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ドクダミママ至言

母業落第の果て:もっと早く知りたかった子育てへの答え

運命ってあるのだろうか?それを変えられるのだろうか?

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コスプレの道具にされるのが僕の運命。諦めてます。😅(相変わらずふてくされた顔だな〜)

運命は変えられるのか?

多くの人にとってこれは永遠の課題と言っても過言ではないと思う。

仏教の一派の教えでは

物事の全ては原因と結果の法則による、らしい。

ということは、この原因をどうにかすることによって結果のコントロールができるようになるということだ。

だから不幸が起きないような原因を最初から作らなければいいということになる。

そうすれば万人が幸せになれる。

 

でも本当に問題の原因を全て取り除くことができればその概念は役に立つ。

では、あなたはその原因を全て取り除くことができるだろうか?

 

確かに悪い決断が悪い結果を生むという原則は当たっている。

ではどのくらい人は自分の人生をコントロールできるのだろうか。

巷では、強く願うことによって全ての希望は叶えられる、というそんな概念も流行っている。

それにも一理ある。

でも自分の力と努力だけで変えられないこともある。

 

なぜなら・・・ 

1。人は不完全で完全になど決してなれないから

ということは不完全な人間は決断の段階で間違いを犯してしまうことなど朝飯前なのだ。

だから、親も子供も完全になどなれない。

できることは少しずつの改善のみ。それにはまず自ら自分の失敗を認めないといけない。その原因が自分にもあることを認めないといけない。そして次回からは同じような間違いを起こさなければそれが運命を変えることになる。

でも人というのは、どうもまた同じような間違いを起こしやすい。それは生まれつきの性分や性癖などが関連しているからだ。

 

2。人はその属している社会に翻弄されることが多いから

20世期の半場に起きた大恐慌のことを考えていただきたい。

一体何人の人がこの事件を予知でき、理想的な是正処置を下すことができたのだろうか?

津波の影響を受けた人々はどうなのだろうか?

公害から病気に罹る人もいる。

戦争に翻弄されたり悪い社会のリーダーに翻弄され人生が狂う人もいる。

どんなに強く望んでも自分の思ったようにスムーズにいかない時もある。

そういう例は世の中にごまんとある。

それは彼らの祈りが聞かれなかったということなのだろうか。

それは徳を十分に積まなかったからなのだろうか。

それは信心が足りなかったからなのだろうか。

 

私が21歳のときに、ロシア人の老女と知り合いになった。

スターリンによる宗教迫害(1932−37)に遭い、逃亡中に父も兄もみな殺害され母と妹とも生き別れになってしまいその後の音沙汰も消えてしまった。

そして命辛々逃げてたどり着いたところは満洲。そこで助けられ、寡の日本人医師と結婚することになる。そして戦後彼女は日本にやってきた。わたしが会ったときは彼女はガンを患っていた。

幸福を求め大陸をさまよい、そして海を渡ってきた。でもそこでもたった一人の家族である夫に先立たられ、子供も授からなかったので誰も彼女の面倒をみる人はいない。よって福祉のお世話になっており、外国で寂しい晩年を過ごしていた。

一体彼女の何が悪かったのだろうか。ずっと一生懸命運命を変えようと努力してきたに違いない。

これは彼女のせいなのだろうか。確かに原因は存在している。でも彼女にはどうしようもなかった事ばかりだ。

 

社会の出来事に翻弄された人の例が多くある。

今はコロナ禍からきた問題で苦しむ人が世界中にいる。

真面目にやってきたのに、会社は倒産に追いやられ仕事を失い家を失い露頭に迷う人々がいる。

自然災害で全てを失う人もいる。

これも運命なのだろうか?

