん。
Sing on, herald angels, in chorus sublime;

歌い続けて、使者である天使たちよ、崇高なコーラスで。
Sing on and adore, for tonight you are mine.

母親がイヤイヤながら子育てをすると・・・

女性は使命感から一生懸命子育てに励むことが多い。

でもそれで子育てを楽しんでいるのだろうか。

もしかしてイヤイヤながらやっている人もいるのではないか。

このイヤイヤ何かをやることだが、どんなにしんどいか、経験のある人は分かるであろう。それは確実に母親の顔に出るだけでなく子供にも影響が行く。

 

それでは、なぜ親業に関わらずなんでもイヤイヤやることがどんなに良くないことかを説明させていただきたいと思う。

 

人の本質とエネルギー

まず最初に、人は「魂の多粒子の集合体」であることを念頭に置いていただきたい。

これを「魂のつぶつぶ」という人もいる。

要するに、人の霊というものは数え切れないほどの粒子すなわちエネルギーの塊からできているのだ。

 

もし母親がイヤイヤながら子育てをするとする。するとその体から不幸せなエネルギーの波動が起こり、体を取り巻く粒子が外に送られる。体を取り巻く粒子とはオーラとも呼ばれており、様々な色がある。乳児のオーラは最も汚れのない白で、殺人犯は真っ黒のオーラを持っている。白は周りの影響を受けやすい。動物などはこのオーラが見える。

 

そして周りの人がそのエネルギー及び粒子を受け取ると、いやいややっている母親がますますいやになるような事件が起こりやすくなる。つまり、子供がイライラしている母親のエネルギーを助長する、つまり「手助け」をすることになる。

この「手助け」の例として、母親がイライラしている時に、子供がコップの水をこぼし、兄妹喧嘩を始め、宿題をサボりゲームに没頭し、口答えを始めたり、がある。

そのため、母親はもっとイライラを募らせ、ますますイヤイヤながら子育てに臨むことになる。だからこんな日は、どんな小さな事件であっても、それには母親を鬼にさせる可能性を潜ませている。我が家では上記のような事件が同時に起きたことが何度もある。当然私は自分を見失った。そんな時に夫が仕事から帰宅でもしようものなら大変である。

私は夫に自分の散々たる一日について延々と説明し、母業一時引退を宣言するのだ。 いや一時どころか永遠に引退したいと思ったものだ。

 

どういうことかというと、これは女性特有の性質だからである。

それではこれがよく分かるように男性と比較してみよう。

 

女性と男性の違い

男性は、仕事がどんなにいやでも、それが誰かの幸せになるなら

じっと黙って我慢ができる。

(できない人はアルコールでも飲んで憂さ晴らしをする)

男性は今の苦しみをじっと耐え、もっと大きな目的のために動ける人種なのだ。男性の愛はスケールが大きい。男性は誰かを幸せにすることによって、他の人のために生きることによって繁栄する。そしてそれを喜びとし生きることを目的とできるのだ。より大きな結果のために今犠牲を払うことができるのだ。

 

女性は、自分のやっている仕事(母業)が面白くないと、この上ない辛さを感じる。たとえ20年後に立派になった自分の子供の姿を思い描いても、今の辛さを拭うことができない。女性にとってはその「プロセス」が非常に大なのである。

このいい例に戦争が挙げられる。

男性は自分の国と家族と部族を守るために人殺しに出かけていくことも厭わない。その大きな愛によって自分の命をも犠牲にすることができるのだ。あんな恐ろしい状況でもしっかり目を開けて戦えるということが女性から見ると信じられないことなのだ。

反対に、女性はそのような全く楽しくない殺戮は、どんなに国家と家族を守るためでも遠慮させていただくだろう。そのプロセスが女性には耐えられないからだ。たとえ戦地に出向いたとしても恐怖で意識を失ってしまうであろう。

 

他にもある。

消防士、警察官、政治家など、動機は他の人を守るためである。

自分の命を犠牲にして。

 

女性も自己犠牲を払う。でもそれは主に自分の子供にだけである。

かと言って女性が男性のように黙ってただ歯を食いしばって我慢するかというとそれは違う。どんなに我が子を愛していようとも、もしその子が育てにくい難しいタイプだと、母親は子育てのプロセスを楽しむことはできない。

続けることができるとすれば、それは時々見せる可愛らしい笑顔だ。その笑顔が見られれば辛い気持ちが消える。でもそれも長続きしなければまた心が暗くなる。我慢しようと努力をするが黙ってではない。泣きながらだ。愚痴を言いながらだ。

女性は感情に押し寄せてくる辛い気持ちを我慢することができないのだ。

男性から見ると、感情で左脳が完全にシャットダウンし感情が彼女の全てを支配してしまっているかのようにも見える。こうなったら男性のどんな理露整然とした説明も女性には馬耳東風なのだ。

 

だから女性は黙って耐えるのではなく、笑顔になることがもっとも大切なのだ。結果的に周りみんなが笑顔になれる。

学校制度で教えられた「じっと耐えろ」というのは男性に対する教訓であって女性向けではない。女性は自分の幸せ作りに集中するべきだ。

女性が喜んでいるだけで、笑顔でいるだけで、世の中が良くなると言っても過言ではない。なぜなら彼女は幸せの波動を出しているからである。

 

結論

子供をどこに出しても恥ずかしくないほど立派に育てることが重要ではなく、家の中を明るく保つことが一番重要なのだと私は自分の失敗からも確信している。

なぜなら子供は

家の中の空気、つまり波動を100%読み取ることができるからだ。

そして周りの影響を受けやすい。

 

母が犠牲心によりいやいや子育てをすると自己受容の少ない子供になりやすい。

犠牲の上になった子育ては波動が重苦しく、家族の誰もが容易に感じ取ることができる。だからもっと軽い気持ちで子育てをするようにしたらいいと思うのだ。

 

米国南部の英語で19世紀から伝わる表現(文法的には間違いだが)がある。

If mama ain't happy, ain't nobody happy.

ママが幸せでないなら(家の)誰も(が)幸せになれない。

これは100%真実である。

 

だから今回のドクダミママ至言は、

お母さん方!もっと力を抜いてゆるい子育てをしましょう!!!!

 

 

毒親だからどうした!?

昨今とてもはやっている流行語がある。

アメリカから輸入されたものだと思う。

その流行語とは

毒親。

毒親って一体なに?

