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ドクダミママ至言

母業落第の果て:もっと早く知りたかった子育てへの答え

子育て後は何も見ても聞いても感動しない

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春らしくなってきた前庭。去年と変わっているものは何もなく見えるけど、あるのかもしれない。ただ自分の目には見えないだけなのかもしれない。

感動のおすそわけ

子供というのは純粋で、

新しいものに触れるたびに目がキラキラ輝き

その発見に心を躍らせ

長く感動に浸ることが得意。

それなのに

大きくなるに従ってその頻度が下がっていく。

それは当然経験を積んでいけば新しい経験はそうそうないからなのか。

 

人は親になると

この幼い子供の感動を共有しあたかもそれは自分自身の感動かのように錯覚したりもする。

キラキラと輝く我が子の目をみることが生き甲斐で、その生き甲斐を増やすために

色々なことを経験させ、

色々なところに連れて行った。

我が子の笑顔を見ることが自分の幸せだった。

他に望むことはなかった。

我が子の笑顔が世界で一番の感動だった。

それが親というもの。

子育ては大変でも、こんな一瞬のよろこびが

全ての苦労が一瞬にして溶かしてしまうほどの力を持っている。

It is hard but worth it. (大変だけどすごい価値がある)

と思える。

 

子供が成人すると

さて子育てを終えた親はどうだろうか。

子育てが一段落して

自分の人生を生きるぞ〜!と意気込んでみても

 

すでに体力の衰えを感じ😅

怪我の回数が増え

自由が阻まれ行きたいところに行けないとか

やりたいこともなんでもできるわけではない。

それに・・・行けたとしても

やれたとしても・・・

 

もっとも悪いことに

何にも対しても感動がない。😅

 

ナイアガラの滝も

「うわ〜!すごい迫力!」とは思ったけれど

これでどのくらいの水力発電ができるかなどの方が気になった。

何世帯の電力ニーズを賄えるか、なんて・・・。

夢のない話よね。全く。

 

私は全米大陸をすでに横断している。

西から東、北から南。

どこを見ても取り立てて感動するものはなかった。

綺麗だなと思うところはあった。

でも感動するほどのものではない。

アメリカは新しい国。

だからただの生活するところ、といった感じ。

 

行っていないのはアラスカとハワイ。

だから行ってみたいという気はある。

でも多分なんとも思わないのだろう。

どうせただの大きな自然。

アメリカにはこういう雄大な自然がたくさんある。

でもどれも「ふ〜ん」だけ。

どうってことないと感じるに違いない。

見たからだからなんなの?って感じ。

 

旅行よりお芝居

そんなわたしも

お芝居を観るのは好きで(映画じゃあなくて舞台)、毎年数回子供たちと行っていた。

自分も好きだったけれど、

行った理由は自分の子供に文化的な人間になって欲しかったからだ。

アメリカは金儲けが一番大切な国でお金が神様というのはこの国に関しては当たっている。

文化的な活動は二次的なことで実際必要ないと思っている人もたくさんいる。

それを象徴するように、例えば大学では商学部の教授と一般教養の教授ではもらえるお給料がかなり違う。要するにお金儲けに直接つながる分野が収入が高い。

たとえこの国にブロードウェイがあっても、一般市民の文化面における平均知能指数が低いのは常に目の当たりにさせられることだ。

 

反面教師

実は自分の夫もそんな家庭に育った。

姑は代々歯科医の家に生まれ育った。でも先天的な健康問題があったため、全く異なる家庭からきた男性を結婚した。要するに誰でも良かったのだ。実際に、しつこく押されたから根負けして結婚したと言っていた。姑はマナーも良かったし淑女の代表のような女性だった。外見も美人だったからまさに美女と野獣のカップルで、相違点の多さから当然結婚はうまくいっていなかった。

淑女である姑は文化的なことを大切にし、自分の子供たちにも文化的な事柄に触れさせるようにしていた。けれでもそれに賛同しない敵が同じ家にいたわけなので、常に反対に遭い諦めることが多かった。

義父によると、「金にならないことは無駄」。

超現実的。😅

確かにそれも一理あるのかもしれない。でもだからか、彼は殺伐とした性格だった。

貧乏を絵に描いたような境遇から来た男性と淑女のカップル。それが彼らだった。

でも舅のような人が平均的なアメリカ人であることに気づくのにそんなに時間は掛からなかった。

 

私はそういう国に住んでいて、経済的自立はとても大切だけれど品のない金の亡者になってほしくなかったから情操教育のために様々な経験を積ませた。

そして子供たちの感動を共有し、それが自分の喜びであるとみなした。

 

現在

でも今は

その喜びは跡形もなく消え、

日々の日課を淡々とこなすことだけに集中しており

その日の中に感動を探そうとする努力さえやめてしまった。

 

自然の多い場所に住んでいるから

自然の感動とかあるように思われるかもしれないけれど

この自然も毎年同じで子供の時のような感動はない。

ただゆっくりと時は過ぎていくように感じられるけど

自分の年齢はどんどん行っていることから、実際の時間の速度は結構速いことは確かだ。

 

こんな時、子供を追いかけ回して人生が終わってしまったと感じる。

母にはよくあることだ。

 

特に感動することはなくても

それでもいいかと、最近は開き直っている。

静かに時が過ぎていき人生に思いを馳せる時も必要。

 

激しく感動するものはなくとも

小さな目立たない喜びを見つけれるならそれもありかと思う。

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庭で拾った松ぼっくり。わびさびの美。

 

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ミントが顔を出した。春の伊吹は小さな感動の代表かも。

 

自分の心がどうあっても

自然は四季を繰り返している。

ただ静かに自分の人生を生きている。

 

小さな発見に大きな感動はしなくとも

一瞬笑顔になれれば、それを感動と呼んでもいいかもしれない。

そもそも、大きな感動を期待する方が間違っているのだろう。

小さな日々の変化に気づける人になりたいものだ。

 

親という大きな経験と試練は人を変えてしまうほどの力を持つようだ。

一時期は好奇心旺盛だった私の目は今はキラキラなどしていないに違いない。

きっと曇っている。

 

でもその曇った目の中に眩しい太陽が顔を覗かせることもある。

でも眩し過ぎて顔を背けることの方が多い。

 

まだ感動や躍動に包まれている我が子から見ると私たち夫婦はつまらない人間かもしれない。

でもこれでいいのだ。

これが子育て後の親のたどり着く果てなのだ。

怒涛の子育てから解放されて

今、静かに心を休める時。

一旦これが落ち着けばいずれはまた好奇心も出てくるかもしれない。

 

ドクダミママ至言

子育て後は感動の機会がグーンと減る恐れがある。

でもそれは数ヶ月か数年で、

その後子供抜きの楽しみを見つけることも可能。

ただ、それは意識的にしないと訪れないことが多い。

楽しみがなければ生き甲斐もない。

生きがいのない人生はつまらないものだ。

子供以外に生きがいのない親は子供が巣立ってもずっと子供のことを考えている。

それははっきり言って惨めというもの。

だから今から他の生きがいを探したほうがいい。