 

3。遺伝子に作用されるから

人は遺伝子に作用されることも多い。

だからどんなにやり遂げたいことがあっても無理なこともある。

若くして病に侵される人もいる。彼らとその家族はできることはなんでもしていると思う。

みんな希望を失わずに奇跡を信じて頑張っている。それでも願いが叶わないこともある。

だからそんな人に「大丈夫信じればどうにかなる」とはとても言えない。

人生には理不尽なことが多いものだ。

 

4。家族や家庭環境も大きいから

家族の問題も然り。

親の選んだ間違いは子供にはコントロールができない。

犯した過ちの償いは子供にはできない。

せめて親のように生きないように努力するしかないのだ。

 

わたしの父は人生がうまくいかないことをアルコールに逃げ人生を破滅させた。

実際父はわたしが4歳の時に亡くなってしまった。高学歴で優秀な人だったと聞いている。

だから自分の人生の空回りに耐えられなかったに違いない。

そして翌日母はショックから心臓がいきなり止まり父の後を追うように亡くなってしまった。

だから、私と姉はこの時から孤児の人生を歩む羽目となってしまった。

 

こういうことから

私はアルコールを一切摂らない。それはアルコールにより父が肝硬変を患い、母の心臓が止まり私は孤児になってしまったからだ。

父と同じ道は歩まない。そう心に誓っていた。これは自分でコントロールができることだ。

でも母の心臓は遺伝してしまった。これはどうにもならない。だから自分を労わるように気を付けている。そのためか、親の年齢よりは生きながらえているのは確か。でも全てをコントロールはできていない。原因を抹消することができないのだ。

その後人生に翻弄され、境遇を呪うことなく、どうにかして幸せになろうと、どんなに自分の意志を砕くことがあっても負けまいと頑張った。そしてアメリカまで来てしまった。

子育ても諦めずに頑張れば日の目を見ることができるとひたすら信じて突っ走った。

そしてとにかく頑張ればどうにでもなると甘い考えでいたのだ。自分で人生の舵を握るようにすればコントロールできると信じて疑わなかった。

でも実際は自分のコントロール下にあったものは少なかったような気がする。

こういう子供時代を過ごしたために出来上がった性格というのも存在していてそれを克服することも簡単にはいかないからだ。(今は開き直ってます😅)

 

5。人には寿命があるから

人はこの寿命を長くすることに余念がない。

若くいることは幸福でしわなど持っての他。

老化は呪いで悪。

病気は不幸で死は最大の不幸と捉えられている。

だから一瞬でも考えることさえだめ。

実際、みんな天国には入りたいけど、死にたい人はいないのが普通だ。

 

でも誰にでも死はやってくる。

先進医学により早死をちょっとは引き延ばすことはできるようにはなった。

でもいずれやってはくる。

全ての人に。

 

健康管理が悪ければその人は寿命より早くその日がやってくるかもしれない。

でもあの画家であるモネは毎日葉巻をプカプカ吸っていたけれど、86歳まで生きながらえた。かといって生きている間にストレスフリーだったわけではない。それでも長生きだった。亡くなる数日前でさえ絵を描いていたらしい。強靭な体の持ち主だったに違いない。

 

寿命があるなら運命も存在する気がする。

 

運命はあるかもしれない

様々な問題の原因は祖先から伝わってきた生活習慣や、そのことによる遺伝子の変化や、生まれつきの気性なども関連してる。そしてその人を取り巻く環境も大きい。どの時代に生まれてきたか、どの国に生まれてきたか、どんな家庭環境にあったか、なども大いに関係がある。

だから避けようと努力をしても、交通事故もあるし、怪我もあるし、戦争もあるし、精神疾患を含む病気もある。

健康管理に気をつけていても早死にをする人がいれば適当にやっていて長生きをする人もいる。

誰でも医者になれるわけではないし、大統領になれるわけでもない。

子供の生まれつきの性格も変えられない。

自分の性格も然り。

 

それに逆らうのは大変だ。

やっぱり運命なのかもしれない。

 

ちょっと待って!

それなら、全ての出来事が運命ということ?

変えられるものってないわけ?

