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ドクダミママ至言

母業落第の果て:もっと早く知りたかった子育てへの答え

母親に向かない人

この世に、母親に向かない女性っているだろうか。

いる。

例えばこんな人。

 

母親に向かない人とは

自分を捨てきれない人。

自分の時間がしっかり欲しい人。

プロ並みの特殊な才能がある人。

やりたいことがたくさんある人。

社会的に成功したい人。

なんでもいいから外に出て活躍したい人。

頭脳が飛び抜けていい人。

育った家庭環境がイマイチ思わしくない人。

不健康な人。

精神疾患を抱える人。

そして

子供が嫌いな人。

 

上記に当てはまる人は子供を持つ前によくよく考えることをお勧めする。

たとえ貴女の信じる神様がなんと言ってもだ。

理想は理想。現実は現実。

 

では、上記のリストにバッチリ当てはまっているけど

もう既に子育てが始まってしまった人は?

その上、24時間営業で子育てをしている人は?

どうしたらいいのか。

 

向かない人が子育てをすると

上記のタイプの女性がフルタイムで育児に関わると、通常は大変苦しむことになる。

それでも我が子のためにと自分を殺し、自分の心の叫びにふたを閉め、子育てに臨む。更に自分の人生の夢を子供の成功に置き換える。

危険な実験を試みるのだ。

だがこんなのはうまく行かないのが目に見えている。

 

子供は全てお見通しなのだ。

落ち込んだ目と

曲がった口角と

やつれた顔と

イライラした声からわかる母親の心の内を。

 

そんな母親を子供はどう思うのか。

ママは自分が嫌い。

ママを苦しませているのは自分。

と感じるに違いない。

 

すると母親は責任を感じもっと必死になる。

この必死になるのもよくない。

 

家にこもって必死になって自己犠牲を払っても思うような結果が出るとは限らない。

出ればいいが出なかった時はどうするのか。

ウツになる?

わたしみたいに?

一生懸命やって結果が出ないのは子育てに多い。

一生懸命やれば相手が応えてくれるものでもない。

相手も自分の気持ちを汲んでくれるわけではない。

母業は片思いの孤独な仕事なのだ。

 

周りからのプレッシャー

周りは、しっかりやってあげないと子供が可哀想でしょ、とか脅す。

しっかりやるってどういうこと?

一生懸命ってどのレベル?

そういう曖昧なことを無責任にいう人が後を絶たない。

母親はただでさえ罪悪感を感じやすい。

自分はダメだ、もっと頑張らねばと、どんどん自分を追い詰めていく。

 

一般的に、男性は自分の適性に合わせて一生の仕事を選べるけれど、女性にとっては母業が天職みたいに言われている。なんの準備もなくいきなり第一日目から問題なくできるような錯覚を覚えている人もたくさんいる。できないと、「それでも母親か?」と真っ向から裁く。天職なんだからなんてことないでしょう?と言ってくる。

いや、女性だってそれぞれ性格や適性が異なり、皆母親に向いているわけではないのだ。

 

世の中は「子供のために」とそればかりを強調するきらいがあるが、

「母親の精神衛生」について考えてくれる人は少ない。

自分のことをすると「自分勝手」と言われ、「子供が哀れ」と言われる。

なんでも全部母親のせい。

でもはっきり言って

悲しんで子育てをしている母はいい母になれないのだ。

それに親がストレスを溜めていると子供に悪影響が行く。

母親が幸せでないなら子供も幸せにはなれない。

笑顔でいられない母になんのいいことがあるのか。

 

最も大切なこと

だから

最も大切なことは理想的な子育てを追い求めることではなく、

自分にできることをすることだと思う。

母親は必死になって育児書に従い研究に研究を重ねる育児をするのではなく、自分がなるべく幸せだと感じる育児をしないといけない。それはわがままなことなのだろうか?

 

子供も大切だが、わたしは母親の精神衛生が最も大切であると思う。

だから家にいると気が狂う人は外に出たらよい。

仕事をしたければすればよい。

自分のしたいことがあれば、できる範囲で継続すべき。

なんでも自分で全部やろうとしないで借りれる助けはいくらでも借りた方がいい。

体と心の病気の人はもっとそうだ。

 

向いていないのに、既にこの世界に足を踏み入れてしまった人は

どうにかして自分が幸せなママになれるように

調整を図らないといけない。

努力じゃなくて、あくまでも調整。

 

幸せになること

我慢しながら子育てをしてもいい影響はない。

我慢をすると子供にあたるようにもなり兼ねない。

虐待なんて充分可能だ。

母業はある意味で女性を狂わせる。

 

そんな母親を見て子供はこう呟くだろう。

「自分はママの幸せの邪魔者で、生まれてくるべきではなかった」と。

それならいくら一生懸命やっても全く意味なし。

 

向いていない人は開き直ってもいい。

いつも甲斐甲斐しく面倒を見なくともいい。

そういう母親が向く子供もいるのだ。

 

型にはまらないで肩の力を抜いて、

子育てをエンジョイできるようにする戦略を検討すべき。

それはちっとも悪いことでも罪悪感を持つようなことでもない。

子供のためにもママは幸せでないといけない。

ママが不幸なら子供も不幸になるからだ。

 

結論

向いてない。

わたしは100%向いてない。

適性ゼロ。

才能ゼロ。

とずっと思ってきた。

今も思っている。

それでずっと苦しんでいる。

 

でもだから何?

みんなそれぞれ違うのだ。

親になるのはそんな甘いもんじゃあない。

向き不向きがあるのだ。

 

で、ふと思う。

本当に母親に向いている人って実際にどのくらいいるのだろうか?

5%未満?

たぶん。

そんなものだ。

 

 

 

 

トビ。君の心に寄り添ってあげたい

アメリカで、LGBTQ (lesbian, gay, bisexual, transgender, and queer) は日本より受け入れられているのだろうか。

日本人の方が寛容な感じに見受けられる。

アメリカではLGBTQ の青少年や大学生に自殺が多い。家からの追放も家出も多い。

特に道徳的で宗教を実践している保守的な家庭に多い。

リベラルで自由な家風のところの若者には見られない。

よくよく教育されている家庭の若者が危険なのだ。

「このように生きるべき」と教えられた若者が苦しみやすい。

その苦しみと、家族からの拒絶と不理解が彼らを崖っぷちに追いやるのだ。

 

わたしは息子が自殺でもしたら永遠に自分を赦すことができないだろう。

なぜ息子がゲイなのかその原因は知らない。いろいろ説はある。医学界では、遺伝子の異常とかホルモンが足らないとか、環境にある化学性物質の影響とか、脳に何かの化学物質が足らないとかいう理由が説として上がっている。

 でもそんなことはどうでもいい。

原因はどうでもいいのだ。

なぜなら解決策が今の所ないのだから。

 

子供がカミングアウトして親が最も心配することは、

「我が子が社会で受け入れられるようになるのであろうか」だ。

誰でも我が子に辛い人生を歩んでほしくはないものだ。

 