 

そもそも、人類の歴史を振り返ってみて、つい最近までその言葉は存在していなかった。親が完全でないといけないなんて誰も思っていなかった。不完全が普通だと思っていた。そういう時代がほとんど。

今の時代の子供の立場にある人は、この「毒親」という言葉に振り回されているように見える。

 

みな自分の人生がうまくいかないのを親のせいにしている。

(気持ちはわからなくもないけど・・)

毒親記事を読むたびに、どんなに自分の親がひどいかを確信し、その思いを強固にしていっているのだ。

結局親と離れても親と離れられず、その「毒親」という意識に振り回されているのが現実ではないだろうか。

 

まずこの毒親って・・実はどこにでもいる。

アメリカにだっている。

 

理想的には、大人になったら自分で自分を変えていくように努力しないといけない。

いつまでも親のせいにしているなんて大人のすることじゃあない。

殺されそうになったなどという経験でないなら、育ててもらったことだけで感謝すべきだと思うけど。

 

その道の専門書も「毒親からどうやって解放されるとか」とかうるさいくらいあるが、

そんな本を読んでも簡単には解決はしない。

読めば読むほど、その毒親と縁が切れない。

 

過干渉と無視?

それって普通。

 

親になってわかったことがある。

親になるってすご~い大変なことだと。

そもそも親って親業だけやってるんわけじゃない。

大人って忙しいだ。

みんなどうしていいかわからなくてやっているんだ。

そんな親も本当はいい親になりたいのかもしれない。

いつも試行錯誤で心配ばかりしている親が毒親になりやすいケースも多い。

逃げてしまう人もいる。

最低かもしれない。

それはわかる。

確かにひどいケースもある。

 

でも親がいるだけで感謝かもしれない。

わたしは両親が4歳の時に突然死んでしまった。

父が夜中の11時に亡くなって母が翌日の正午くらいにいきなり心臓が止まって亡くなった。

一緒に住んでいた祖母も1週間以内に亡くなってしまった。

だから里親と養護施設で子供時代をずーと過ごした。

天涯孤独だと言われていた。

虐待なんて当たり前。

無視?

それ普通。

 

私の子供時代など、それこそほとんどが毒環境だったと確信している。

でもその当時にそんな言葉は存在していなかったし、

わたしは自分を面倒見てくれた人々や環境に感謝している。

確かに理想からはかけ離れているかもしれない。

でも「なんで自分だけが」みたいなことは思ったことはない。

生きていくだけで精一杯でそんなこと考える時間がなかったのだ。

それに、

大切なことを学ぶためにその経験が自分の人生に必要なことだったのだと納得している。

だからあれで良かったのだ。

あの子供時代で感謝している。

自分の与えられた環境で頑張るのが自分の人生の使命だと思っている。

 

はっきり言って毒親がどうとか文句言っている人は甘えていると言われても何も言えないかもしれない。

養護施設には、毒親でもいいから親が欲しいという子もいる。

親と一緒に暮らしたいけどできない子供たちが一生懸命生きている。

涙をこらえて生きている。

そういう話を聞いて恥ずかしくないのだろうか。

親のところより養護施設の方がいいのだろうか。

確かにそっちの方がいい場合もあるかもしれない。

でもいつもっていうわけではない。

 

毒親に育てられたから自分はこうなんだ、ってね、

自分には全く非がないような言い方だけど、

そんなこと言ったって解決なんてしない。

責任転嫁は解決にはつながらない。

こんな親なんか、と恨みに思ってるみたいだけど、

それなら孤児はどう?

孤児の方がいい?

 

人は理想的で問題のない人生を幸福というけど、本当はそうじゃない。

だいたいそんな人生は存在しない。

だから嫌な親かもしれないけど、

それがあなたの人生の課題なのだ。

 

毒親がどうのこうのと言っているうちは多分前進や成長なんてないと思う。

それを言っている限りは言っている本人が一番不幸なだけ。

最初に、被害意識は捨てた方がいい。

誰かが悪くて自分は間違ってないという考えを捨てた方がいい。

現実としてそのままただ受けいれること。

 

2番目に、全ての出来事に意味を見つけること。

そうすれば、心がもっと軽くなれるのではないだろうか。

 

3番目に親を赦してあげること。

人間はみな不完全なんだから。

自分だって完全な親になんてなれないって親になったらわかると思う。

親を赦してあげれるまでは何冊本を読んでもだめ。

感謝することなんてない、とは言わせない。

親のいいところを探して、

見つからなかったら赦して、

その経験から何かを学ぶしかない。

 

人を赦せない!

なんて、文句を言っている大人だけど子供みたいな人の方がよっぽど人間的に問題ありだと思う。

 

わたしの友達にもいる。

一流私大出身で、フランス語専攻。

でも講義に一度も出たことがないと開き直って言っていた。

彼女はずっと父親を毒親と呼んでいる。

自分がこんな風なのは父親のせい!といつも言っていた。

(悪いけどほぼ全部自分のせいです)

でも彼女の高卒のサラリーマンの父親は娘のために全学費を払っていたのだよ。

娘は遊びボケていると承知でね。立派な親じゃあないの。

わたしだったら、そんな娘に学費援助などとっとと打ち切りにする。

心の中で40も過ぎて何をいっているのか。と思った。

 

そもそも、彼女が毒親と呼んでいる父親にだって毒親がいて、その毒親にも毒親がいる。

負の連鎖なんだ。

お父さんのせいばかりじゃあない。

それにお父さんはすごく苦労していてきっとつらいことが沢山あっていやな感じの人間になってしまったのだ。

大人ならそういう見えない部分を見てあげないといけないように思う。

もし理解できなくとも、赦してあげないといけない。

自分がどうしても赦すことができないなら、一生そのままだと思う。

親がこの世から消えた後もそのまま。

それでいい?

 

舅もそれだ。死ぬ2週間前まで30年も前に亡くなった自分の母親の悪口を言っていたなあ。自分の性格が悪いのは母親のせいだそうだ。😰

80歳でもそれですか?

自分のせい。

全部。

それでも母親の葬式では大泣きしていた。

変なの。

嫌いだったんじゃなかったの?

 

職場の同僚に、ギャンブルに手を染め、借金を抱え、それなのに仕事は勝手に辞め家に全くお金を入れない父親がいた。だから同僚は高校生の時から家に生活費を入れていた。これなんかまさに毒親。家計を支えるために大学も諦めたと言っていた。

でも恨みに思ってないそうだ。

 

自分の人生は自分で切り開いていくもの。

親がどうのこうのと言っているレベルではもうそこでだめ。

実際、育った環境がどうでも、偉業をなしている人もたくさんいる。

毒親の子供が嫌なら瓦礫の中で生活している孤児の方がまし?

発展途上国にはそういう子供が沢山いるけど、生きるのに一生懸命だね。

毒親がどうのとか言っている暇もない。

独裁者がどうのと人のせいにしている場合じゃあない。

今日の食料の心配をしないといけない。

 

だから言い訳にしか聞こえない。

現状が嫌なら自分でどうにかしろ〜〜〜〜!

厳しい言い方かもしれないけれど。

これが本音。

 

でもこれを読んで気を悪くしないでね。

親なんてみんな立派になどなれないのだから。

だから親を代表して謝ります。

ごめんなさい。

 

毒親の影響で苦しんでいるあなた。

いつかその苦しみから抜けられる日が来ますように。

 

ゲイの婚約者が気に入らない。

トビアスには婚約者がいる。

台湾から来ている。

当然男性だ。

名前はベン。

2年ほど前に婚約したと聞いた。

息子の方が指輪をあげた。

 

息子も1ドルにもならないような「プロミスリング」らしき金の輪っかを左手の薬指にしている。

次男の結婚式が先週の土曜日にあり、代表でスピーチをしているトビアスの左手に目がいった。

でもそのあと、ベンの手を見たが指輪らしきものは全く身につけていなかった。

なんと。

息子があげた指輪は?

