家の軒下にナゲキバトの巣がある。
ツガイの巣だと思っていたけれど、雛鳥がいることがわかった。
母鳥が雛を隠していたのでよく見えなかったのだ。
母鳥は常に雛の上に座り込み雛を温めているようで、その間、父鳥は頻繁に飛び立ち、その度に餌や巣を作る材料を持ち帰ってくる。
往復頻度が多い割には一度にほんの少ししか口にくわえることができないため、巣作りははかどっていないように見えた。
効率的でない。
そう思った夫と私は、巣の下の地面に藁を置いてあげた。
いらぬお節介だったのかもしれない。
ナゲキバトの父親は2〜3本取って行っただけだった。
そのかわりもっと硬い小枝ばかりを運んでいる。
より頑丈にするためか。
その様子を見ていてあることに気がついた。
人が良かれと思って先回りしてやってあげたことでも、それが必ずしも気を利かせたことにはならないということを。
その鳥によってニーズが異なるため役に立つとは限らないのだ。
硬い小枝では居心地が悪かろうと詮索したのは相手の立場を何も理解していない自分達だった。
それと同じように
親も子供のためを思い色々先回りして助けてあげようとするが必ずしも本人のためになるわけではない。
おそらく子供は自分に何がベストか既に知っているのだろう。
それを検討に入れずちょっかいを出しても
子供にとってはありがた迷惑なのだ。
おぼつかない我が子を信頼してあげることの大切さ。
藁を与えたことはナゲキバト(我が子)を信頼していないこと。
それをナゲキバトの父親に教えてもらった。
その名称どおりの憂い声が我が家の敷地にこだましている。
何を憂いているのか。
何もわかっていない愚かな人間に嘆き悲しんでいるに違いない。
ドクダミママ至言
どんなにおぼつかないと見えても子供を信頼することは大切。
子供の思いは親の思いの届かない遥か彼方にあるもの。
でも親はそれを理解することが下手で発見することさえもできない。
子供の心は心の目で見てあげること。
その方法として、自分のアジェンダがどんなに素晴らしく完璧でも、それは一旦横に置いて、自分の心を子供の心の中に置いてみることが挙げられる。
そうすれば見えてくるものだ。