いじめや迫害に耐えられる強い精神の持ち主でないと難しい。

でもそういう精神が強固なタイプは一般的にLGBTQ にいない。

実際、アメリカでLGBTQ の青少年が襲われたり殺されたりするケースも出ている。

彼らは何もしていない。ただアイデンテテが異なるだけなのだ。

そういうニュースを目にした時には自分の子供とイメージが重なって恐怖で震え上がったものだ。

幸いにして彼らを保護する法律も制定されたが、個人的に虐め迫害する人が後をたったわけではない。それを親は心配しているのだ。だからできることなら普通になってもらいたいと望んでいる。そして自分の子供はいつか正常に戻るだろうと期待している親が多い。

 

ここの学区では、同性愛の青少年を持つ親と異性愛の青少年を持つ親がトイレやシャワーの件で衝突している。性別を変えた(手術をしたかしないかにかかわらず)生徒はどのトイレやシャワーを使うか、というようなことだ。今のところ折り合いがつかず学校側が勝手に決定したらしく、再度、両者の親が乗り込んできている。それはそれぞれ自分の子供を守るためである。だが100%両者を満足させることは難しい。私は両者の気持ちがわかる。でもこんな風に社会で「問題を起こすグループ」として見られていくのが彼らの将来なのだ。

それは親にとっても本人たちにとっても辛い。

 

私は息子が女装をしていたので、女性になりたいのか?と聞いたことがある。

トビアスは「違う」と答えた。

「でも女性の服が着たいんだからそういうことでしょ」と私は突っ込んだ。

「女性になりたいなら、女性らしく行動したらどう。例えば部屋を綺麗にするとか。できる?できないでしょ。女性は一度にいろいろなことができるんだよ。男性は一つのことしかできない。だからトビはどこから見ても男性だよ。」

息子は「そういうことじゃない」と引かなかった。

「じゃあなんなの?」

「ぼくは男性だけど、女性を好きになれないんだ。でもママをがっかりさせると悪いから女性を好きになるように努力したけどダメだった。僕は自分を変えられない。」

その時息子の目が真っ赤になり涙が溢れ出てきた。

私は、ハッとした。

息子の苦しみをわかってあげれなかった。私は理解のない親だ。

親はともすると、外見や行動だけで子供を一方的に判断しやすい。そして自分の常識とそれで凝り固まった考えを押し付ける。

本当に一番大切なことは、それではなくて子供の心を読んであげることなんだ。

その心に寄り添うことなんだ。

 

一人で苦しんでいたんだよね。それを見る目と理解する心を持っていなかったのは自分である。言葉や行動の陰には壊れやすい心が潜んでいるのだ。

それを見過ごしていた。

 

これから差別を受けたりしながら人生を歩んでいくのは本人なんだ。もし親が味方になってあげなかったら誰がなるのか。

 

私の周りにも子供がLGBTQである親がいる。皆黙って何か恥さらしのように捉えていて誰も口を割ることはない。おそらく知り合いの中では我が家だけが例外のはずだ。

私も夫も息子がゲイであることを恥じてはいない。堂々と人に伝えている。息子はゲイかもしれないが、それは彼の特質の中の本の一部分であり、残りは他の人と同じなのだ。息子には素晴らしいものがたくさんあるのだ。たまたまゲイというだけだ。

私はゲイの息子を持ってみて、自分が条件付きの愛情しかない最低の親であると気がついた。それなら親の愛とはなんなのだろうか?

考えされらることばかりだ。

 

きっと神様なら、ゲイだろうがなんだろうか分け隔てなく受け入れ愛を示してあげるのだろうと思う。そういう無条件の愛なのだと思う。そして地上でそれを最初にしてあげられるのは親ではないだろうか。それを求められているように感じている。

 

息子のこの件を通してたくさんのことを学ばせてもらった。

それでもわたしの心配は一生消えない。

毎日毎時間我が子の現実を受け入れ、ゲイでとても喜んでいるかなどと聞かれ

「もちろん」というような回答を下すこともできない。

 

ただ自分ができることは、

世の中がどんなに息子に冷たくしようとも彼の心に寄り添って味方でいてあげることだ。一緒に泣いてあげることだ。

 

それだけがママがしてあげれることだよ。

 

 

 

 

落ちぶれていく息子

大学中退

春が来て、トビアスは家に戻ってきた。

もうどんな格好をしていようと驚くこともなかった。

 

さすがに前回のような恰好で現れるということはなかったが、

相変わらず化粧はしていた。

4か月洗っていない汚いジーンズをはいて登場した。

浮浪者の方がクロスドレッサー(異性の格好をする人のこと)よりましか。

 

戻って1週間後くらいに息子と改まって大学の話をした。

 

息子は年間40,000ドル(400万円)という学費が異常に高い大学に行ったのである。

そこはギフテッドの学生しか入学許可が下りず、卒業生は、ハーバード大学院などの有名大学院に進むケースが多い。だから息子の将来が開けるように信じて行かせたのである。息子は大学から条件付き返却不要の全額支給奨学金を受けていた。

 

生活態度の方が少々心配だったので、

送る前に危険を感じた親は誓約書を書かせた。

そこには「これこれをしません。真面目に勉強をします」というような事を書かせた。

 

だが

息子は全部破った。

 

その理由を聞くと

なんと

「最初から守るつもりなどなかった。」

と開き直っているではないか!!

 

なに~~~~~~~~?

私の怒りが頂点に達した!!!

 

信頼を裏切った息子と同じ屋根の下で暮らすほどいやなことはない。

最悪だった。

この分でいくと、評価が怖い。

 

案の定、前学期の評価が届き、来年度の奨学金は大幅にカットされていた。

40,000ドル(400万円)なんてうちにはないよ!!

 

あなたはね、将来に期待して奨学金を出してくれた大学側をがっかりさせ、

生活費を出してくれ、送り出してくれた親をがっかりさせた。

それなのに、反省心がゼロってどういうこと????

むかつく~!!!!!!!