 

変えられる場合もある

運命のように見えるものでも変えられるものもある。

でも変えられないものもやっぱりある。

変えられると思い、変えたいなら、変えるように努力し、

変えられないものは素直に受け入れるしかない。

変えたくないのはただの頑固。(自分のことか・・・・😅)

 

確かに自分の考え方を変えることはできる。

性癖、傾向、行動も100%とはいかなくとも調整することは可能。

 

じゃあ、どうやって変えていくのだろうか。

できないことはない。

でも時間がかかるかもしれない。忍耐も必要。

スランプがあっても引き続きポジテイブに頑張れば変更も可能。

 

そう。こんな時ことポジテイブになるべきというのはわかる。

エネルギーの法則も当たっているところは大きい。

つまり

強い意志で望めば、素粒子がその方向に動くというのも事実。

でも、それは疑いの一切ない完全な信仰のようなものが前提にないといけない。

少しでも恐れや疑いがある場合は効き目がないのだ。

そしてその願う人は、勇気だけでなく実行力の人でないと効き目がない。

 全ては自分を(子供を)信じる心と(その人の)行動力にかかっている。

 

子育てに応用するなら

変えられる運命というのは人の弱点が原因のことが多い。

ということは弱点を克服できるなら運命を変えることができるということになる。

しかし弱点の克服こそが誰にとっても難しい。

子供にとってはさらに難しい。

親もなかなかできない。

それをどうにかしようとするのは本人の決断と変えようとする強い意志による。

しかしどうあがいても1日では変えられない。

 

親が子が変わるかどうかは発達段階にもよる。

理想的には、我が子でも親変えようとするのではなく、

本人が変わりたいと望むことの方がいい。

 

我が子はなかなか変わらないと親からは見えるのが普通だ。

それは成長の速度がアリよりもトロイから!😓

でも本当は親が見えなくても気がつかなくても、日々変わっているのだ。

素粒子のレベルで変化を遂げていると言った方が正しい。

肉眼では見えない部分で変わっていっている我が子がそこにいる。

親も自分で気がつかなくとも少しずつ変わってきているように。

 

つまり、この子育てを通して親子両者がほんの少しずつ変化を遂げているのだ。

それを踏まえて、もし子供も自分自身も不完全でなかなか変われない弱い人間として受け入れるなら、互いに歩み寄れるのではないだろうか。

さらに、そこには運命のようなものが存在していると思えば焦る気持ちも無くなってくるのではないだろうか。

 

運命があるとしたら、逆らっても仕方がない。

変えられない運命とは、宿命と呼ぶらしい。

でも私の個人的な意見では、両者はかなり似ている。

確かに運命があっても、その人の努力(と執念で)変えることができることは多い。

ただその人が変えたいかどうかで結果が変わってくる。

 

人は自分の過去、現在、未来の選択と行動に責任がある。しかし選択や行動の裏にある性格や弱点や傾向性は生まれつきの部分が多い。それが運命と言える。つまり宿命。

それを認識できるなら、思いやりの気持ちを持って子供達に対応することが容易になるかもしれない。

  

ドクダミママ至言

運命は自分で変えられるものと変えられないものがある。

性格など変えられない部分も多くある。

親も子供と同様に変えられない部分がある。

それを踏まえて子供のいたらない部分を理解してあげること。

たとえ今は肉眼には変化は見えなくとも素粒子のレベルでは変化を遂げているということを認識すること。

疑わずひたすら信じて、今を受け入れることが、親として日々平安を維持する鍵。

 

 

 

 

 

 

 

 

子離れは段階を経てやるもの

子離れがなかなかできないで苦しむのは母親がほとんどを占める。

子離れができない理由の一つは

親の心が未熟だからとも言われている。

つまり、癒着した心の関係がないと愛情が感じられない状態にあるから。

 

嫌でも親はいつか子供から離れないといけない。

どんなに愛していてもそうしないといけない。

でもそれは一度にすることではなくて

少しずつすることなのだ。

 

その段階は、つまり・・・

乳児期:しっかり胸に抱っこして、肌を離さない。

幼児期:下におろして、手を離さない。

少年期:手を離して、目を離さない。

青年期:目を離して、心を離さない。

(助産婦、賀久はつ氏の言葉から抜粋)

www.youtube.com

ああ、 耳が痛い動画・・・😓。

 

でも理想的にはこうやって少しずつ、子離れをしていく。

親が子離れしないと、子供にとっては’重たい親’で、そう思われたら最後、家に寄り付かなくなる。(我が家みたいに😓)

上手に子離れができる親が子供に好かれ、

ほどよい距離がある親子関係が健康的な親子関係と言える。

 

親の心は我が子のことで溢れている。

心が愛で一杯はいいこと。

でも幼い時からの「目を離さない」ことが習慣になっていて、ずっと後を追ってしまう。

目で耳でそれを行う。

常に神経をピリピリさせたりもある。

手助けをやめれない。

子供への信頼?