 

彼は公共の場で絶対にゲイだとバレないように気をつけているのだ。

なんか息子が可哀想になって来た。

 

2年前に、ベンに親に話をしたのかと聞いてみた。

その会話はこんな感じだった。

 

ベン:親は自分の子供のプライバシーに興味がない(嘘)。

干渉しない(信じない)。

オープンな考えの持ち主(のはずがない)。

だからゲイでも気にしないはずだ(そんな親はどこを探してもいるわけない)。

 

私:じゃあ、婚約者がいるって今言ってあげても全く問題ないってことよね?

ベン:今はそんなことよりも重要なことがあるんだから言う必要なし。

私:そんな。教えるだけなら、2分とかからないでしょ?一刻も早く言ってあげたほうが親切だと思うけど。

べん:(うるさいと言わんばかりの眼差しでこっちをみる)

 

それで息子に後で聞いてみると、

「ベンは親に知らせることをものすご〜く恐れている。だから言えない。」

 

なんだ嘘か。

やっぱり。

勇気がないんだ。

ということはやっぱり保守的な親なんだ。

それにベンは長男で跡取りだし、家は財産もあるらしい。

言ったらショックだろうな。

これって親不孝だよね。

どこから見ても。

うちは息子が3人もいるから、一人くらいゲイでもどおってことはない。

でも一人息子がゲイじゃあ孫はなしってこと。

あちらさんの気持ちを察することは簡単だ。

 

その1年後。

少しは進展し、来年の夏(2020年夏)に東京に行ってそこで親と落ち合うという大展開となった。

でも

親が可哀想。

なにやら

自分がゲイであることと、男性の婚約者がいることを、

一気に知らせるという戦略らしい。

それもレストランで!

 

ひどい!

息子がゲイであることも知らないのに、いきなり婚約者?

なんと意地悪。

公共の場で大声で泣くわけにもいかない。

文句も言えない。

 

ただショックを与えて、ほなさいなら、ということらしい。

 

本当にひどい。

1年くらい、いやせめて6ヶ月前に自分のアイデンティティを知らせてあげて、親が諦めてから、失礼、納得してから、婚約者を紹介すればドラマにならないじゃないの。

それなのに、有無を言わせないために、これ?

親の気持ちも考えてよね。

可哀想。

これってすごい意地悪。

自分も親なのでこんなことをされたらたまったもんじゃない。

 

息子も可哀想。

東京のレストランで、相手の親に「せっしゃは何者?」とジロジロ見つめられた後に、ベンは親と中国語で言い合いになるかもしれない。きっと気まずい雰囲気に包まれることだろう。

容易に想像できる。

 

これを聞いてベンの評価が一気に落ちた。

ついでに息子のあげた指輪をしていないことも気にくわない。

弱虫!

それでも男?

おっと、ゲイだったね。

 

ゲイの息子を持つと相手の親のことまで心配しないといけない。

こちらから秘密で知らせてあげたいくらいだ。

でもそんなことをすると、息子たちの怒りを買うので黙っているしかない。

 

我が家は事件が多くて心やすらかになる日などない。

夫はそれから逃げるためか休日も仕事にずっと行っている。

 

もうどうにでもなれ!

わたしには関係ない!

 

勘弁して。

これ以上なにも知りたくない。

ほっといて!

と叫びたい。

 

 

 

母親に向かない人

この世に、母親に向かない女性っているだろうか。

いる。

例えばこんな人。

 

母親に向かない人とは

自分を捨てきれない人。

自分の時間がしっかり欲しい人。

プロ並みの特殊な才能がある人。

やりたいことがたくさんある人。

社会的に成功したい人。

なんでもいいから外に出て活躍したい人。

頭脳が飛び抜けていい人。

育った家庭環境がイマイチ思わしくない人。

不健康な人。

精神疾患を抱える人。

そして

子供が嫌いな人。

 

上記に当てはまる人は子供を持つ前によくよく考えることをお勧めする。

たとえ貴女の信じる神様がなんと言ってもだ。

理想は理想。現実は現実。

 

では、上記のリストにバッチリ当てはまっているけど

もう既に子育てが始まってしまった人は?

その上、24時間営業で子育てをしている人は?

どうしたらいいのか。

 

向かない人が子育てをすると

上記のタイプの女性がフルタイムで育児に関わると、通常は大変苦しむことになる。

それでも我が子のためにと自分を殺し、自分の心の叫びにふたを閉め、子育てに臨む。更に自分の人生の夢を子供の成功に置き換える。

危険な実験を試みるのだ。

だがこんなのはうまく行かないのが目に見えている。

 

子供は全てお見通しなのだ。

落ち込んだ目と

曲がった口角と

やつれた顔と

イライラした声からわかる母親の心の内を。

 

そんな母親を子供はどう思うのか。

ママは自分が嫌い。

ママを苦しませているのは自分。

と感じるに違いない。

 

すると母親は責任を感じもっと必死になる。

この必死になるのもよくない。

 

家にこもって必死になって自己犠牲を払っても思うような結果が出るとは限らない。

出ればいいが出なかった時はどうするのか。

ウツになる?

わたしみたいに?

一生懸命やって結果が出ないのは子育てに多い。

一生懸命やれば相手が応えてくれるものでもない。

相手も自分の気持ちを汲んでくれるわけではない。

母業は片思いの孤独な仕事なのだ。

 

周りからのプレッシャー

周りは、しっかりやってあげないと子供が可哀想でしょ、とか脅す。

しっかりやるってどういうこと?

一生懸命ってどのレベル?

そういう曖昧なことを無責任にいう人が後を絶たない。

母親はただでさえ罪悪感を感じやすい。

自分はダメだ、もっと頑張らねばと、どんどん自分を追い詰めていく。

 

一般的に、男性は自分の適性に合わせて一生の仕事を選べるけれど、女性にとっては母業が天職みたいに言われている。なんの準備もなくいきなり第一日目から問題なくできるような錯覚を覚えている人もたくさんいる。できないと、「それでも母親か?」と真っ向から裁く。天職なんだからなんてことないでしょう?と言ってくる。

いや、女性だってそれぞれ性格や適性が異なり、皆母親に向いているわけではないのだ。

 

世の中は「子供のために」とそればかりを強調するきらいがあるが、

「母親の精神衛生」について考えてくれる人は少ない。

自分のことをすると「自分勝手」と言われ、「子供が哀れ」と言われる。

なんでも全部母親のせい。

でもはっきり言って

悲しんで子育てをしている母はいい母になれないのだ。

それに親がストレスを溜めていると子供に悪影響が行く。

母親が幸せでないなら子供も幸せにはなれない。

笑顔でいられない母になんのいいことがあるのか。

 

最も大切なこと

だから

最も大切なことは理想的な子育てを追い求めることではなく、

自分にできることをすることだと思う。

母親は必死になって育児書に従い研究に研究を重ねる育児をするのではなく、自分がなるべく幸せだと感じる育児をしないといけない。それはわがままなことなのだろうか?