 

取り合えず卒業してもらわないことには困るので他の大学に願書を出すようにと(アメリカの大学はトランスファーというのが可能で、過去の単位も次の大学に移行する)指示したが何も行動を起こさない。

よって父親の働いている四流大学に行ってもらうことにした。

本人もそれでいいと承諾した。

 

新しい大学

これで真面目にやってくれるかと期待したが、期待は見事に外れた。

とにかくネットサーフィンに浸かっていたかと思うと、オンラインデートサイトで、ある男性を見つけ頻繁に会うようになり、すべてが下り坂を転がり落ちていった。

ついに、これ以上学習を続けられないので大学を辞めたい、というほどになった。

 

理由は、ゲイの案件で頭が一杯なんだそうだ。

親の期待を裏切り(慣れてます)

自分自身がゲイである事が嫌でしょうがない、

かといって自分を変えることもできない。

 

そのジレンマで悩んでいたのだ。

今後どのように生きていったらよいかわからない。

社会の目も怖い。

 

こんな風に混乱と鬱にすっかり呑まれ、悪魔に魂を抜かれたようた顔つきにさえなってきた。

親は、「ゲイだってなんだっていい!今やっていることに集中しなさい!」

と怒ってみたが、当然効き目ゼロ。

 

それでも母の励ましと脅し(脅しの方が多い)により、どうにかまともな成績で卒業は果たした。

だが問題はそのあと。

 

求職活動

トビアスの専攻は英語と心理学のダブルだった。

普通このような専攻では、就職は至難の技だ。

そのため研究に興味のあった息子は大学院に進むことを検討していた。

1年間アルバイトをしながら試験勉強に励むことにした。

 

でも仕事は何も見つからない。

なんでもやります、と言ってもどこも雇ってくれない。

アメリカは経験を重要視する国なのだ。

経験?

そんなの若い人にあるわけないでしょ!

だれかがそのチャンスをあげなければ経験などだれも積むことができないのだから!

 

息子は仕事の経験がないことはない。

でも会社で働いたわけではない。

店で働いたわけでもない。

だいたい言われることは

“Over qualified.(この仕事が必要としている学歴及び資格がありすぎる)”

今までの仕事の経験はリサーチアシスタント及びバイオリンの講師。

主婦や学生と競争して、息子はいつも負ける。

 

じゃあ

資格と学歴に合う仕事はというと、

「経験なし」という理由ではじかれてた。

 

なんでもいいからと、とりあえず洗車の仕事にありついた。

一年だけの予定だった。

 

どん底に落ちる

だが、ゲイ友とツルみ、受験勉強はまったくせず、遊びまくっていた。

大学院の試験についても「受けた」と言っていたが、それが嘘であることは1年後に発覚した。

毎晩のように、ゲイ友と麻薬、酒、煙草、ゲイポルノに溺れ、女装でゲイバーに出入りしていた。そしてそこで知り合った人(当然男性。人数不明)と肉体関係を持ち、真っ逆さまに落ちていった。その辺にいくらでもいる落ちぶれゲイと化したのだ。

ゲイによくあるケースのように、息子のゲイ友の一人は深刻な精神問題が抱えていたため、息子の助けを常に必要としていた。一人でいられないのだ。

類は友を呼ぶというように、息子も精神を病んでいたことから、

互いに依存することによって支え合っていたのだ。

やがて息子は服を取りに1か月に1回しか家に帰らなくなった。

家に戻らず、将来に対する計画もなく、

ただゲイ友とフラフラしている息子の存在そのものが

わたしの神経を取り返しのつかないほどすり減らしていった。

いい加減にして・・・。

 

どうにかしないといけない。

なんでもいい。

できることは全部しないと。

ゲイ友の家の人にも協力を募った。

なんでも、一応、二人とも大人なのだから口出しすべきではない、と追い返された。

だがそこに息子が登場した。

恥をかいた息子は怒りを隠せず刺すような眼差しをわたしに向けた。

 

家に戻ってから

息子とわたしは大喧嘩になり逆上した息子はわたしの頬を打った。

それを見た夫が息子を追い出したのだ。

観念袋の緒は完全に切れた。

もう修復不可能。

 

追放

家を追い出され、ゲイ友に身を寄せさせてくれるように交渉したが、見事に断られた。

結局、行き場はどこにもなく、弟の情けを買いそこに転がり込んだ。

最初はしばらく親の悪口を言っていたが、

彼の味方になってくれる人など一人もいなかった。

仲の良かったゲイ友も親に言われたらしく、会うこともほとんどなくなってきた。

その後も息子は今までのように洗車の仕事に通うのみの単調な日々を過ごしていた。

 

この間ずっと。

息子の人生は嵐。

親の人生は、台風とハリケーンと竜巻。

わたしは

真っ暗闇の中でかろうじて生きていた。

 

息子、回復の見込みゼロ。

息子を助けてあげれない。

母業落第。

もうどうでもいい。

全てを忘れたい。

でもそれも不可能。

 

親業って

はっきりいって「呪い」以外のなんでもない!

子はかすがいとか、祝福とか、絶対うそ!

 

来る日も来る日も全然笑えない。

泣くばっかり。

 

改善の兆し

そうこうするうちに、息子の怒りは収まり、滅茶苦茶になってしまった自分の人生について真面目に考えるようになってきた。怒っていたのは、親に対してではなく、どうにもできない自分の人生に対して、または自分自身に対して怒っていたのかもしれない。

 

転換期は24歳の誕生日だった。あと1年で25歳。このまま今の状態が続くかもしれない。その時が来てもまったく前進していない恐れも十分にある。息子は恐怖に包まれた。

こんな風にどんどん年をとっていったら、挽回など無理だ。取り返しがつかない。

どんなに反抗しても、ゲイだろうがなんだろうが、生活はしていかないといけない。親は1ペニーだって仕送りなどしてくれない。こんな履歴では仕事を紹介してくれる人など誰もいないだろう。一生安月給で車を洗っているわけにはいかないのだ。結局最終的に自分が一番苦しむのだと気が付いてきた。このままではいけない。

目が覚めたのだ。

 

どうにかしよう、人生を変えようと彼はもがき始め、たくさんの会社に願書を出した。だが全くダメだった(当然だけど)。

生活態度も変え、クリーンな生き方をしようと努力を始めた。

麻薬はもともと長続きしなかったので中毒にはなっていなかった。

飲酒は、飲酒に向かない虚弱体質と分かりこれもやめた。

問題は煙草。

アメリカでは、煙草を吸うということは下級階層出身で自制が効かない人間と見なされ、かなりマイナスイメージだ。だからどうしてもやめないといけない。一生懸命だったが、一度中毒になると難しい。

女装もやめた。

化粧もやめた。

ゲイポルノもやめた。

ゲイバーにも行かなくなった。

 

そして

25歳の誕生日の6ヶ月前に、仕事が見つかった。

最初は産休の女性社員のポジションを埋めるだけの3か月契約だったが、結局その女性は戻ってこなかったので、正社員として雇われることになったのだ。奇跡だった。

私は泣いて喜んだ。

放蕩息子の人生がこれで変わる!!