無理。

 

でも子供は日々成長している動物であるから親もそれに合わせて調整が必要。

つまり子育てには柔軟性が必須。

手綱をあるときは強め、あるときは緩めるというように

少しずつ子供の成長に合わせて緩める頻度を多くしていき

最後には手綱を完全に地面に下ろさないといけない。

それが親の使命なのだ。

つまり親の使命とは子供を自立させること。

 

自立しようとしている子供を引き止めているのは親。

引き止めたら嫌がれる。

それでもやめれない。

困ったものだ。

 

少年期の「手を離して目を離さない」とは 

手をつないで親が人生のガイド役になることを少しずつ減らしていく事を意味し、本人の意志を考慮することであり、本人が自分の意志で動いているときは目を離さない、ことを意味するように感じる。

 

青年期の「目を離して心を離さない」は、

心で我が子の幸福を願うだけを意味するのだと解釈できる。

目を離すとは具体的に、

1。後を追わない

2。見ない

2。いちいち今やっていることを詮索せず口出しもしない

ということ。

 

心を離さないとは、

心に寄り添っていてあげるということ。

つまりこれが遠くから見守るということなのだ。

 

子供が大きくなるに従って、一歩ずつ引いていき、成人したらかなり引かないといけない。

それが究極的の子離れ。

つまり親にとっては別れと同じ。

だから苦しいのだ。

でも子供側は親から離れる時が来ることを感覚的に理解しておりなんとも思っていないことを知っていて欲しい。

彼らは日々成長している。彼らにあるのは未来のみ。

でも親は常に子供を追いかけている。

そんなに早く成長して欲しくないかの如くに。

親は子供の成長の速度についていけないので転びながら追いかけているだけなのだ。

そしてその過程で自分を失っていく。

本当はそうではなくて親自身が個人として成長しないといけないのだ。

 

ドクダミママ至言

子離れは段階を経て行うもの。

一気にやろうとすると親子関係をこじらせることにもなりかねない。

最後は、目を離して心は離さない。

どんな親にもその日はやってくる。

それを避けることはできない。

それでいいのだ。

子供から離れることが全ての動物の運命なのだから。

そして子供を追いかける人生はやめて

自分の成長に重きをおくべき。

 

 

 

 

苦しみから逃れる方法があるのだろうか

人は生きている限り様々なことで悩み苦しむ。

人生に難題はつきものだからだ。

難題のない人生がよければなるべく危険なことを避け新しいことを試みなければいい。

そうやってなるべく何事も起こらないように暮らしていくのは確かに平和かもしれない。

それでも事件は起きるものだ。

おまけに人は大した問題でもないことでも悩み苦しむ。

問題がなければどこからか探してくる。

だから問題や難題がない人生はありえない。

そのため幸福を感じることができない。

なぜ自分はこんなに不幸なのか。

なぜ幸せになれないのか、と不公平な世を恨むこともある。

親も、なぜ我が子は自分をこんなに苦しめるのか、と言ったりする。

(子供も、なんでこんな親の元に生まれてきたのか!と嘆いたりする😅)

 

本当にそこまで苦しむ必要などあるのだろうか。

どうやったらもっと楽に生きられるのだろうか。

 

 悩まなくていいようなことでも悩む理由はなんなのだろうか。

そもそも悩もうがどうしようが事物は全く変わらないのに。

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またコスプレにゃあ〜?やめてくれにゃ〜〜!これが俺様の究極の苦しみにゃあ。😅