 

子供も大切だが、わたしは母親の精神衛生が最も大切であると思う。

だから家にいると気が狂う人は外に出たらよい。

仕事をしたければすればよい。

自分のしたいことがあれば、できる範囲で継続すべき。

なんでも自分で全部やろうとしないで借りれる助けはいくらでも借りた方がいい。

体と心の病気の人はもっとそうだ。

 

向いていないのに、既にこの世界に足を踏み入れてしまった人は

どうにかして自分が幸せなママになれるように

調整を図らないといけない。

努力じゃなくて、あくまでも調整。

 

幸せになること

我慢しながら子育てをしてもいい影響はない。

我慢をすると子供にあたるようにもなり兼ねない。

虐待なんて充分可能だ。

母業はある意味で女性を狂わせる。

 

そんな母親を見て子供はこう呟くだろう。

「自分はママの幸せの邪魔者で、生まれてくるべきではなかった」と。

それならいくら一生懸命やっても全く意味なし。

 

向いていない人は開き直ってもいい。

いつも甲斐甲斐しく面倒を見なくともいい。

そういう母親が向く子供もいるのだ。

 

型にはまらないで肩の力を抜いて、

子育てをエンジョイできるようにする戦略を検討すべき。

それはちっとも悪いことでも罪悪感を持つようなことでもない。

子供のためにもママは幸せでないといけない。

ママが不幸なら子供も不幸になるからだ。

 

結論

向いてない。

わたしは100%向いてない。

適性ゼロ。

才能ゼロ。

とずっと思ってきた。

今も思っている。

それでずっと苦しんでいる。

 

でもだから何?

みんなそれぞれ違うのだ。

親になるのはそんな甘いもんじゃあない。

向き不向きがあるのだ。

 

で、ふと思う。

本当に母親に向いている人って実際にどのくらいいるのだろうか?

5%未満?

たぶん。

そんなものだ。

 

 

 

 

トビ。君の心に寄り添ってあげたい

アメリカで、LGBTQ (lesbian, gay, bisexual, transgender, and queer) は日本より受け入れられているのだろうか。

日本人の方が寛容な感じに見受けられる。

アメリカではLGBTQ の青少年や大学生に自殺が多い。家からの追放も家出も多い。

特に道徳的で宗教を実践している保守的な家庭に多い。

リベラルで自由な家風のところの若者には見られない。

よくよく教育されている家庭の若者が危険なのだ。

「このように生きるべき」と教えられた若者が苦しみやすい。

その苦しみと、家族からの拒絶と不理解が彼らを崖っぷちに追いやるのだ。

 

わたしは息子が自殺でもしたら永遠に自分を赦すことができないだろう。

なぜ息子がゲイなのかその原因は知らない。いろいろ説はある。医学界では、遺伝子の異常とかホルモンが足らないとか、環境にある化学性物質の影響とか、脳に何かの化学物質が足らないとかいう理由が説として上がっている。

 でもそんなことはどうでもいい。

原因はどうでもいいのだ。

なぜなら解決策が今の所ないのだから。

 

子供がカミングアウトして親が最も心配することは、

「我が子が社会で受け入れられるようになるのであろうか」だ。

誰でも我が子に辛い人生を歩んでほしくはないものだ。

 

いじめや迫害に耐えられる強い精神の持ち主でないと難しい。

でもそういう精神が強固なタイプは一般的にLGBTQ にいない。

実際、アメリカでLGBTQ の青少年が襲われたり殺されたりするケースも出ている。

彼らは何もしていない。ただアイデンテテが異なるだけなのだ。

そういうニュースを目にした時には自分の子供とイメージが重なって恐怖で震え上がったものだ。

幸いにして彼らを保護する法律も制定されたが、個人的に虐め迫害する人が後をたったわけではない。それを親は心配しているのだ。だからできることなら普通になってもらいたいと望んでいる。そして自分の子供はいつか正常に戻るだろうと期待している親が多い。

 

ここの学区では、同性愛の青少年を持つ親と異性愛の青少年を持つ親がトイレやシャワーの件で衝突している。性別を変えた(手術をしたかしないかにかかわらず)生徒はどのトイレやシャワーを使うか、というようなことだ。今のところ折り合いがつかず学校側が勝手に決定したらしく、再度、両者の親が乗り込んできている。それはそれぞれ自分の子供を守るためである。だが100%両者を満足させることは難しい。私は両者の気持ちがわかる。でもこんな風に社会で「問題を起こすグループ」として見られていくのが彼らの将来なのだ。

それは親にとっても本人たちにとっても辛い。

 

私は息子が女装をしていたので、女性になりたいのか?と聞いたことがある。

トビアスは「違う」と答えた。

「でも女性の服が着たいんだからそういうことでしょ」と私は突っ込んだ。

「女性になりたいなら、女性らしく行動したらどう。例えば部屋を綺麗にするとか。できる?できないでしょ。女性は一度にいろいろなことができるんだよ。男性は一つのことしかできない。だからトビはどこから見ても男性だよ。」

息子は「そういうことじゃない」と引かなかった。

「じゃあなんなの?」

「ぼくは男性だけど、女性を好きになれないんだ。でもママをがっかりさせると悪いから女性を好きになるように努力したけどダメだった。僕は自分を変えられない。」

その時息子の目が真っ赤になり涙が溢れ出てきた。

私は、ハッとした。

息子の苦しみをわかってあげれなかった。私は理解のない親だ。

親はともすると、外見や行動だけで子供を一方的に判断しやすい。そして自分の常識とそれで凝り固まった考えを押し付ける。

本当に一番大切なことは、それではなくて子供の心を読んであげることなんだ。

その心に寄り添うことなんだ。

 

一人で苦しんでいたんだよね。それを見る目と理解する心を持っていなかったのは自分である。言葉や行動の陰には壊れやすい心が潜んでいるのだ。

それを見過ごしていた。

 

これから差別を受けたりしながら人生を歩んでいくのは本人なんだ。もし親が味方になってあげなかったら誰がなるのか。

 

私の周りにも子供がLGBTQである親がいる。皆黙って何か恥さらしのように捉えていて誰も口を割ることはない。おそらく知り合いの中では我が家だけが例外のはずだ。

私も夫も息子がゲイであることを恥じてはいない。堂々と人に伝えている。息子はゲイかもしれないが、それは彼の特質の中の本の一部分であり、残りは他の人と同じなのだ。息子には素晴らしいものがたくさんあるのだ。たまたまゲイというだけだ。

私はゲイの息子を持ってみて、自分が条件付きの愛情しかない最低の親であると気がついた。それなら親の愛とはなんなのだろうか?

