親が失敗しやすいところに子供の態度だけを見て対応するという点がある。
これだと子供にはとてもアンフェアだ。
なぜなら子供は発達途上中の人間だからほとんどの子供はほとんどのことを立派に成し遂げることができなくて当たり前なのだ。
でも親はそのことでついついガミガミと説教をしたり大声をあげたりする。
本当は子供は子供なりに努力をしていないわけではないのだ。
でも結果として親の期待を外れたことをしてしまう。
故意があってのことではないのだ。
それを親はついつい忘れてしまう。
子供が宿題をやりたくない時、
あなたは子供になんと言うだろうか?
「さっさとやりなさい!」と叱るだろうか。
子供があなたに反抗的な態度を取ったらなんと言うだろうか?
どんな反応をするだろうか?
ほとんどの親は
こんな反応ではないだろうか。
「カチ〜ン!」
「むかつく!」
「親に向かって何それ?」
「いい加減にせんかい!」
自分の失敗から思うことがある。
子供がふてくされていたり協力的でなかったりする時というのは
一般的に理由があるように思う。
それは大人にとってはくだらない理由かもしれない。
理由とは呼べないような理由かもしれない。
でも子供にとっては正当な理由なのだ。
子供が嘘をついたらどうすだろうか?
逆上するだろうか?
でも子供は嘘をつかないといけないような状況にやむなく追いやられている可能性が高い。嘘をついたことは正当ではないが、嘘をついた理由は正当なのだ。その嘘をつかなければいけないような状態まで追い込まれてしまったその心を読み取ることができないだろうか。
友達に危害を加える子供はどうだろうか?
実は人に危害を加えるような人になってしまったということは、そこに行き着くまでの道のりがあり、屈折した心が存在するからだ。
そこのところを考慮してあげれるのが本当の親(大人)の姿かもしれない。
これを「子供の心に寄り添う」と呼ぶ。
つまり、子供の言葉や態度の影に潜んでいる心の深いところを見てあげることを指す。
頭なんかよくなくてもいい。
大学教育もいらない。
かっこよくなくてもいい。
なんの特殊な才能も必要ない。
ただ必要なのは我が子の心を読み取り汲んであげれる広い心のみ。
最初にすることは子供の気持ちや意見をそのまま受け入れてあげること。
たとえ子供の態度を無理やり変えることができても、その子の感じ方を変えることはできない。そういう権利もない。たとえ親であったとしても。
物事の感じ方まで強制することは絶対に不可能だ。それはどの人にも平等に与えられた権利であると思う。
嫌なものは嫌なのだ。
嫌というその言葉の裏には子供の深層心理が隠されている。それが態度の悪さや反抗などとなって現れてしまうこともあるが、それはあくまでも外側のことで中身は違うことが多い。
我が子がどんなにやんちゃで問題があっても、本当は清らかな心の持ち主であり、心の底では親が誇りに思ってくれるような立派な人になりたいと思っているのが子供というものだ。それを信じて心の目で見てあげることが大切。
つまり、
我が子の隠れた心を心の目で見てあげること、これが鍵。
親が怒れば親は子供の敵となってしまう。味方であるということを示したかったらまずは本人なりの「正当な理由」を認めることから始めるのはどうだろうか。
すると子供は親に心を開いてくれるに違いない。
そこから全ては始まるように感じている。
親は我が子のことになるととかく真剣になりやすい。
これがよくない。
真剣にならなくてもいい。
子供を直そうと思わなくていい。
ただ子供の心に寄り添うこと。
これだけでいい。
他に何もしなくてもいい。
愛するということはこういうことを指すのではないだろうか。
ドクダミママ至言
子供のわがまま、反抗などをまともに取らない。
心の目で見てあげて子供の感じているその気持ちをそのまま認めてあげること。
それが子供の心に寄り添うことを意味し、それだけすればいい。
心に寄り添うことは愛すること。