 

仏様が教える苦しみからの逃れ方

仏様は現生の苦しみから逃れる方法を教えられた。

つまり苦しみの根本的原因は執着であると説いておられたのだ。

ということは執着をやめれば幸せになる。

 

それではまず人は何に執着するのか。

 

こうでなければならない、というような固定観念への執着。

周りに足並みを合わせようとする執着。

人の目に対する執着。

恥への執着。

プライドへの執着。

こうなって欲しいという願いへの執着。

自分の思いへの執着。

過去への執着。

人への執着。

物への執着。

 

親は特に我が子のことになると執着をやめられない。

子供という存在への執着。

子供の進路への執着。

評価への執着。

愛情への執着。

コントロールすることへの執着。

子供への依存心への執着。

たくさんある。

その執着を捨てられずにとにかくどうにかしようとする。

 

しがみつけばつくほど苦しみが増すのにやめれない。

人は執着のかたまりなのだ。

この執着を止めれば楽になれるのに。

 

そうすれば軽くなれるのに。

 

執着心を捨てるとは諦めること?

わたしも、綺麗さっぱりとまではいかないけれど

自分の子供たちへの犠牲に対する後悔心に

彼らに対する想いに

こうあって欲しいという望みに

期待に

こうあるべきという固定観念に

彼らの将来に

しがみつくのを辞めようと日々努力を重ねている。

側から見ると、それは諦めているように見えるかもしれない。

 

しかし執着心を捨てるとは半分諦めのようだけれどそうでもない。

それは逃げじゃあないか、と言われるかもしれない。

それは望みを全て捨てたわけではない。

ただその結果にしがみつくのをやめたのだ。

その結果を完全に自分の思い通りになるように戦略を考えたりと、

とにかくあくせくとすることをやめたのだ。

やめたといっても今も時々、昔の癖がヒョイを顔を覗かせることがある。

それでも1年前に比べればかなり上達したと思う。

 

確かに努力もしないで諦めるというのはよくない。

努力をするべき時もある。

子供が特に幼い時などはそうだ。

でもその努力の後に何もない可能性に人は悩み苦しむ。

だから努力の結果に執着しないほうがいい。

 

これができれば苦しみから逃れることができる。

 

若い時は、体力もあるし、能力以上の努力も可能だった。

うまくいかなければその上の努力もできた。

それはそれでいいのだ。

でも、年齢を経ていくと、これができなくなってくる。

人間には限界があるということに気づくのだ。

親にも限界がある。

その限界内で努力し、その後はその結果に執着しないで、ありのままを素直に受け入れる姿勢が、心を平穏に保つ鍵であると気づいた。

 

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騒いでもダメじゃあ!腹をくくっておとなしくせい!(ごめんね😅)

三男のケース

我が家の三男は軍隊に志願することは諦めたけれど、その後一般企業からの不合格通知が相次ぎ、今度は他の政府関係の仕事を探すことにした。運よく海軍の一般応募の仕事を見つけ、とんとん拍子で選考過程が進んでいったが、3回目の面接で落とされた。あんなに面接の準備も万端に頑張っていたのに残念だった。これで申し込んだ仕事の総数は300はくだらないだろう。特に海軍の仕事(財務関係)はとてもやりたかった仕事だった。かなり落ち込んでいて、話を聞いてあげていてこちらまで辛くなってきた。

でも不合格の通知のあったその当日にがっかりする気持ちを振り切ってもうすでに他の仕事を探し始めていた。そして今度は警察官の仕事に応募したらしい・・・😓。

これも危険な仕事。日本の警察官の仕事とは比にならない。アメリカは犯罪国で平和な国からは程遠い。事件だらけの国。それも大きな事件が多い。それに対応するのが警察官。

アメリカの市民の中には法律に従わない人がたくさんいる。テロリストもいるし、不法移民もたくさんいるし、麻薬密売者もいるし、人身売買者もいる(これからもっと増えるだろう)。命を懸けて市民のために働かないといけない。危険な場所にはどこにでも顔を出さないといけない。事件が起きたときは体を張って市民を守らないといけない。自然災害のときにも駆り出され、逃げるのは一番最後。怪我も事故も死亡も覚悟でその仕事に就く。夜勤もあるし、いきなり出頭も普通で家に何週間も帰ってこないこともある。