 

その会社は日系企業で、面接官に日本人が一人だけいた。

面接官は、息子を見て哀れに思ったらしい。なぜこんな大卒の青年が車を洗っているのか。どうにかしてあげたい。と彼は思ってくれたのだ。

そして彼にチャンスをあげようと思い他のアメリカ人面接官を説得してくれた。

こんなことは殺伐としたアメリカの企業カルチャーには絶対ない。

息子は、一般的なアメリカ人の男性のような荒さがない。正真正銘の紳士である。

腰もめっちゃくちゃ低い。そんなところが好かれる理由だったのかもしれない。

 

現在

今は同じ会社の北米本社の営業部で、コスト分析関連の仕事をしている。グループマネージャーらしい。社外に営業に出かけることもあるので、肝が据わり自信に満ちてきた。現在ビジネス分析の勉強を自分でしていて大学院に進む準備をしている。

 

会計士の婚約者(もちろん男性)もいて、トビアスにいつも賢明な助言をくれとても感謝している。私がどうにかしなくちゃと騒ぐのをやめてたら、事態は勝手に動き始めてどうにかなったのだ。神様が母の切なる願いを聞いてくれたのかもしれない。

今年の母の日のカードには、「今までのことを考えると、結局ごく普通の人になったということは驚きだよね」と書いてあった。

 

今、息子は親に頼らず一人で独立して暮らしている。

時々会いたいと思うこともあるけど、我慢して極力構わないようにしている。

男性が男の子から大人の男性に飛躍するためには母親の「可愛いぼくちゃん」から「脱皮」しないといけないからだ。その努力をしている最中に母親がのこのこ出てくるべきではないのだ。息子に立派になってもらいたかったら女親はバックグランドに消えないといけない。それは私にとっては悲しいけれど、成長している息子の噂を聞くことで満足しないといけない。それでいいのだ。

 

ゲイでもなんでもいい。

経済的に自立してくれて精神的に安定してくれれば他に望むことはない。

なによりも幸せであって欲しい。

 

息子に対して全く違う勝手な「親の」夢と理想があった。

違う人生を期待していた。

でも息子は自分の人生は苦しくとも自分で切り開いていくと決めたのだ。

自分の心に正直に堂々と生きている。

そんな息子を見ていて誇らしく思える。

 

もちろんいつもいい状態というわけではない。

本人も親も不安要素を100%消すことは不可能だ。

ただできることは、現実を受け入れることだけ。

(開き直ることだけ)

1日分だけの幸せを見つめることだけ。

それしかできない。

 

ゲイでもいい。

それがどうした!

 

 

 

 

トビアスのカミングアウト

正式なカミングアウトは十代の終わりごろだった。

なんとなくそういうことを考えているらしいというのはそれとなく気が付いていた。

それが確実になったのは

マサチューセッツの某私大からクリスマス休暇に帰省した時だった。

 

夫と一緒に飛行場まで息子トビアスを迎えに行った。

だがまったく見つからない。

飛行機が遅れたのだろうか。

それとも飛行場行のバスに乗り遅れたのだろうか。

飛行機は1時間も前に到着している。

荷物引き取り場を確認してもその便の番号は掲示板に出ていない。

全部終了していた。

 

どうしても見つからないので取り合えず家に帰ることにした。

車の座席に座り

「見つからない」と夫に告げるや否や、

夫が

“Look who’s there!” (そこに誰がいるかみてごらん!)

というので、窓の外をみると、

そこにはさっき何度もすれ違った「おばさん」が立っていた。

 

夫はなにを言っているのだろうか?

しかしよくよくしっかり見てみると、

なんと

それは

自分の探していた

息子だった!

 

髪を長く伸ばし

眉毛を細く剃り

化粧をし

女性用のスラックスをはき 

女性用のサンダルをはき

女性用のジャケットを身に着け

ネックレスを付け

ブレスレットを付け

ペデイキュアを塗った

性別不詳の「おばさん」は

ニコニコ笑ってそこに立っていた。

これが息子????

 

ガーン!!!!!!!!!!

ガンガンガンガンガンガンガンガンガン!

 

バカー!

アホー!

 

親がどんな反応をするか想像がつかないの?

わたしだったら、この日に限っては自分の本性を隠すように努力するのに。

ニコニコ笑って

平気な顔でいる。

なんという浅はかな。

 

家に帰る車の中は異様な空気で充満した。

わたしは何と言っていいかわからなかった。

夫は、一生懸命

「大学はどうだ?」

「飛行機の旅はどうだった?」

と当たり前のような質問を繰り返し、平静を保つようにしていた。

 

恰好だけではない。

その喋り方までが・・・。

 

わたしはますます黙りこくった。

自分の子供が “drag queen”(ドラッグクイーン)になるとは思っていなかった。

どうせ女装をするならもっと上手にせんかい!

化粧も下手。ファッションもダメ。

はっきり言ってエライ醜い!

 

家では弟たちや妹が、兄の帰りを楽しみに待っていた。

みな玄関に向かって走っていったが、どの子も目を真ん丸にして驚きを隠せないかのようで、一気にユータンをして自分の部屋に戻ってしまった。

“That’s not my brother! That’s not him!(自分のお兄ちゃんじゃあない!違う!)”

と叫んで。

無理もない。

 

私は息子に夕食を食べさせて片づけを済ませてから頭を冷やすために外に出た。

裏道を歩きながら涙が止まらなくなってきた。

ショックと自責の念と失望と嘆きで心が破裂しそうだった。

あんなリベラルな州のそのまた超リベラル大学に送ったわたしたちがいけなかったのだ。

あの大学で「本当の自分を発見した」とか言っていた。

でも

なんであれになっちゃうの。

最悪。

 

自分は結構オープンな人間だと思っていた。

どんな人でも受け入れられると自負していた。

でもわが子になるとそれは違うのだ。

これからどうやって息子の顔を見ればいいのか。

どうやって接していけばいいのか。

普通に接すればいいのよね。

今まで通り。

でも果たしてできるのかしら。

お先真っ暗だった。

そしてなによりも

自分の子供を愛し受け入れるという基本的姿勢がぐらついた時であった。

自分の中の闇が見えた時であった。

 

この日から新しい闘いが始まった。

現実を受け入れられない自分との闘いだった。

 

クリスマス休暇を終えてマサチューセッツに息子は戻った。

発つ前に、ゲイは仕方がないとしてその女装をやめてくれるように約束させた。

 

次の4か月は息子とスペースを取ることができたことで、

親側はゆっくり状況を整理し、現実を見すえ理解し、今後の対策構築に費やす時間が取れた。

 

そしてそのままの息子を受け入れ、何があっても息子を愛していこうと決心を固めた。

親子関係も兄弟関係も今までと同じ。

何も調整するようなものはない。

だがその考えが甘かったことに気づくのにそう時間はかからなかった。

 

うちは負け組ー驚くべき真実

何年も前に知り合いにこんなことを言われた。

「失礼を承知で言わせてもらうけど、

あなたの育て方が悪かったから、トビアス君(仮名)がこんな風になったわけよね。」

 

なんと。

 

これはどんな親も言われたくない言葉だ。

充分に失礼です。

思わずなんと返そうかと迷った。

でも口からでてきた言葉は

「あなたの言うことはごもっともです」

だけだった。

 

知り合いは、私が喧嘩を吹っかけてくると予測していたらしいが、

大人しく彼女の意見を受け入れたので何も言えなくなった。

その後知り合いが私に連絡をくれることは皆無となった。

あれは・・・

一種の虐めだったと今となってはわかる。

 

