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ドクダミママ至言

母業落第の果て:もっと早く知りたかった子育てへの答え

母業は十字架の刑

クリスマスの季節なので救い主の誕生の話がふさわしいけれど、

今回は誕生とは切っても切れない十字架の話をしたい。

 

十字架の意味

イエス・キリスト様は十字架にかかって苦しんで亡くなられた。

全人類の罪の贖い(あがない)のために。(贖い=身代わりで代価を支払う)

はりつけになる前は一睡もしていない状態でその重たい十字架をかついで自分が処刑されるゴルゴダの丘まで歩かせられた。

 

彼の抱えた十字架。

それには他の意味もある。

そしてその十字架は

各々の人間がこの人生でかつがないといけない試練

を指したりもする。

 

仏教ではカルマと呼んだりする。

 

親も十字架をかついで生きていかないといけない。

それはどんな十字架だろうか。

 

わたしの人生のカルマ、または十字架は母業。

はりつけになってもなかなか降りても来られない。

 

苦しい試練。

悲しい試練。

長い試練。

 

それをかついで生きている。

このことに意義があるに違いないと信じて

我が子のために血を流しながら生きている。

それが母の十字架。

 

とは言っても自分はイエス様のような完全なお方とは似ても似つかない。

不完全で

自分で決めたことでもしっかりと遂行できなかったりする。

 

それでも十字架をかついで生きてきたことには変わりはない。

十字架は重たく

時に転びながら、

それでも地面に降ろさずに抱えつづけた。

そしてその後も、ずっとその十字架の上にはりつけのままでいる。

 

これが母の十字架の刑なのだ。

イエス様はこのあと天に迎え入れられた。

それが彼へのご褒美。

 

母にはどんなご褒美があるだろうか。

子供がしっかり育っていないなら

ご褒美はないかもと思うこともある。

 

でも、その罪の贖いの力で、母としていたらなかった我が魂を

救ってくださると信じている。

いや信じるしか他に道がない。

 

逃げずに抱えつづけた十字架にその忍耐と努力という字を埋め込み、

それが自分が生きた証になるのだ。

自分を支え続けてくれた十字架に寄りかかり

耐え忍ぶことを余儀なくする。

それが母の道。

イバラの道。

 

どんなにサボったとしても

母道はイバラの道。

十字架の刑。

 

逃げようと思えば逃げれた。

でも逃げなかった。

全然いたらなかったけど・・・

頑張った。

 

それを考慮してくださるのが神様。

自分の最善の努力の末、やっぱりどうにもならない部分が出てきてしまう。

それにがっかりする自分もそこにいる。

でもそのどうにもならない部分を神様が担当してくださるのだ。

 

自分ができない部分

それはこの例え話がうまく説明してくれている。

 

ある少女がいた。自転車が欲しくてたまらない。

毎日学校帰りに街の自転車屋さんのショーウィンドウから見える自転車を見ては、一生懸命お小遣いを貯めていた。

これだけ貯めればあの自転車が買える。

考えただけでウキウキしていた。

そして少女はやっとその金額を貯めることができ意気揚々で自転車屋さんに向かった。

そしてカウンターに自分の貯めた全財産を差し出した。

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Bike shop.(https://www.pinterest.de/pin/180284791306449457/)

ところが、

 

欲しい自転車を買うにはほんのちょっと足らなかった。

小銭の数え間違いだったのだろうか。

 

自転車屋のオーナーは

「残念だけど、売れないよ」と言った。

 

それを聞いた途端少女の目には涙が溢れ出した。

「そうですか。ありがとうございます。」とだけ言い残して

店を出た。

家路に着く途中も着いてからもずっと涙は止まらなかった。

 

するとそこへ父親が仕事から戻ってきた。

事情を聞いた父親は、少女にこう言った。

「いい案がある。足らない分を払ってあげよう。」

 

少女は大喜びだった。

 

この少女は親であるわたしたち。

この父親はイエス・キリスト様。

 

頑張ったけどダメだったと悲しんでいる時に、

その足りない分を払ってくれるのが彼。

 

贖い(あがない)はそういう意味なのだ。

人の過失や足らな部分を代わりに支払ってくれるのが贖い。

 

所詮、人は完全になどなれない。

母も(父も)無理。

足りないところだらけ。

そんな親を理解してくれて足りないところを埋めてくれるのが神様。

いいよ。いいよ。

それなりに頑張ったんだから。

過失も全て赦してあげよう。

 

あとは僕がハンドルしてあげるから心配しないで。

と言ってくださっているのだ。

 

なんと素晴らしいことか・・・と

このクリスマスの季節にそんなことを思い起こしていた。

 

ドクダミママ至言

親は完全にはなれない。

どんなに一生懸命でも手落ちは出てくるのが普通。

でもその手落ちの部分を補ってくださるのが神様。

クリスマスとはその贖いをしてくださった方の生誕をお祝いする時なのだ。