おまけにこんなに大変な仕事なのに収入はその危険性や困難性に比例していないときている。ボランテイア的な要素が多いのだ、要求されている最低学歴は高卒で、大学もしくは専門学校での単位が60単位要求されているが卒業はしていなくてもいい。この仕事に息子の経済学の知識は必要ない。大学院に進みたかったけれど警官のスケジュールでは学習時間を確保することが難しいだろう。確かに警官になれば一時的に安定した収入が手に入る。でも彼の今までの夢は全て消える。この仕事について次に銀行になど入れないのだ。警察に入ったら警察でキャリアを積むことになる。長い目で見てとても懸命な決断とは映らない。

アカデミーと言って6ヶ月の厳しい軍隊並みの訓練(para-military training)もある。卒業率は20%から80%のみ。彼の健康状態ではとても危険で無理ではないかと思った。でも他に仕事はないし本人もすっかりやる気になっていてこれ以上説得することに意味を見出せなかったので、口を出すことをやめた。

この人は、こういう危険をともなう仕事に向かない人間だけれども、なぜか性懲りもなくこういう類の仕事を探してくる。

親の第六感ではこう感じている。この人は、自ら危険の中に飛び込むような性分の人で、そういう方向に惹かれてしまうタイプなのだ。彼は怪我をして下手をしたら命を落とす運命の人間なのだ。

そんなこと両手をあげて喜ぶ親などいない。

でもそんな彼の意志をコントロールしようなどということも結局子供への執着。彼の将来への執着。息子は親に向かって自分の希望を承認して欲しいので戦いを挑んできた。それにもほとほと対応するのに疲れた。だからこれも運命と受け入れ、今後の彼の人生に執着することをやめた。

キッパリとやめた。

どうなってもそれは彼の選び。

怪我を負い亡くなってもそれも神の御心。だからそれでいいのだ。

重症の怪我を負った場合、その後の彼の面倒を見るのは彼の妻。

稼いできてくれればなんでもいいと思っている甘えた考えの彼の妻が責任をとるのだ。

 

究極的に命への執着もやめた。

その決断に至るまでに、自分の親としてのエゴや様々な思いを捨てることがなかなかできなかった。でもしがみつくのをキッパリやめたら気が安らかになった。

それに選考過程で落とされる確率もあるので、させてみないとどうサイコロが出るかもわからない。運良く(親にとっては運悪く)全て通ってしまい、晴れて警察官になったとして・・親は当然心配だ。でも今更心配してもどうなるってものでもない。

だから全てを神のみ腕にお任せするしかないのだ。

この子をお願いします、と。

生きようとも死のうとも、今後にも執着しない。

親には究極的にはこれしか残っていない。

それでも、

そういう最悪の事態を考慮の上で彼の決断を受け入れることは簡単なことではない。

 

だから

手放すことは幸福への道。

しがみつくことは不幸への扉。

そうやって自分に言い聞かせるしかない・・・。😰

 (息子を持つ母親は心痛が絶えないものだ・・・とほほ😓)

 

ドクダミママ至言

苦しみから逃れたいなら執着しないこと。

できるだけ努力したら、その結果がどう出るか心配しないこと。

考えないこと。

それが執着しないこと。

子供の人生にも執着しないこと。

どんなサイコロの目が出てもそれを受け入れること。

変な期待を手放すことが幸福の道。

自分の思い通りにしようなんて考えないこと。

 

 

 

シュガーメープルマザー

家の中に缶詰になっていると誰でもイライラしてくるものだ。

自分も同じで

心も缶詰状態になってくる。

 

そんな時は

外に出て

裏庭のシュガーメープルの木に抱きついたりする。

すると不思議と涙が出てくるのだ。

それはあたかも自分の心の中の傷を癒してくれているかのようだ。

 