知り合いが帰ったあと、むしょうに胸がむかむかしてきた。

「夫にいとまれ離婚騒動の真っ最中にいるあなたのような人が人にどうこう言える立場なわけ?」

じぶんの人生がうまくいかないので、誰かを虐めて少しでもましな気持ちになろうとしたに違いない。

 

けれでも、

当たっていないこともない。

私は、彼女の言葉を借りていうなら

「負け組」なのだ。

 

それもそのはず

トビアスは

 

ゲイ。

 

そのことで知り合いは私を「負け組」扱いにしたのだ。

ゲイの息子は負け組で、その親も負け組。

そして知り合いは「勝ち組」。

そういうことらしい。

 

たった一人の意見だったかもしれないが、

恐らくマジョリティ社会も自分たちをそう見ている確率が高いという証明にはなった。

育て方が悪かったから、そういう子供になったと。

 

「負け組」のレッテルを事あるごとに人に貼り、

人の不幸をこよなく愛する人は世に捨てるほどいる。

そういう人のかっこうの餌食となったのが自分たちなのだ。

そしてこれからもそれは続くのだ。

理想なんて

誰にでも理想がある。

理想に生きるとは称賛されるべき生き方だとは思う。

でも理想に到達できなかったときはどうなるのか。

 

理想とは、確かに人間を成長させるものであるが、

反対に働くときもある。

時に母業に対しては。

 

わたしは理想などとっくの昔に捨ててしまった。

なぜか?

それは、

自分の子供たちが最初から絵に描いたような理想からはかけ離れていたからだ。

もっと最悪なことに、自分自身も子供以上に理想からかけ離れているときている。

そんな人間の集まりが理想を唱えてどうなるというのだろうか。

理想に生きるなど、無理に決まっている。

 

でも目標や理想が全くないというのも、大海原に浮かぶ舵のない船のようだ。

だから少しはあった方がいい。

ただそのレベルが問題なのだ。

 

到達できるレベルならあってもいい。

自分の子供と自分自身をよく見据え、どのレベルなら到達可能かを判断することが

正しい(おちこまない)やり方だ。

 

それは陸上競技の棒高跳びに似ている。

少しずつバーの高さを上げていくのだ。

最初は下の方でだんだん上げていけば成功をたくさん見るだけでなく、自分の成長段階もはっきりと把握することができる。

 

わがやの理想は周りの人と比べるなら、まだ下のほうかもしれない。

でも、当初に比べれば少しずつ上に上がってきている。それでいいのだと思う。

勿論、他の家族と比べて、がっかりすることも時々ある。

落ち込むこともある。

ただその頻度が少なくなってきたということには気が付いている。

 

周りと比べずに、自分の速度で自分の高さで満足し、十分に達成感を味わえる。

周りの子供や母親が、

何をしていようと、そんなことはどうでもいいのだ。

それに振り回さることなく、現実を受け入れることができるなら、

落ち込むことも減り、

子育てに対して、

母親としての自分に対して

自信と満足感を得ることができる。

 

自分のケースで行くと

「どうにかしよう」と必死になっていた頃はただジタバタしていただけだった。

真っ暗な海でグルグル回りをしていただけだった。

どこに向かって水が流れているかもわからないので、自分勝手にカイを振り回していただけだった。

流れに逆らってこげばこぐほど、焦りで頭が混乱状態になった。

結果的に子供も親も辛いだけだった。

 

自分も子供もできないことがある、

と現実を受け入れてから精神的に楽になってきたように感じた。

つまり、「開き直る」しかない。

今はここまでしかできない!

でもいいのだ。

 

親は太っ腹にならないといけない。

親がリラックスして子供に接することが一番で

理想などは捨てるべし。

すると知らないうちに子供にもよい影響が行くようだ。

子供のことになると母親は「直そう」とするが、「直したい」と子供が自分で気づくときもある。

本当はそれが一番いい。

もう少し待てば直る時もある。

それは忍耐を要するが、多くの場合はそれしか策がないことが多い。

母親は全部を一手に引き受けて、溺れそうになりやすい。

今日はできない、と認めてもいい。

そんなに自分に厳しくしなくともいい。

そんなに届かない理想を仰ぎ見なくともいい。

 

究極のボランティア活動

わたしはボランティア活動を結構したことがある。

大変だと思ったことはない。

他の人を助けることができてとても嬉しかった。

夜中にしたこともない。

長時間というのもない。

一人でしたこともない。

ただただ感謝される事ばかりだった。

 

母業はボランティア活動

母業はずっと続くボランティア活動である。

それも孤独なボランティア活動である。

感謝?

そんなものは望んではだめ。

 

苦しい事も結構多いー当たり前。

悩みも多いー当たり前。

思い通りにいかない時も多いー当たり前。

体力も精神力もボロボロー当たり前。

 

「母業が終わる頃には、女性は殆ど狂った状態になっているのが普通」と

アメリカで耳にするが、

今、まさにそれが正解であると感じている。

このボランティア活動を何十年も続けた果ては、

「きちがいばば」が我々を待っている。

 

ボロボロになってまで?

狂ってまですること?

そないなに価値があるわけ?

 

あるんやな?

何やが。

それでなければ、子供など産みまへん。

 

子供を産み育てる理由

では、なぜ人は子供を産むのか。

子育てを続けるのか?

子供が親を慕ってくれるから?

それとも自分が子供を可愛がりたいから?

そんな利己的な理由なのだろうか?

親になる前にそんなことを深く考えたこともなかったが、

自分の子供をもつことよって頻繁に考える機会があった。

 

動物の母親も同じだ。

なぜ動物は子供を育てるのだろうか。

なぜ次の世代に命をつなげることがそこまで大切なのであろうか。

おそらく動物は感覚的に理解している。

それをしないといけないと。

そしてわたしたち人間も動物であるから

心のどこかで理解している面があるのだ。

どんなに大変でも子供を持つと。

(実際はかなり甘い考えで子供を産むケースの方が多いようだけど・・・)

 

周りの先輩方は

「いつか感謝をされる時が来るから」

「いつか見返りが来るから」

と慰めてくれる。

でもそういう恩恵が自分の元に来てほしいから

子育てを続けてきたわけではない。

何かが、わたしたち母親を、そうさせるのだ。

何の見返りが来なくともなぜか続ける。

(そう、売上ゼロでも商売を続けるようなもの)

 

母業は修行

それは、

母業は修行であり、

人生でその訓練を避けることはできないと

母親は潜在意識の中で悟っているのだ。

だがこの修行に何の意味があるのか?と疑ったこともある。

アメリカではこうも言われている。

「自分を神のようなレベルに近づけるには、親になるのが一番だ」と。

なるほど。

親になるにはある面で(または全面的に)自分を捨てないと無理だ。

確かに自我が強い人が神のようになれるチャンスは低い。

その訓練かもしれない。

 

