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ドクダミママ至言

母業落第の果て:もっと早く知りたかった子育てへの答え

みんながやっているからはあてにならない

今回の話は常識について。

 

個人的には常識って本当に面倒な言葉だと思う。

そうは思いませんか?

裏の家のめんどりたち。しょっちゅう無断で侵入!
当然彼らに常識なんてない。だから自由で幸せそうだ。

常識

人はよくこんなことを口にする。

〇〇はするものでしょう?

〇〇しない人はおかしいよね?

常識よね?

 

など。

 

では

この〇〇に言葉を入れてみよう。

 

例えば

学校は行くものでしょう?

そうですか?

行くものですか?

でもコロナで行かなくなったということはケースバイケースもありということよね?

よって「児童は学校に行くもの」はルールではなくなった。

常識ではなくなった。

 

他にもある。

例えばお辞儀。

日本ではお辞儀をするのが当たり前。

でも外国では違う。

だからこの常識っていうのはね〜場所によって違うんでしょ。

みんながやっているって日本での話。

みんなじゃあない。

 

日本はピストルを所持できない国。

でもアメリカはOK.

やっぱり常識や法律も場所によって異なる。

 

この季節になれば〇〇の服を着てこう行動すべき。

歳をとったら派手な色は非常識。

江戸時代は皆和服。行動様式も現代とは遥かに異なる。

だから江戸時代の常識は今に合わないのだ。

歳をとったら派手な色はダメ・・・は日本の常識。

西洋では、派手な方がいいと言われている。

なぜなら老化が進むと皮膚の色もくすんでくるため明るい色を身につけた方がいいからだ。

 

ということは常識はやっぱり時と場合によるのだ。

それと固有の文化に影響されている。

その文化も地方によって異なったりしている。

言葉の違いにも影響される。

 

それなのに

それをごちゃごちゃという人がえらい多い。

他人のこともごちゃごちゃと言う。

 

だから人の目がえらく怖い。

 

確かに犯罪はダメよ。

でもそれ以外はどうだか・・・。😅

 

些細なことを重要視すること

細々としたことは大切である時もあるが’最も’大切な事柄ではない。

つまり周辺(prephery)の事柄であり、焦点ではない。

 

それなのに、そんなどうでもいいことばかりに焦点を置いて他人を裁いている人がいる。

そして自分自身をも裁いている。

馬鹿らしいと思わないだろうか。

 

そもそも考えていただきたい。

自分の住んでいる日本という国がどんなサイズなのか考えてみたことがあるだろうか。

まず地図でも地球儀でもいいらかよく目を開けてしっかり見つめてほしい。

どう?

日本っていう国がどんなに小さかわかるでしょ?

 

まず宇宙を見て。

境界線がどこだかわからないような宇宙。

その中の一つの惑星が地球。宇宙全体から見ればただの点。

その地球の中でもとりわけ小さな国土が日本。

その小さな国土の中にあるより小さな日本社会の中のこれまたもっと小さな日本家屋の中で何が起きていようと世界は全く気にしていないのだ。

宇宙からは地球の中の人間の意識が何に向いているかも全く見えない。

 

Everthing is trivial.

全ては些細なこと。

人間の気にしているこの’みんながやっていることは’めくじらを立てるような重要なことではなく、くだらないことが多いのだ。

 

だからその小さな世界で世間の目(宇宙からは見えない意識)を気にして生きていくことくらい馬鹿らしいことはない。

 

気になるのは所詮日本の目だけ。

 

そんなに日本社会が嫌なら外に出たら良い。

別に日本に産まれたから日本にずっといないといけない法律はない。

世界は広いのだ。

 

世間の風当たりに負けない精神の強さ。

それは村八分文化ではかなりきついと思う人も多い。

そういう人はやっぱりそういう文化を出るしかない。

世界には出る杭は打たれない文化もある。

長いものに巻かれない文化もある。

別の事をやって後ろ指さされない文化もある。

 

でも日本にだって勇気百倍の人もいる。

荒波を立てずに静かに目立たずに生きるのが日本の美徳のように見えるけど、

傑出した人物は日本でだってしっかり荒波を立てている。

 

そもそも、みんながやっていることをしたら安全だけど、

抜き出た人には決してなれない。

もっとも、それがいいならそうすればいいし

それが嫌ならその反対をいけばいい。

 

ただ、反対を行く人の人生はその人の人生であって、それを批判するのはおかしい。

なぜ他人の人生にそこまで口出しをしたがるのか・・・

自分の人生で忙しい人はそういうことはしないものだ。

 

勇気を持って我が道を行く。

そういうことを許容する懐の大きさ・・・それが小さな国には欠けているのかもしれない。

 

’みんな’と言っても’みんな’じゃない

要するに’みんな’がやっていることというのはね〜

自分のコミュニテイの’大多数’がやっているように’見える’ことを指していて、

実は’みんな’じゃあないのだ。

だからその’みんな’がやっていること、言っていることを

まともに聞く必要はないのだ。

 

そういうふうに大人が考えられるようにならなければ、その窮屈さに合わせられない子供は精神を侵してしまうことになる。

 

学校のことを例にとれば、

学校が好きな子供もいるし、合う子供もいる。

でもその反対もいる。

それが当たり前。

 

憲法で保障されているのは「全ての児童が教育を受ける権利がある」だけ。

全ての児童が学校に行かないといけないとはうたっていない。

どんな方法でもいいから基礎的な読み書き算数はできた方がいい。

でも別に’受ける’という受動的な方法以外でも学習方法が存在することを忘れてはならないと思う。

 

だから個人で決める権利は許されるべき。

しかし、人はこの大多数とは違う方向に行く人を否定する傾向がある。

それはおかしいんじゃないの?と。

要するに’いじめ’!

おそらく大多数から出て全く違うことをしようとする人がいると自分の立場が脅かされるから怖いのだろう。

 

彼らは認識していない。

人は皆違うという事を。

 

だから面白い。

みんな同じならロボットだ。

 

物事は刻々と変わっていくもの

みんながやっているからというのは当てにならない。

なぜならみんなが今やっていることは明日はやっていないこともあるからだ。

全ての物事はミクロのレベルで刻々と変わっていっている。

だから現状維持というのは本当の意味ではあり得ない。

 

伝統に引き留めようとする大多数の威力。

それに勝つ強さ。

それを養うことが難しい文化。

それでも物事は刻々と変わっていく。

それの動きには逆らえない。

 

因習はいい加減にやめないと次世代が苦しむ世の中になる。

そう感じている。

 

ドクダミママ至言

みんながやっているからとか

よそ様の子供はどうだとか

そういうことを心配することはやめよう!

そもそもみんなが同じってあり得ない。

みんな違うから社会が回るもの。

足並みを合わせることなんて最も大切なことじゃあない。