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(出典:https://communitytreepreservation.com/picking-the-right-tree-the-sugar-maple/

樹皮

木の樹皮は硬くてザラザラしていて荒い。

こんなに硬いのに優しいのはなぜだろう。

外側が硬いのは厳しい自然の中で生き延びるための守り。

荒いのは、試練にさらされてこうなってしまったのだ。

厚いのは、敵の侵入防止のため。

 

中身が虫などに襲われて簡単に滅んでしまうこともあるほど繊細だから外を強くしているのだ。

 

人も辛いことがあると中身は本当は優しくて繊細なのに

外側では強がったりする。

自分が環境に負けないためだ。

 

楓の木から声が聞こえてくる。

「僕たち樹木のように、傷つきやすい中身を人生の試練から守るように、皮を厚くし強くならないといけない。」と。

 

柔らかで傷もシワもない身で、

風にもさらされたことのない身で、

子育ての嵐を通り抜けることはできない。

 

だからこれでいいのだ。

ただ木のように嵐の中、雪の中、雨の中においてもしっかりと大地に立つこと。

それが母には大切なのだ。

 

メープルシロップ

外見の頑丈なイメージとは裏腹にメープルの内部は強固さだけでなく美しい木目で名高い。

そのためかメープルの家具は高値で売買されている。

 

シュガーメープルはそれに加えて甘い香りがする。

だからそれをいいことに利用しようと寄ってくる敵は多い。

 

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ミシガンのシュガーメープルから樹液をとる。(出典:https://www.mlive.com/entertainment/2017/03/10_facts_michigan_maple_syrup.html

それは

シュガーメープルからは甘い樹液が取れるからだ。

その硬い樹皮からは想像もできない甘く芳しい。

 

日中の気温が氷点下のほんの少しを上回り、夜になり氷点下をほんの少し下回る時がメープルシロップの時期。

早春の2月中旬から3月中旬が採りごろ。

でも1ガロン(約4リットル)のシロップを作るのに40ガロンの樹液を煮詰めないといけない。

収穫にも時間がかかる。

 

それでもその少ない樹液のために努力を惜しまない。

一生懸命その体の中で作った樹液。

ほんの少しでもそれが自然への愛情。

 

母の愛情もそれ。

自分の体を犠牲にして樹液を作る。

でもそれは無視できない誘惑ともなる。

利用されているとわかっていても

それを止めようとはしない。

自己犠牲。

それが母の愛情。

 

嵐の日だけじゃあない

自然は厳しくとも、

太陽が燦々と照る日もあることを忘れてはならない。

そんな日も過去にあったことを思い出し、それに感謝をして

悪天候の日には、嵐と雪と雨も実は自然のサイクルには重要であり、例えそれが見えなくとも意味があることを認めるなら、悪天候でも悪天候とは思えないようになるだろう。

 

メープルはその自然の中でしっかりと足場を固めて何年も立ってる。

日に日にその樹皮を厚くし自分を守りながら生きている。

 

何回春を迎えたのか。

何回冬を乗り越えたのか。

その間、世の中の事件は全て聞いただろうか。

 

風が吹いてなびいてもいい。

葉がみんな飛んでしまってもいい。

枝が折れてもいい。

樹液が全部なくなってもいい。

辛いことがあっても

メープルの木のように足場を固めれば

倒れることはない。

 

ドクダミママ至言

足元を固めるということは自分の精神を強くするということを意味する。

それができるなら、

メープルの木のように嵐が来ても全てが削ぎ落とされてもしっかり立っていることができる。

この世で試練を避けることはできない。

嵐を避けることはできない。

ただ自分がどうあるか、それにかかっている。

 

 

 

 

Trappedー逃げ場を失う

 

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(出典https://indianexpress.com/article/explained/key-takeaways-from-harry-meghans-oprah-interview-7219996/

月曜日の朝にオプラ・ウィンフリーによるメーガン妃とハリー王子のインタビューを見た。

その中でメーガン妃がこんなことを言っていたのが心に残った。

 

