長男の出産後、看護師さんがわたしに言った言葉がある。
「この子は赤ちゃんにしてはとても綺麗な手をしてますね。音楽家の手ね。」
早速、腕の中の息子の手を見てみた。
言われた通り長く美しい指で全体的にすらっと細長い手だった。
その時思った。
この子には楽器を習わせてあげよう、と。
そして当時の決断通り、息子が4歳の時にバイオリンレッスンを始めた。夫は大学院生だったため経済的に余裕がなかったが、我が子のためにと出費をいとわなかった。
我が家の経済状態の中でのレッスンなので大学院生に教えてもらっていたが、教授経験が多く子供のことをよく理解していた先生だったせいか、本人は毎週のレッスンをとても楽しみにしていた。
その後もずっと続けて高校生になった時は大学のオーケストラにも合格するほど上達した。周りからも期待され、音楽専門の大学に行くことも可能だった。けれども心理学に進む決心をした。勿体ないとは思ったが親は自分のしたいことをするよう励ました。
何に進もうとも、親の息子に対する期待が揺るぐことはなかった。彼は知能が高く想像性にも長けていたため親バカであるわたしたちは彼に大きな期待をかけた。
大学はギフテッドが集まるマサチューセッツ州の私大に本人の希望もあり行かせた。
この大学の卒業生の多くはハーバード大学の大学院に進学する。当然わたしは息子をそこに進ませることを夢見ていた。そして絶対そうなると信じていた。信じて疑わず努力を重ねれば絶対に結果が出せると子供たちにもいつも言い聞かせていた。だから息子にも「頑張れ!」と常に励ました。励ました理由は本人のためだけではない。自分のエゴのためでもあった。当然そうなってくれればわたしの犠牲も意味があったことになる。今思うとそれが一番の理由だったかもしれない。
好奇心も知能も高かったので息子は学者になるのがふさわしいと親は勝手にそう決めつけていた。息子も親の意気込みを素直に信じ、半分親のシナリオ通りに進むことに異議を感じていなかったようだ。
けれども大学で自己に「目覚めた」息子はここから親のシナリオを無視するようになった。自己を確立させることは人間として必須でこれが大人への自然の道なのだ。それは理解できる。けれども彼が選んだ生き方は湾曲しており親の心痛の原因となった。
音楽をさせることは本人に向いていると思い親が勝手に決めたこと。
どこの大学に行くかは本人が決めたし専攻も本人の選択だったが、私の頭の中にはそのあとのことまで決めてあった。母の方法で行けば絶対うまく行く、と確信していた。
息子は母の犠牲と応援を無駄にするような子供ではない、と信じて疑わなかった。
けれども母の思いは彼には通じなかったようだ。
大学側からの全額支給の奨学金も無駄にし大学を中退した。
その後夫の勤務する大学に移転したが、やる気ゼロ。問題ありの友達ともつるみ、親にハッパをかけられてやっとの思いで卒業を果たした。卒業したと言ってもその後の計画はあったようななかったような。要するにプー太郎をやっていた。
ずーと自分探しの旅に出ていたのだ。
今はどうにか安定し、会社にも勤務しデータアナリストとしてごく普通のサラリーマンをやっている。
でも親は、息子をごく普通のサラリーマンにするために多くの犠牲を払ったわけではないと思っていた。そんな親の思いをよそに、息子は微々たる額でも安定した収入があり普通に暮らしていければそれでいい性格なのだ。それで幸せなのだ。
わかってはいるが、親は才能と知性の無駄遣いのように思えてしかたがない。
私生活面では、
今はゲイのパートナーと同棲している。お相手の方は会計士でとてもいい方で申し分がなく、息子の弱点をよく補佐してくれ感謝しているくらいだ。
これで本人が幸せなら親の出番はもうないのだ。親は引っ込んで、彼の生き方を認めてあげないといけない。別に息子がゲイで喜んでいるわけではない。そんな親は親自体が同性愛者でない限りは世界のどこを探してもいないはずだ。ただ彼には彼の人生を生きる権利があることをしぶしぶ認めているだけなのだ。
息子の職業的な成功もパーソナルな面での選択も現実として受け入れている。受け入れるしか他に方法がないからだ。これがいいとかダメとか、そういうことを言っても始まらない。ただひたすら現実をあるがままに受け入れることによって平安を得ることがやっとできるようになってきた。
親は子供にたくさんの期待をかけやすい。
夢を抱くのだ。そのためにはどんな犠牲もいとわない。
けれども子供の夢は親が思っていないところにあることが多い。
そして親のシナリオ通りにいかない場合、裏切った子供をなじることもある。
はっきり言って
親のシナリオ通りになど行かないものだ。
わたしの3人の息子は親の提案など18歳からほとんど無視。
末っ子の娘は比較的従順だと思っていたが結局どんでん返しがあった。
それでいいのだ。
このようにして誰もが大人への脱皮を果たして行くのだから。
大人への脱皮を図るためには子供本人がシナリオを書いていかないと行けない。
シナリオ執筆には訂正や最初から書き直しというのもある。それが親の目から見ると怖い。だから最初から書き直しのない人生を推奨する。
しかしこの方法以外にはないのだ。
自分で自分の人生のレールを引こうとしている我が子を影で見守り、いつかしっかりと歩んでくれることを信じてあげるしかない。
ドクダミママ至言
親のシナリオ通りにいかなかった場合は、その現実をそのまま受け入れること。
でもその時に、それがが「○」か「X」かなどと判定しない。
ただそれをそのまま受け入れる。
そして悲しんでいる自分の心の状態に対してもそれがいいとか悪いとか決めつけない。
だた「悲しんでいる」「落ち込んでいる」その気持ちを認めてあげるのだ。
「どこで間違ったのか?」などとも聞かない。
ただ起きていることをそのまま認め、
つまり意地を張らずに素直になることだ。
子供はたとえ自分の子供でも別の魂を持った人間。
親子の間には決して消えない絆があると確信していても、あなたの産んだ子供の肉体の中には別の感情や考えが宿っており、それは誰も侵すことのできないもの。たとえ親であっても侵入は許されない。強制的に脅しや騙しにより他の人の行動を変えることは可能。でも心を変えることは絶対無理なのだ。心は本人のもの。誰のものでもない。おそらく子離れにはこう言ったことを理解することが親側に必要なのだと思う。
子育ても当然大変だが子離れはもっと苦しいものと感じている。
その苦しみを克服するためには、
そのシナリオを思い切って捨ててしまうことだ。
つまり「こうならねばならぬ」というような常識や凝り固まった考え方をゴミ箱に捨ててしまうこと。さらに自分が子供より賢く偉いというような考えも捨てたほうがいい。
親が考えたスムーズな人生計画は堅実で危険性が少ない。でも若い人は危険の中に飛び出して行くものだ。それを黙って見守るのは親にとってかなり辛い。
でもそこにしか答えはない。
自分の方法で自分の人生のレールを引こうとしている我が子の軌道修正をしようとしてもバックファイアが待っているだけ。
もっと反抗されることに違いない。
だからシナリオはどんなに完璧でも焼き捨てるしかないのだ。
今はどんなに泣いてもいいから。
いつか涙が枯れ、心も晴れる日がやってくると信じて。