考えされらることばかりだ。

 

きっと神様なら、ゲイだろうがなんだろうか分け隔てなく受け入れ愛を示してあげるのだろうと思う。そういう無条件の愛なのだと思う。そして地上でそれを最初にしてあげられるのは親ではないだろうか。それを求められているように感じている。

 

息子のこの件を通してたくさんのことを学ばせてもらった。

それでもわたしの心配は一生消えない。

毎日毎時間我が子の現実を受け入れ、ゲイでとても喜んでいるかなどと聞かれ

「もちろん」というような回答を下すこともできない。

 

ただ自分ができることは、

世の中がどんなに息子に冷たくしようとも彼の心に寄り添って味方でいてあげることだ。一緒に泣いてあげることだ。

 

それだけがママがしてあげれることだよ。

 

 

 

 

落ちぶれていく息子

大学中退

春が来て、トビアスは家に戻ってきた。

もうどんな格好をしていようと驚くこともなかった。

 

さすがに前回のような恰好で現れるということはなかったが、

相変わらず化粧はしていた。

4か月洗っていない汚いジーンズをはいて登場した。

浮浪者の方がクロスドレッサー(異性の格好をする人のこと)よりましか。

 

戻って1週間後くらいに息子と改まって大学の話をした。

 

息子は年間40,000ドル(400万円)という学費が異常に高い大学に行ったのである。

そこはギフテッドの学生しか入学許可が下りず、卒業生は、ハーバード大学院などの有名大学院に進むケースが多い。だから息子の将来が開けるように信じて行かせたのである。息子は大学から条件付き返却不要の全額支給奨学金を受けていた。

 

生活態度の方が少々心配だったので、

送る前に危険を感じた親は誓約書を書かせた。

そこには「これこれをしません。真面目に勉強をします」というような事を書かせた。

 

だが

息子は全部破った。

 

その理由を聞くと

なんと

「最初から守るつもりなどなかった。」

と開き直っているではないか!!

 

なに~~~~~~~~?

私の怒りが頂点に達した!!!

 

信頼を裏切った息子と同じ屋根の下で暮らすほどいやなことはない。

最悪だった。

この分でいくと、評価が怖い。

 

案の定、前学期の評価が届き、来年度の奨学金は大幅にカットされていた。

40,000ドル(400万円)なんてうちにはないよ!!

 

あなたはね、将来に期待して奨学金を出してくれた大学側をがっかりさせ、

生活費を出してくれ、送り出してくれた親をがっかりさせた。

それなのに、反省心がゼロってどういうこと????

むかつく~!!!!!!!

 

取り合えず卒業してもらわないことには困るので他の大学に願書を出すようにと(アメリカの大学はトランスファーというのが可能で、過去の単位も次の大学に移行する)指示したが何も行動を起こさない。

よって父親の働いている四流大学に行ってもらうことにした。

本人もそれでいいと承諾した。

 

新しい大学

これで真面目にやってくれるかと期待したが、期待は見事に外れた。

とにかくネットサーフィンに浸かっていたかと思うと、オンラインデートサイトで、ある男性を見つけ頻繁に会うようになり、すべてが下り坂を転がり落ちていった。

ついに、これ以上学習を続けられないので大学を辞めたい、というほどになった。

 

理由は、ゲイの案件で頭が一杯なんだそうだ。

親の期待を裏切り(慣れてます)

自分自身がゲイである事が嫌でしょうがない、

かといって自分を変えることもできない。

 

そのジレンマで悩んでいたのだ。

今後どのように生きていったらよいかわからない。

社会の目も怖い。

 

こんな風に混乱と鬱にすっかり呑まれ、悪魔に魂を抜かれたようた顔つきにさえなってきた。

親は、「ゲイだってなんだっていい!今やっていることに集中しなさい!」

と怒ってみたが、当然効き目ゼロ。

 

それでも母の励ましと脅し(脅しの方が多い)により、どうにかまともな成績で卒業は果たした。

だが問題はそのあと。

 

求職活動

トビアスの専攻は英語と心理学のダブルだった。

普通このような専攻では、就職は至難の技だ。

そのため研究に興味のあった息子は大学院に進むことを検討していた。

1年間アルバイトをしながら試験勉強に励むことにした。

 

でも仕事は何も見つからない。

なんでもやります、と言ってもどこも雇ってくれない。

アメリカは経験を重要視する国なのだ。

経験?

そんなの若い人にあるわけないでしょ!

だれかがそのチャンスをあげなければ経験などだれも積むことができないのだから!

 

息子は仕事の経験がないことはない。

でも会社で働いたわけではない。

店で働いたわけでもない。

だいたい言われることは

“Over qualified.(この仕事が必要としている学歴及び資格がありすぎる)”

今までの仕事の経験はリサーチアシスタント及びバイオリンの講師。

主婦や学生と競争して、息子はいつも負ける。

 

じゃあ

資格と学歴に合う仕事はというと、

「経験なし」という理由ではじかれてた。

 

なんでもいいからと、とりあえず洗車の仕事にありついた。

一年だけの予定だった。

 

どん底に落ちる

だが、ゲイ友とツルみ、受験勉強はまったくせず、遊びまくっていた。

大学院の試験についても「受けた」と言っていたが、それが嘘であることは1年後に発覚した。

毎晩のように、ゲイ友と麻薬、酒、煙草、ゲイポルノに溺れ、女装でゲイバーに出入りしていた。そしてそこで知り合った人(当然男性。人数不明)と肉体関係を持ち、真っ逆さまに落ちていった。その辺にいくらでもいる落ちぶれゲイと化したのだ。

ゲイによくあるケースのように、息子のゲイ友の一人は深刻な精神問題が抱えていたため、息子の助けを常に必要としていた。一人でいられないのだ。

類は友を呼ぶというように、息子も精神を病んでいたことから、

互いに依存することによって支え合っていたのだ。

やがて息子は服を取りに1か月に1回しか家に帰らなくなった。

家に戻らず、将来に対する計画もなく、

ただゲイ友とフラフラしている息子の存在そのものが

わたしの神経を取り返しのつかないほどすり減らしていった。

いい加減にして・・・。

 

どうにかしないといけない。

なんでもいい。

できることは全部しないと。

ゲイ友の家の人にも協力を募った。

なんでも、一応、二人とも大人なのだから口出しすべきではない、と追い返された。

だがそこに息子が登場した。

恥をかいた息子は怒りを隠せず刺すような眼差しをわたしに向けた。

 

家に戻ってから

息子とわたしは大喧嘩になり逆上した息子はわたしの頬を打った。

それを見た夫が息子を追い出したのだ。

観念袋の緒は完全に切れた。

もう修復不可能。

 

追放

家を追い出され、ゲイ友に身を寄せさせてくれるように交渉したが、見事に断られた。

結局、行き場はどこにもなく、弟の情けを買いそこに転がり込んだ。

最初はしばらく親の悪口を言っていたが、

彼の味方になってくれる人など一人もいなかった。

仲の良かったゲイ友も親に言われたらしく、会うこともほとんどなくなってきた。

その後も息子は今までのように洗車の仕事に通うのみの単調な日々を過ごしていた。

 

この間ずっと。

息子の人生は嵐。

親の人生は、台風とハリケーンと竜巻。

わたしは

真っ暗闇の中でかろうじて生きていた。

 

息子、回復の見込みゼロ。

息子を助けてあげれない。

母業落第。

もうどうでもいい。

全てを忘れたい。

でもそれも不可能。

 

親業って

はっきりいって「呪い」以外のなんでもない!

