人気ブログランキングへ (/head>

ドクダミママ至言

母業落第の果て:もっと早く知りたかった子育てへの答え

究極のボランティア活動

わたしはボランティア活動を結構したことがある。

大変だと思ったことはない。

他の人を助けることができてとても嬉しかった。

夜中にしたこともない。

長時間というのもない。

一人でしたこともない。

ただただ感謝される事ばかりだった。

 

母業はボランティア活動

母業はずっと続くボランティア活動である。

それも孤独なボランティア活動である。

感謝?

そんなものは望んではだめ。

 

苦しい事も結構多いー当たり前。

悩みも多いー当たり前。

思い通りにいかない時も多いー当たり前。

体力も精神力もボロボロー当たり前。

 

「母業が終わる頃には、女性は殆ど狂った状態になっているのが普通」と

アメリカで耳にするが、

今、まさにそれが正解であると感じている。

このボランティア活動を何十年も続けた果ては、

「きちがいばば」が我々を待っている。

 

ボロボロになってまで?

狂ってまですること?

そないなに価値があるわけ?

 

あるんやな?

何やが。

それでなければ、子供など産みまへん。

 

子供を産み育てる理由

では、なぜ人は子供を産むのか。

子育てを続けるのか?

子供が親を慕ってくれるから?

それとも自分が子供を可愛がりたいから?

そんな利己的な理由なのだろうか?

親になる前にそんなことを深く考えたこともなかったが、

自分の子供をもつことよって頻繁に考える機会があった。

 

動物の母親も同じだ。

なぜ動物は子供を育てるのだろうか。

なぜ次の世代に命をつなげることがそこまで大切なのであろうか。

おそらく動物は感覚的に理解している。

それをしないといけないと。

そしてわたしたち人間も動物であるから

心のどこかで理解している面があるのだ。

どんなに大変でも子供を持つと。

(実際はかなり甘い考えで子供を産むケースの方が多いようだけど・・・)

 

周りの先輩方は

「いつか感謝をされる時が来るから」

「いつか見返りが来るから」

と慰めてくれる。

でもそういう恩恵が自分の元に来てほしいから

子育てを続けてきたわけではない。

何かが、わたしたち母親を、そうさせるのだ。

何の見返りが来なくともなぜか続ける。

(そう、売上ゼロでも商売を続けるようなもの)

 

母業は修行

それは、

母業は修行であり、

人生でその訓練を避けることはできないと

母親は潜在意識の中で悟っているのだ。

だがこの修行に何の意味があるのか?と疑ったこともある。

アメリカではこうも言われている。

「自分を神のようなレベルに近づけるには、親になるのが一番だ」と。

なるほど。

親になるにはある面で(または全面的に)自分を捨てないと無理だ。

確かに自我が強い人が神のようになれるチャンスは低い。

その訓練かもしれない。

 

またおそらく「使命」のようなものであると気が付いているのではないだろうか。

だから何が待ち受けているかわからなくとも、喜んで(時々嫌々ながら)その使命を全うしようと覚悟を決めて臨もうとしているのだ。

だから、「母は偉大」と言う人が世の中にいる理由がわかる。

(自分の子供はまだ言ってくれませんが・・・溜息)

 

母業の報酬

母業は究極のボランティア活動である。

自分が褒められるためにやっているのではない。

(時々が一個くらい欲しいけど・・・)

ただ、わが子が幸せになる事を願ってやっているのだ。

(動機が反映されないときも多々あるけど・・・)

それは「愛」というものがそうさせるに違いない。

(単に希望的観測)

 

金銭的な報酬はゼロ(またはマイナス)。

要するに、年中赤字。

報酬がもしあるとするなら、

自分自身の人を愛する能力の向上に違いない。

また、魂の浄化に違いない。

無償のボランティア活動は魂の浄化につながるのだ。

(わたしはまだ浄化されてないけど・・・)

 

これらの特質を開発するにあたってこれ以上の方法があるだろうか。

 

だから

母業は

究極のボランティア活動

なのだ。