またおそらく「使命」のようなものであると気が付いているのではないだろうか。

だから何が待ち受けているかわからなくとも、喜んで(時々嫌々ながら)その使命を全うしようと覚悟を決めて臨もうとしているのだ。

だから、「母は偉大」と言う人が世の中にいる理由がわかる。

(自分の子供はまだ言ってくれませんが・・・溜息)

 

母業の報酬

母業は究極のボランティア活動である。

自分が褒められるためにやっているのではない。

(時々が一個くらい欲しいけど・・・)

ただ、わが子が幸せになる事を願ってやっているのだ。

(動機が反映されないときも多々あるけど・・・)

それは「愛」というものがそうさせるに違いない。

(単に希望的観測)

 

金銭的な報酬はゼロ(またはマイナス)。

要するに、年中赤字。

報酬がもしあるとするなら、

自分自身の人を愛する能力の向上に違いない。

また、魂の浄化に違いない。

無償のボランティア活動は魂の浄化につながるのだ。

(わたしはまだ浄化されてないけど・・・)

 

これらの特質を開発するにあたってこれ以上の方法があるだろうか。

 

だから

母業は

究極のボランティア活動

なのだ。

母は貯水池

母業は貯水池(ダム)に似ている。

貯水池には水不足防止のために水が貯められている。

そして、そこから流れ出た水がそれを必要としている住民の用水として活用される仕組みだ。

 

母業も自分の中の貯水を使い子育てをする。

 

貯水は

つまり

精神的エネルギー及び

肉体的エネルギー

を指す。

 

毎日少しずつ使われ

時には大量に流れていくこともある。

これを長く続けていくとどうなるか。

干ばつが襲ってきたらどうなるか。

当然、貯水池は水が足らなくなっていく。

 

貯水池と母業はここまでは似ている。

違いは、

貯水池には(雨が降りさえすれば)新たな水が入ってくるが母の貯水池には滅多に入ってこないということである。

 

母は蓄えがもうほぼ底を尽きていることに既に気がついている。

でも、水つまりエネルギーを出さないなんてことは許されない。

だから無理やり出すしかない。

でも一体どこから?

貯水池自体、つまり母体を酷使して出すしかないのである。

 

こうなると体と精神は命の危機を感じることになる。

悲鳴をあげ始める。

 

ひえ〜!

勘弁してくれ〜!

と。

 

この体と精神の悲鳴は子供の前では「イライラ」や「怒り」や「落ち込み」となって現れることが多い。

こんな状態で子育てがスムーズにいくわけがない。

(そうや!そうや!)

 

だから貯水池には常に水を貯めておかないといけない。

母は自分の精神と肉体を満たすことをしないといけない。

エネルギーも充電しないといけない。

充電するには水が必要。

 

それは自己中心的な考えという人もいる。

わたしはそうは思わない。

限界を超えて生き延びることは不可能だからだ。

限界を超えれば、我が子に余裕で接することも不可能。

干からびた貯水池では、誰にも命の水を提供することはできないのだ。

適切な対応もできない。

 

だから自分の貯水池を満たすことが一番。

満たされた母が実は一番いい母になれる。

ボロボロの干からびた母ではない。

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補足:

巷ではボロボロで干からびた母こそが模範的で美徳のように言われてるケースも耳にするが(一体誰なの、そんなんを言うてる人は???)、

実は子供は輝いてる母好きや。

元気で明るい母こそが子供にもええ影響を与える。

 

そやさかい

子供大切なら

母は

輝く湖水のようにキラキラとして生きなあかんどすえ。

 

これ、ほんまどす。

 

 

聖母マリアになりたいけれど

誰でも女性にはなりたい母親のイメージがある。

それは

おそらく

聖母マリアのイメージのようではないだろうか。

そしてそのイメージとは

 

いつも穏やか

安定した性格

決して怒鳴ったりしない

不安要素が少ない

叱るのではなく諭すことができる

忍耐の塊

どんなことがあっても我が子を憎まない

裏切らない

子供のために自分を捨てることができる

どんな事件が起ころうとも動じない強さを持っている

辛いことがあっても外に出さない

イライラしたりしない

子供のたわいのない失敗や暴言を何度でも許せる

何が起ころうとも母親の仕事を楽しめる

自分の都合は諦めることができる

自分の子供はどんな子供でも受け入れられる

焦らず子供のペースにいつでも合わせられる

子供の心を読むことができる

いつも愛情でいっぱい

 

こんな感じではないだろうか。

実は、わたしでさえ、こういう母親になりたかった。

子供たちの良い模範となりたかった。

限りなく優しい母になりたかった。

 

けれども、かなり不可能と気づくのにそんなに時間はかからなかった。

 (まっ、当然ですが・・・)

 

母親になって、自分という人間の本質が何であるかが暴露されてしまったように感じる。自分がどんなに忍耐に欠け、どんなにダメ人間であるかが嫌なくらいわかった。

わたしは、子供を持つまで、自分がこんなに怒ったりイライラしたりする人間であることを知らなかった。

なぜ知らなかったのだろうか。

不思議でさえある。

 

それもそのはず。

何も問題がなく、平和な日々の中で見せる自分の姿は本当の姿ではなく、その平和が覆されるときに本当の姿が現れる、という概念が語っているように、自分の本当の姿はもっとも条件の悪い時に容赦無く現れるのだ。

 

そう。

全てが順調な時には、人は笑顔でいられるものだ。そんな時には、子供の態度が悪くとも大してなんとも思わないものだ。本当の姿はこの反対の状況下で現れる。

 

もっと怖いことは、

子供もその自分を失った母親の姿を見ているということである。

それは子供の潜在意識にくっきりと刻み込まれ、一生を左右するほどの力を持つ。

なんと恐ろしいことだろうか。

母になるということは怖い。

非常に重たい責任なのだ。

 

だから努力をするつもりだった。

努力に努力を重ねればできると思っていた。

でも考えが甘かった。

両者の生まれつきの性格や特徴、さらに親の育った環境が子育てに大きく作用するから、自分の頭で考えつけるような小さな努力で解決できる代物ではないと気づいた。

 

誰でも聖母マリアのような母になりたいものだ。

誰も、最初からこの反対の母になりたい人はいない。

そして、なんとなく、自分は理想的な母になれるような気がするのだ。

たとえその理想とは何か明確に説明はできなくとも、

母親には、ただなんとなくだが、そんなイメージがある。

そのイメージを疑う人はいない。

 

失敗することを予測して子供を産む人は誰もいない。

でも結果的に失敗することもある。

それだけのことなのだ。

母は皆良い母になりたいと願っている。

でもそれはなかなかむずかしい。

 

わたしは自分の子供たちに何度も謝った。

今度こそは、怒らない。

今度こそは、理解してあげよう。

と心に誓った。

 

それでもなかなか進歩が見られず落胆ばかりを経験する羽目となった。

ごめんね。

次は怒らないようにするから。

ママを赦して。涙涙。

 

その度に子供たちはこのダメママを快く赦してくれた。

子供の方が大人より人間ができているのかもしれない。

 

全ての人に母がいる。

でも完全な母はいない。

ただ愛情表現の上手な母と苦手な母がいるだけ。

しかしその苦手な母が子供を愛していないということではない。

だから

そんなお母さんを赦してあげてほしいと願う。

みんな本当は聖母マリアになりたいのだから。

その気持ちを汲んでほしい。

 

そしてお母様ご自身は

不完全な自分自身を赦し、聖母マリアのイメージなどさっさと捨てた方が賢明。

その方が子育てが楽しくできるでしょう。

完全な母になろうとするのではなく、

立派な母になろうとするのではなく、

そのままの我が子を受け入れ愛おしむだけでいいのです。

それがもっとも大切で、それができれば、残りのものは全部ついてくるはずです。

それが母業を落第したわたしの気づきでした。

 

 

 

 

 

世界で最も困難な仕事

世の中で何が一番難しい仕事かって?