子はかすがいとか、祝福とか、絶対うそ!

 

来る日も来る日も全然笑えない。

泣くばっかり。

 

改善の兆し

そうこうするうちに、息子の怒りは収まり、滅茶苦茶になってしまった自分の人生について真面目に考えるようになってきた。怒っていたのは、親に対してではなく、どうにもできない自分の人生に対して、または自分自身に対して怒っていたのかもしれない。

 

転換期は24歳の誕生日だった。あと1年で25歳。このまま今の状態が続くかもしれない。その時が来てもまったく前進していない恐れも十分にある。息子は恐怖に包まれた。

こんな風にどんどん年をとっていったら、挽回など無理だ。取り返しがつかない。

どんなに反抗しても、ゲイだろうがなんだろうが、生活はしていかないといけない。親は1ペニーだって仕送りなどしてくれない。こんな履歴では仕事を紹介してくれる人など誰もいないだろう。一生安月給で車を洗っているわけにはいかないのだ。結局最終的に自分が一番苦しむのだと気が付いてきた。このままではいけない。

目が覚めたのだ。

 

どうにかしよう、人生を変えようと彼はもがき始め、たくさんの会社に願書を出した。だが全くダメだった(当然だけど)。

生活態度も変え、クリーンな生き方をしようと努力を始めた。

麻薬はもともと長続きしなかったので中毒にはなっていなかった。

飲酒は、飲酒に向かない虚弱体質と分かりこれもやめた。

問題は煙草。

アメリカでは、煙草を吸うということは下級階層出身で自制が効かない人間と見なされ、かなりマイナスイメージだ。だからどうしてもやめないといけない。一生懸命だったが、一度中毒になると難しい。

女装もやめた。

化粧もやめた。

ゲイポルノもやめた。

ゲイバーにも行かなくなった。

 

そして

25歳の誕生日の6ヶ月前に、仕事が見つかった。

最初は産休の女性社員のポジションを埋めるだけの3か月契約だったが、結局その女性は戻ってこなかったので、正社員として雇われることになったのだ。奇跡だった。

私は泣いて喜んだ。

放蕩息子の人生がこれで変わる!!

 

その会社は日系企業で、面接官に日本人が一人だけいた。

面接官は、息子を見て哀れに思ったらしい。なぜこんな大卒の青年が車を洗っているのか。どうにかしてあげたい。と彼は思ってくれたのだ。

そして彼にチャンスをあげようと思い他のアメリカ人面接官を説得してくれた。

こんなことは殺伐としたアメリカの企業カルチャーには絶対ない。

息子は、一般的なアメリカ人の男性のような荒さがない。正真正銘の紳士である。

腰もめっちゃくちゃ低い。そんなところが好かれる理由だったのかもしれない。

 

現在

今は同じ会社の北米本社の営業部で、コスト分析関連の仕事をしている。グループマネージャーらしい。社外に営業に出かけることもあるので、肝が据わり自信に満ちてきた。現在ビジネス分析の勉強を自分でしていて大学院に進む準備をしている。

 

会計士の婚約者(もちろん男性)もいて、トビアスにいつも賢明な助言をくれとても感謝している。私がどうにかしなくちゃと騒ぐのをやめてたら、事態は勝手に動き始めてどうにかなったのだ。神様が母の切なる願いを聞いてくれたのかもしれない。

今年の母の日のカードには、「今までのことを考えると、結局ごく普通の人になったということは驚きだよね」と書いてあった。

 

今、息子は親に頼らず一人で独立して暮らしている。

時々会いたいと思うこともあるけど、我慢して極力構わないようにしている。

男性が男の子から大人の男性に飛躍するためには母親の「可愛いぼくちゃん」から「脱皮」しないといけないからだ。その努力をしている最中に母親がのこのこ出てくるべきではないのだ。息子に立派になってもらいたかったら女親はバックグランドに消えないといけない。それは私にとっては悲しいけれど、成長している息子の噂を聞くことで満足しないといけない。それでいいのだ。

 

ゲイでもなんでもいい。

経済的に自立してくれて精神的に安定してくれれば他に望むことはない。

なによりも幸せであって欲しい。

 

息子に対して全く違う勝手な「親の」夢と理想があった。

違う人生を期待していた。

でも息子は自分の人生は苦しくとも自分で切り開いていくと決めたのだ。

自分の心に正直に堂々と生きている。

そんな息子を見ていて誇らしく思える。

 

もちろんいつもいい状態というわけではない。

本人も親も不安要素を100%消すことは不可能だ。

ただできることは、現実を受け入れることだけ。

(開き直ることだけ)

1日分だけの幸せを見つめることだけ。

それしかできない。

 

ゲイでもいい。

それがどうした!

 

 

 

 

トビアスのカミングアウト

正式なカミングアウトは十代の終わりごろだった。

なんとなくそういうことを考えているらしいというのはそれとなく気が付いていた。

それが確実になったのは

マサチューセッツの某私大からクリスマス休暇に帰省した時だった。

 

夫と一緒に飛行場まで息子トビアスを迎えに行った。

だがまったく見つからない。

飛行機が遅れたのだろうか。

それとも飛行場行のバスに乗り遅れたのだろうか。

飛行機は1時間も前に到着している。

荷物引き取り場を確認してもその便の番号は掲示板に出ていない。

全部終了していた。

 

どうしても見つからないので取り合えず家に帰ることにした。

車の座席に座り

「見つからない」と夫に告げるや否や、

夫が

“Look who’s there!” (そこに誰がいるかみてごらん!)

というので、窓の外をみると、

そこにはさっき何度もすれ違った「おばさん」が立っていた。

 

夫はなにを言っているのだろうか?

しかしよくよくしっかり見てみると、

なんと

それは

自分の探していた

息子だった!

 

髪を長く伸ばし

眉毛を細く剃り

化粧をし

女性用のスラックスをはき 

女性用のサンダルをはき

女性用のジャケットを身に着け

ネックレスを付け

ブレスレットを付け

ペデイキュアを塗った

性別不詳の「おばさん」は

ニコニコ笑ってそこに立っていた。

これが息子????

 

ガーン!!!!!!!!!!

ガンガンガンガンガンガンガンガンガン!

 

バカー!

