漫画家の西原理恵子さんの「卒親宣言」は有名だ。
西原さんは16年間「毎日母さん」という漫画を描いてきて、「卒親」はその最終編を出すにあたっての宣言だった。
実は!
私もそうしたいとず〜〜〜〜〜〜〜〜〜と思ってきた。
卒親とは子離れを意味し
基本的な概念はこうだ。
卒母後は
一人の私として生きる。
家族は仲良くなくともいい。
我慢しない。
干渉しない。
いや〜。
20年近く母親をやってきてこれはいきなり難しい。
私など30年である!!!!!
まず一人の私として生きる
母の代名詞は「ママ」であり「お母さん」。
日本では母親自体が自分を指して「お母さんね」とか「ママね」とか言っているではないか。ここからして「自分イコール母親」と同一視していることの証拠だ。
母親になるということは自分を捨てることと同じ。
一人の別個の人格をいったん捨てて再度構築することは難しいのだ。
家族は仲良くなくともいい
これは一緒に色々しなくともいい、との意味だろうか。
会話もなくてもいい、ということ?
これって難しい相談だ。
6月に娘の誕生日があったとき、夫とわたしは気を利かせて家を数時間”わざと”留守にした。娘が親抜きで若者だけのお祭り騒ぎをしたかったからだ。親は正直ムカついた。
そして若人が食事を終わりにしてカラオケに出かけたことを確認してから親は家に戻った。(なんでこんなに気を利かせないといけないわけ???)一緒に色々しなくともいいけど、こういう(産んであげた)日に疎外されると嫌な気分になってあたりまえ。そもそもお祭り会場である我が家の不動産の支払いは親がやっているのだ。つまりここは法律的には親の所有物であって彼らの物ではない!
しかし「卒親」にはこういうことも含まれるのかもしれない。
親は家族を一番にしたいが子供は同世代の人といる方が楽しいに決まってる。
「子離れ」とはこういうもの。
我慢しない
母の人生は長い我慢大会と言っても過言ではない。
それをある日を境に「今日から辞め」と決心しても果たしてそう簡単にできるのだろうか。我慢しないというのは自分のしたいことを我慢しないということのように思える。
でも長い子育て後は肉体的にも精神的にもかなり疲労している。だから自分のしたいことを我慢しない、って当然健康があっての話。
やっと自分のことだけを考えることができる日が来ても土壌が貧しければ咲く花はないのだ。
干渉しない
これは子供が望んでいること。でも親はいつまでも子供のことに関心がある。
気になって仕方がない。
同じ家に住んでいるならなおさら。
無視はかなり努力しないと無理だ。
我が家では今は子供のプライバシーに首を突っ込まないように(必死になって😭)努力している。でも常に自分に言い聞かせないと無理。
ふと昔に戻るということも結構多いのだ。
結論
う〜ん。どれもこれもかなり難しい!
じゃあ、どうやったら卒親できるものか????
いや〜、これが簡単にできるならみんなとっくの昔からやっているよね?
ということはやっぱり無理かしら?
いや!
無理ではない!
ただ自分のケースに当てはめればの話。
つまりどのくらいの程度で卒親するかは個人次第ということ。
また段階的に実践することも可能だ。
具体的には、この4項目のうちの1つだけを最初は実践するとか。
そして1つができるようになったら次のリストに行く。
自分のケースで行くなら、
2番目の「家族は仲良くなくていい」を最初に実践。
つまり時間を一緒に過ごさない。
次は「干渉しない」が来る。(まだ不可能状態😭)
干渉しないとは、
お願いもされていないのに奨励案や解決策など口に出さないこと。
友達のことなどにも口出ししない。
本当は徹底してやれるのが一番いい。
でもできない人もいる。
何事もやりすぎず、やらなすぎずが、やりやすい。
そう感じている。
ちなみに、我が子は全員、わたしに卒親して欲しくてたまらないらしい。
でもそう簡単にはできない。
だから一悶着が起きたりする。
いっそのこと早期老人痴呆症にでもなったらいいかもと思う時も多々ある。
自分の子供の顔も認識できなくなり名前もわからない状態になれば
卒親が完了したことになるのだろう。
それなら物忘れが増えることもいいことかもしれない。
ドクダミママ至言
卒親実践は思ったより結構難しいのが普通。
だからできることをすればいい。
親も子供も幸せになれるような卒親をすればいい。
西原理恵子さんと同じにしなくてもいい。
人はそれぞれ違うから
違う方法でやればいいのだ。
有名人の意見を鵜呑みにするのではなく
自分と子供に当てはめた自流の卒親論が正論なのでは。