う〜ん。

そうね

責任の重さ、危険度、ストレスからいくなら

こんな職業があげられるかもしれない。

 

大統領/首相

会社社長

中堅管理職

教職

パイロット

医師

建築業者

消防士

軍隊の兵士

など。

 

これ以外にもたくさんあるに違いない(読者の方のお仕事を落としていたらすみません)。

けれども、上記の職業より難しい仕事があると

わたしは感じている。

それは他でもない親の仕事ではないだろうか。

 

親は空を飛ぶわけでもないし、何億もの人の人生を左右するわけでもない。

では、何が大変なのだろうか?

 

その理由はというと、

1。教則本どおりにいかない。

本屋に行けば、アマゾンのサイトをのぞいてみれば、読み切れないほどのこの手の教則本なるものが存在する。ネットにもあるある。

読めば読むほど混乱し悩みが深まることも往々にしてある。

実はわたしも何十冊、いや最低100冊は読んだと思う。それで結論はと言うと

「実践できない!」

 

理由は、

自分の子供と、この母親にぴったりの処方箋ではないからだ。

でもそんなものは残念ながらあるわけがない。

人は皆異なり、方程式を簡単に当てはめれば全て丸く収まると言うのはないのだ。

だから難しい。

数学の苦手なわたしでさえ、

「数学の方がよっぽど簡単!」

と威張って言える。

自動車工場のアセンブリーラインで働く行員の方々には工程マニュアルものがある。それに従って仕事を進めれば良い。機械には個性も感情もない。泣き叫ぶとかも絶対ありえない。

だが子供は違う。子育ては違う。予期しない事件が非常に多い。

だからストレス。

複雑な職務に耐えられる人はわずかしかない。

 

2。何年やってもプロになれない。

仕事というのは何年かやっていれば、コツを覚え、だんだんスキルが上達していくものだ。しかし、親の仕事は違う。

何年やっても、「この道のプロ」にはなれない。

なれない自分にストレスを抱き、協力してくれない我が子(つまり部下)にイラつく。

さらに、うまく教えてくれない教則本(上司)のせいにする。

 

何年やっても上達しないのは、ピアノの練習のような感じだ。

でも楽器はこう言えばいい。

「楽器は得意じゃないわ。やめた!」と。

仕事も「セールスは向いていない」なら

他の仕事につけば良い。

 

人間の子供にこれはできない。

「子育ては得意じゃないから、やめた!」は許されない。

何年やっても上手にならなくとも逃げられない。

(逃げると社会からコテンパンにけなされるのが怖いし。。。)

ずっとやらないといけない。

自分の能力以外(で以上)のことをしないといけない。

あ〜ストレス。

 

3。子供一人一人が違う

そんなの当たり前!なのだがこの個性の違いに適応していくことの難しさ。

何人も子供がいると、それぞれ性格だけでなく、ニーズも異なる。

それに常に対応していくことはさらに難しい。

我が家の子供達にはそれぞれ別の健康の問題だけでなく発達障害もあり、常に親側に学習と新たな適応が要求され、それに付随するストレスがかなり大きかった。

常に複数の健康問題と複数の障害を心に留めていないといけない。

その責任の重さに圧倒されて自分というものが潰されていくように感じていた。

 

3。子供は日に日に変わっていくもの

子供は成長していく生き物だが、大人はそれとは反対に既に「自己」というものが確立している。だからそう簡単に、「今日からこのように生きる!」なんてできないのだ。

子供は柔軟性に富んでいるが、大人は頭が硬い。

4歳児と6歳児はかなり異なる。ニーズも異なる。特に長子の場合は、親子共々常に新しい経験をすることになり、常にわからないことばかりで、これはストレスが大きい。

当然手探りの子育てなので、失敗の回数も増える。

失敗の数が増えれば親は自尊心がどんどん低くなり、その結果ウツにもなりかねない。

常に移り変わり常に調整が必要とされる仕事は大変なのだ。

 

4。親は他にもすることがあるのだ

親は子育てをしているだけではない。

他にもすることはたくさんあるのだ!けれども子供にはわからない。

子供は親の都合など全く頭にない。

こちらばかりがあちら様に合わせることばかりで、これもストレスの原因。

出かける時にいきなり泣くとか、

宿題を見てあげれるのは今の時間しかないのに、やらないでごねているとか、よくある話。

やることが多すぎて親は子供が寝てからかかろうと思うが、都合よく時間通りに寝てくれない、ということもある。

思春期になると、自分がむしゃくしゃするので親に八つ当たりをする、ということもある。特に母親は家族の感情のはけ口、つまりゴミ箱扱いになりやすい。

 

これもあれもと業務を押し付けてくれる理解のない上司のような感じが子供。

(ああ〜、やってられません・・・)

 

5。最低賃金長時間勤務

子育てに給料は出ない。(ごもっともですが)

いくら頑張っても、昇給どころが一円も出ない。ボーナスなんてもっての他。

でも教員や保母/保父さんは出る。

 

自分の子供なんだから自我を捨て命を削って子供に仕えるのが当然、と国を問わず皆信じて疑わない。

はっきり言って奴隷労働。それもかなり働かないといけない(でもやっていることが正しいかどうかの保証もない)。体力と精神力の極限値をさまようゾンビが主体の地獄絵と化する日もある。

 

確かに我が子は可愛いものだ。だからタダ働きでも頑張れるところがある。

でもいつもとは限らない。

特に長時間勤務が続くと観念袋の緒が切れることも当然ある。

週七日制24時間オンコールがこの仕事。

有給休暇なし。

病欠も取れない。

旅行に行っても子供の面倒は続く。

軍隊の兵士が怪我をすれば引退となり様々なベネフィットもつくが、

それは親にはない。

永遠に退職できない感じ。

 

こんなに労働条件の悪い仕事って他にあるわけ???

でもって、あまり感謝もされない。当然だと思われているのが現実。

 

6。評価が厳しい

子育ての評価を下す裁判官とは誰か?