アホー!

 

親がどんな反応をするか想像がつかないの?

わたしだったら、この日に限っては自分の本性を隠すように努力するのに。

ニコニコ笑って

平気な顔でいる。

なんという浅はかな。

 

家に帰る車の中は異様な空気で充満した。

わたしは何と言っていいかわからなかった。

夫は、一生懸命

「大学はどうだ?」

「飛行機の旅はどうだった?」

と当たり前のような質問を繰り返し、平静を保つようにしていた。

 

恰好だけではない。

その喋り方までが・・・。

 

わたしはますます黙りこくった。

自分の子供が “drag queen”(ドラッグクイーン)になるとは思っていなかった。

どうせ女装をするならもっと上手にせんかい!

化粧も下手。ファッションもダメ。

はっきり言ってエライ醜い!

 

家では弟たちや妹が、兄の帰りを楽しみに待っていた。

みな玄関に向かって走っていったが、どの子も目を真ん丸にして驚きを隠せないかのようで、一気にユータンをして自分の部屋に戻ってしまった。

“That’s not my brother! That’s not him!(自分のお兄ちゃんじゃあない!違う!)”

と叫んで。

無理もない。

 

私は息子に夕食を食べさせて片づけを済ませてから頭を冷やすために外に出た。

裏道を歩きながら涙が止まらなくなってきた。

ショックと自責の念と失望と嘆きで心が破裂しそうだった。

あんなリベラルな州のそのまた超リベラル大学に送ったわたしたちがいけなかったのだ。

あの大学で「本当の自分を発見した」とか言っていた。

でも

なんであれになっちゃうの。

最悪。

 

自分は結構オープンな人間だと思っていた。

どんな人でも受け入れられると自負していた。

でもわが子になるとそれは違うのだ。

これからどうやって息子の顔を見ればいいのか。

どうやって接していけばいいのか。

普通に接すればいいのよね。

今まで通り。

でも果たしてできるのかしら。

お先真っ暗だった。

そしてなによりも

自分の子供を愛し受け入れるという基本的姿勢がぐらついた時であった。

自分の中の闇が見えた時であった。

 

この日から新しい闘いが始まった。

現実を受け入れられない自分との闘いだった。

 

クリスマス休暇を終えてマサチューセッツに息子は戻った。

発つ前に、ゲイは仕方がないとしてその女装をやめてくれるように約束させた。

 

次の4か月は息子とスペースを取ることができたことで、

親側はゆっくり状況を整理し、現実を見すえ理解し、今後の対策構築に費やす時間が取れた。

 

そしてそのままの息子を受け入れ、何があっても息子を愛していこうと決心を固めた。

親子関係も兄弟関係も今までと同じ。

何も調整するようなものはない。

だがその考えが甘かったことに気づくのにそう時間はかからなかった。

 

うちは負け組ー驚くべき真実

何年も前に知り合いにこんなことを言われた。

「失礼を承知で言わせてもらうけど、

あなたの育て方が悪かったから、トビアス君(仮名)がこんな風になったわけよね。」

 

なんと。

 

これはどんな親も言われたくない言葉だ。

充分に失礼です。

思わずなんと返そうかと迷った。

でも口からでてきた言葉は

「あなたの言うことはごもっともです」

だけだった。

 

知り合いは、私が喧嘩を吹っかけてくると予測していたらしいが、

大人しく彼女の意見を受け入れたので何も言えなくなった。

その後知り合いが私に連絡をくれることは皆無となった。

あれは・・・

一種の虐めだったと今となってはわかる。

 

知り合いが帰ったあと、むしょうに胸がむかむかしてきた。

「夫にいとまれ離婚騒動の真っ最中にいるあなたのような人が人にどうこう言える立場なわけ?」

じぶんの人生がうまくいかないので、誰かを虐めて少しでもましな気持ちになろうとしたに違いない。

 

けれでも、

当たっていないこともない。

私は、彼女の言葉を借りていうなら

「負け組」なのだ。

 

それもそのはず

トビアスは

 

ゲイ。

 

そのことで知り合いは私を「負け組」扱いにしたのだ。

ゲイの息子は負け組で、その親も負け組。

そして知り合いは「勝ち組」。

そういうことらしい。

 

たった一人の意見だったかもしれないが、

恐らくマジョリティ社会も自分たちをそう見ている確率が高いという証明にはなった。

育て方が悪かったから、そういう子供になったと。

 

「負け組」のレッテルを事あるごとに人に貼り、

人の不幸をこよなく愛する人は世に捨てるほどいる。

そういう人のかっこうの餌食となったのが自分たちなのだ。

そしてこれからもそれは続くのだ。

理想なんて

誰にでも理想がある。

理想に生きるとは称賛されるべき生き方だとは思う。

でも理想に到達できなかったときはどうなるのか。

 

理想とは、確かに人間を成長させるものであるが、

反対に働くときもある。

時に母業に対しては。

 

わたしは理想などとっくの昔に捨ててしまった。

なぜか?

それは、

自分の子供たちが最初から絵に描いたような理想からはかけ離れていたからだ。

もっと最悪なことに、自分自身も子供以上に理想からかけ離れているときている。

そんな人間の集まりが理想を唱えてどうなるというのだろうか。

理想に生きるなど、無理に決まっている。

 

でも目標や理想が全くないというのも、大海原に浮かぶ舵のない船のようだ。

だから少しはあった方がいい。

ただそのレベルが問題なのだ。

 

到達できるレベルならあってもいい。

自分の子供と自分自身をよく見据え、どのレベルなら到達可能かを判断することが

正しい(おちこまない)やり方だ。

 

それは陸上競技の棒高跳びに似ている。

少しずつバーの高さを上げていくのだ。

最初は下の方でだんだん上げていけば成功をたくさん見るだけでなく、自分の成長段階もはっきりと把握することができる。

 

わがやの理想は周りの人と比べるなら、まだ下のほうかもしれない。

でも、当初に比べれば少しずつ上に上がってきている。それでいいのだと思う。

勿論、他の家族と比べて、がっかりすることも時々ある。

落ち込むこともある。

ただその頻度が少なくなってきたということには気が付いている。

 

周りと比べずに、自分の速度で自分の高さで満足し、十分に達成感を味わえる。

周りの子供や母親が、

何をしていようと、そんなことはどうでもいいのだ。

それに振り回さることなく、現実を受け入れることができるなら、

落ち込むことも減り、

子育てに対して、

母親としての自分に対して

自信と満足感を得ることができる。

 

自分のケースで行くと

「どうにかしよう」と必死になっていた頃はただジタバタしていただけだった。

真っ暗な海でグルグル回りをしていただけだった。

どこに向かって水が流れているかもわからないので、自分勝手にカイを振り回していただけだった。

流れに逆らってこげばこぐほど、焦りで頭が混乱状態になった。

結果的に子供も親も辛いだけだった。

 

自分も子供もできないことがある、

と現実を受け入れてから精神的に楽になってきたように感じた。

つまり、「開き直る」しかない。

今はここまでしかできない!

でもいいのだ。

 

親は太っ腹にならないといけない。

親がリラックスして子供に接することが一番で

理想などは捨てるべし。

すると知らないうちに子供にもよい影響が行くようだ。

子供のことになると母親は「直そう」とするが、「直したい」と子供が自分で気づくときもある。

本当はそれが一番いい。

もう少し待てば直る時もある。

それは忍耐を要するが、多くの場合はそれしか策がないことが多い。

母親は全部を一手に引き受けて、溺れそうになりやすい。

今日はできない、と認めてもいい。

そんなに自分に厳しくしなくともいい。

そんなに届かない理想を仰ぎ見なくともいい。

 

究極のボランティア活動

わたしはボランティア活動を結構したことがある。

大変だと思ったことはない。

他の人を助けることができてとても嬉しかった。

夜中にしたこともない。

長時間というのもない。

一人でしたこともない。

ただただ感謝される事ばかりだった。

 

母業はボランティア活動

母業はずっと続くボランティア活動である。

それも孤独なボランティア活動である。

感謝?

そんなものは望んではだめ。

 

苦しい事も結構多いー当たり前。

悩みも多いー当たり前。

思い通りにいかない時も多いー当たり前。

体力も精神力もボロボロー当たり前。

 

「母業が終わる頃には、女性は殆ど狂った状態になっているのが普通」と

アメリカで耳にするが、

今、まさにそれが正解であると感じている。

このボランティア活動を何十年も続けた果ては、

「きちがいばば」が我々を待っている。

 

ボロボロになってまで?

狂ってまですること?

そないなに価値があるわけ?

 

あるんやな?

何やが。

それでなければ、子供など産みまへん。

 

子供を産み育てる理由

では、なぜ人は子供を産むのか。

子育てを続けるのか?

子供が親を慕ってくれるから?

それとも自分が子供を可愛がりたいから?

そんな利己的な理由なのだろうか?

親になる前にそんなことを深く考えたこともなかったが、

自分の子供をもつことよって頻繁に考える機会があった。

 

動物の母親も同じだ。

なぜ動物は子供を育てるのだろうか。

なぜ次の世代に命をつなげることがそこまで大切なのであろうか。

おそらく動物は感覚的に理解している。

それをしないといけないと。

そしてわたしたち人間も動物であるから

心のどこかで理解している面があるのだ。

どんなに大変でも子供を持つと。

(実際はかなり甘い考えで子供を産むケースの方が多いようだけど・・・)

 

周りの先輩方は

「いつか感謝をされる時が来るから」

「いつか見返りが来るから」

と慰めてくれる。

でもそういう恩恵が自分の元に来てほしいから

子育てを続けてきたわけではない。

何かが、わたしたち母親を、そうさせるのだ。

何の見返りが来なくともなぜか続ける。

(そう、売上ゼロでも商売を続けるようなもの)

 

母業は修行

それは、

母業は修行であり、

人生でその訓練を避けることはできないと

母親は潜在意識の中で悟っているのだ。

だがこの修行に何の意味があるのか?と疑ったこともある。

アメリカではこうも言われている。

「自分を神のようなレベルに近づけるには、親になるのが一番だ」と。

なるほど。

親になるにはある面で(または全面的に)自分を捨てないと無理だ。

確かに自我が強い人が神のようになれるチャンスは低い。

その訓練かもしれない。

 

またおそらく「使命」のようなものであると気が付いているのではないだろうか。

だから何が待ち受けているかわからなくとも、喜んで(時々嫌々ながら)その使命を全うしようと覚悟を決めて臨もうとしているのだ。

だから、「母は偉大」と言う人が世の中にいる理由がわかる。

(自分の子供はまだ言ってくれませんが・・・溜息)

 

母業の報酬

母業は究極のボランティア活動である。

自分が褒められるためにやっているのではない。

(時々が一個くらい欲しいけど・・・)

ただ、わが子が幸せになる事を願ってやっているのだ。

(動機が反映されないときも多々あるけど・・・)

それは「愛」というものがそうさせるに違いない。

(単に希望的観測)

 

金銭的な報酬はゼロ(またはマイナス)。

要するに、年中赤字。

報酬がもしあるとするなら、

自分自身の人を愛する能力の向上に違いない。

また、魂の浄化に違いない。

無償のボランティア活動は魂の浄化につながるのだ。

(わたしはまだ浄化されてないけど・・・)

 

これらの特質を開発するにあたってこれ以上の方法があるだろうか。

 

だから

母業は

究極のボランティア活動

なのだ。

母は貯水池

母業は貯水池(ダム)に似ている。

貯水池には水不足防止のために水が貯められている。

そして、そこから流れ出た水がそれを必要としている住民の用水として活用される仕組みだ。

 

母業も自分の中の貯水を使い子育てをする。

 

貯水は

つまり

精神的エネルギー及び

肉体的エネルギー

を指す。

 

毎日少しずつ使われ

時には大量に流れていくこともある。

これを長く続けていくとどうなるか。

干ばつが襲ってきたらどうなるか。

当然、貯水池は水が足らなくなっていく。

 

貯水池と母業はここまでは似ている。

違いは、

貯水池には(雨が降りさえすれば)新たな水が入ってくるが母の貯水池には滅多に入ってこないということである。

 

母は蓄えがもうほぼ底を尽きていることに既に気がついている。

でも、水つまりエネルギーを出さないなんてことは許されない。

だから無理やり出すしかない。

でも一体どこから?

貯水池自体、つまり母体を酷使して出すしかないのである。

 

こうなると体と精神は命の危機を感じることになる。

悲鳴をあげ始める。

 

ひえ〜!

勘弁してくれ〜!

と。

 

この体と精神の悲鳴は子供の前では「イライラ」や「怒り」や「落ち込み」となって現れることが多い。

こんな状態で子育てがスムーズにいくわけがない。

(そうや!そうや!)

 

だから貯水池には常に水を貯めておかないといけない。

母は自分の精神と肉体を満たすことをしないといけない。

エネルギーも充電しないといけない。

充電するには水が必要。

 

それは自己中心的な考えという人もいる。

わたしはそうは思わない。

限界を超えて生き延びることは不可能だからだ。

限界を超えれば、我が子に余裕で接することも不可能。

干からびた貯水池では、誰にも命の水を提供することはできないのだ。

適切な対応もできない。

 

だから自分の貯水池を満たすことが一番。

満たされた母が実は一番いい母になれる。

ボロボロの干からびた母ではない。

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補足:

巷ではボロボロで干からびた母こそが模範的で美徳のように言われてるケースも耳にするが(一体誰なの、そんなんを言うてる人は???)、

実は子供は輝いてる母好きや。

元気で明るい母こそが子供にもええ影響を与える。

 

そやさかい

子供大切なら

母は

輝く湖水のようにキラキラとして生きなあかんどすえ。

 

これ、ほんまどす。