家族?

社会?

でも・・・

実は

一番厳しい裁判官とは

他でもない

自分自身。

 

一般的に自分がどのくらいできているかは自分が一番よくわかっているものだ。

日々うまくいかないと、それを一番先に責めるのは自分なのである。

そして改善を試みるが、改善方法もよくわからないときている。

さらに、改善しても世の評価は低いことが多い。

(改善後、次の課題がすぐやってきてこれにも改善策を講じないといけない。つまり終わりがない)

子供の素行が悪かったりすると、これも全て親のせい。

勉強ができないのも親のせい。

病気にうまく対応できないのも親のせい。

アメリカでは子供が消えたりすれば、最初に疑われるのが母親で次が父親!

 

社会が親を責めるだけではない。

親は、特に母親は全部自分のせいだと、自分を責める。

あの時、ああいう風にしていれば、現状のようにならなかったはず。

と、ず〜と言い続けるのだ。

はっきり言って拷問。

こんな仕事は世の中にない。

親、特に母親の仕事だけ。

 

ついでにあまり尊敬されない。

かろうじて認められる日と言えば一年に一回のみ。

母の日。

これがないと、

誰も母のことなんて顧みてくれる人もいなさそう。

 

実はアメリカでは、母の日が一番憂鬱だとこぼす母親が非常に多い。

自分がその日にふさわしくないと思えるからだ。

その社会が決めた「立派な母親という基準」に到達できない自分を嘆いているからだ。

自殺する女性もいる。

つまり

チョー危険な職業なのだ。

 

あの〜。

タダ働きなんだからそこまで評価を厳しくする必要はないんじゃあないの?

とわたしは言いたいけど。

多分、子供の立場にある人と、子供のいない人と、男性はこの意見に反対するかも。

です。

 

まとめ

親の仕事が世の中で一番ストレスが大きく、責任が重く、評価が厳しく、鬱になりやすい。だから一番困難で危険。

シングルファーザーという存在も昨今では増加しているが、父親というのは子供と自分を感情的に切り離すことが可能なようで、女性のように個人的に取らないように見受けられる。結果的に心を病むほど落ち込んだりもなさそうだ。

従って、子育てで悩んでいるのはほとんどの場合は女性ということからも、このブログでは母親に焦点を当てていきたいと思っている。

 

と、随分硬い書き方をしてしまいましたが、

もっと簡単に述べるなら、

親業の感想はというと、

ひとえに

 

えらいしんどいどすえ〜〜〜!

 

だって、世の中で一番困難な仕事なんですから。

ちなみにうちの夫は、そうは思っていないらしい。

、ほんに羨ましいどすな〜。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしはドクダミママ

子供の時に読んだ話にドクダミの花が出てきた。

それはある少年が母の日に自分の母親にカーネーションをあげることについて独り言をつぶやくシーンだった。

少年は自分の母親にはカーネーションなど全然似合わない。

むしろ「ドクダミ」の方がぴったりだというのである。

独特の視点だ、とその時は思ったものだ。

 

そうか、「ドクダミ」がぴったりの人もいるのだ。

カーネーションが似合わない人もいるのだ。

 

その後月日は流れ、自分も大人となり母となり、このドクダミという言葉の強烈なイメージがことあるごとに脳裏に浮かんて来た。

特に母の日に「ドクダミ」という植物を自分と重ね合わせることが多かった。

 

ドクダミは繁殖力が強く、その悪臭で有名だ。

ドクダミという名前の由来は「毒を抜く」から来ている。

昔は「毒痛み」とも書かれていた。

自分のこと?

そう思えて仕方がない。

 

わたしはドクダミママ、抜いても抜いても生えてくる。

生命力も繁殖力も生半可ではない。

そして滅多に感謝されないどころか、むしろ嫌がられることの方が多い。

子供の悪いところを抜こうとする母親でもあるかもしれない。

 

そんなわたしにも真っ白で綺麗な花が咲く。

そして十薬と言われているように十種の薬効もある。

いとまれるようなものには概して非常にありがたいプラス面も備えているものだ。

 

わたしは、時には白い花の天使で、時には毒を抜く鬼になり子育てをしてきた。

今ぽっかり穴が空いたように感じている。

自分はドクダミのように子供たちからいとまれる存在なのかもしれない。

自分は母親業という世の中で最も難関な試験を落ち、「親大学」を落第したのだ。

それは紛れもなく、わたしの中の醜い「毒」であり、それを抜くように今も日々努力している。

けれどもその道は長く果てしない。

胸の奥にズンと感じる重たいものはいつ消えてくれるのだろうか。

そんな風に願いながら、自分を赦しながら、心をいたわりながら、

ドクダミママは生きている。

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ご想像の通り、わたしの30年にわたる子育ては、公共に発信するには恥ずかしいくらい失敗談の連続なのです。

笑い飛ばせるような小さな問題の連続なら良かったのですがそうではありませんでした。泣きに泣いた子育ての連続でした。

でも、娘に何度も押されて、ついに恥を偲びつつ「恐怖の現実」「あからさまな本音」を世に出そうと決心しました。

だとしても、これが果たして同じ難関大学で苦労を余儀なくされている親御さん方の役にたつかどうかはわかりません。

このブログは有名大学に合格させるための戦略やその他の子育て成功哲学について書かれているわけではありません。

 

いわゆる結論、つまり、

「確実な子育て法」

というような方程式の発見に繋がるかというと、

それも保証できないのです。

でも心の共有によって精神的な重荷を軽くすることに少しは繋がるかもしれません。

 

世には法則論を唱える人は多くおりその手の書籍も数限りないですが、

それは全て子供を中心とした子育ての手引きであり親の心に沿っているものではありません。子育てとは親と子供の両者が関連しているのに、一般的には子供側だけに焦点が置かれています。それはまるで親はどうなろうが大切でないかのごとくです。

確かに専門家の言っていることもわかります。親が親業を改善させれば子供が心身ともに健康になり、健康な子供が大人となり、その大人が社会を作り上げていくのですから、なぜ子育て論に焦点を当てるかが容易に納得できます。

 

それほど子育ては大切であると誰もがわかっているのです。

でも、子供を思えば思うほど子育ては親に急激な変化と自己改善を要求します。それは難しいことで、特に母親はその変化の過程で苦しみを経験します。

その苦しみに寄り添ってくれ、親の心を暖かく養ってくれる専門家はどこにいるのだろうか、とずっと思ってきました。

だからこのブログの目的は、読者の心に寄り沿い親の立場からみた意見を共有することにあります。

 

ただただ

少しでも

読まれる皆様の心が

軽くなることを願って止みません。

 

注:健康で特になんの問題もない素直なお子様をお持ちの方と、立派に育ったお子様をお持ちの方と、「母親とはこうあるべき」などという意見をお持ちの理想主義の方はこのブログを読まれないことをお勧めします。