彼女は豪華絢爛な宮殿の中に閉じ込められ、サポートもろくにもらえず、孤独を感じ、

逃げ場を失い、希望は完全に消滅し、どうせここから逃げれないなら死んでしまいたい、とさえ思ったらしい。

真っ暗な穴に突き落とされて出てこれない。

そうも言っていた。

 

その話を聞いていて、そういう風に思う母親も多くいるとふと思った。

自分もその一人だ。

 

子供たちがが小さい時も

大人になっても

かれこれずっと親というこの肩書に精神が閉じ込められてしまい、

逃げ場を失ってしまっているようかのように感じてきた。

 

子供たちが家にいて甲斐甲斐しく面倒を見ているときは、

精神的のみではなく物理的に閉じ込められていると感じていた。

でも今は、精神的に逃げ場がないと感じている。

そして生きている限りは逃げれない、と認める羽目になった。

 

それは子供のことが頭から離れないからだ。

だから今は半分諦め状態。

できることは子供のことが頭を過ぎったら、すぐに他のことに置き換えるだけ。

ただどんなに頑張っても完全に脳裏から彼らのことを消すことは無理なのだ。

 

だからサポートが必要なのだ。

 

じゃあ実際、母親にはどんなサポートがあるのだろうか。

ママ友と話すとか?

買い物をするとか?

カウンセリングにかかるとか?

でも何をしても完全に解き放たれた気分にはならないのが母親。

 

親になることは素晴らしいと言えるのはずっとずっと後になってからの話。

子育て中に、そういうことはなかなか言えないものだ。

でももし言っている人がいるとしたらそれは半分嘘に違いない。

または、そうありたいという希望的観測のもとに言っているのだ。

 

母はたとえ自分の心が折れっぱなしの状態でも子育てを続けないといけない。

メーガン妃も、心が折れたままだった。

でも顔では笑って時をしのいだ。

それが周りから期待されている行動パターンだからだ。

そういうことができる人を人格者と呼び

そういうことを常識とも言う。

常識に従える人を立派とも呼ぶ。

 

母も、作り笑いをして、その場その場をごまかし生きていくのが運命。

暗い顔をされると周りは迷惑だし、子供にも良くない。

だからどんなに心の中が不幸でも、幸福そうに笑って過ごさないといけない。

それが常識。

それができない女性は人間的にダメと罵られたりもする。

ネット上でも母親に対するバッシングは増えることはあっても消えることはないことから、やはり社会全体がそういう厳しい目でわたしたちを裁いているのは明らかだ。

 

すでに折れかかったヒビの入った我が心を修復するのは難しい。

うちの子供たちは皆家を出て一緒には住んでいない。

一人はハワイに、一人はアリゾナに、一人はイリノイに、そして一人だけで同州にいる(40分ほど離れたところに)

 

物理的距離は精神的距離につながると期待していたけれど100%そういうわけではなかった。

確かに同じ家にいるよりは楽だ。

それでも子供のことを考える。

これが母の運命。

 

そんなことを子供たちは知らない。

わたしの子供たちはなぜ母親が子離れができないかその理由を知らない。

ネチネチとしつこくうるさい親だと思っているようだ。

 

それをわかっているから当然あまり連絡を取らない。

自分は邪魔者。

彼らの世界からさっさと消えた方がいい。

 

母は子供の幸福を常に願うもの。

でも最近はそれもどうでも良くなってしまった。

そういう風に思うことを公共で(ブログで)大声で宣言することもいとわなくなった。

つまり人になんて思われようとそんなことはどうでも良くなったのだ。😅

 

彼らに幸福が訪れようが不幸が訪れようがどうでもいい。

母にはそれくらいのエネルギーしかもう残っていないのだから。

 

逃げ場を失った母はもう何かを望んだりと、そんなことさえおっくうになってしまった。

メーガン妃の言葉は心に染みた。

みんな大変なんだ。

 

番外意見だけど・・・

とは言っても、宮殿の中で悩んで死んでしまいたいなんて言っているのは甘えであるという厳しい意見もかなりある。確かにずっとキャンプ生活の難民の苦しみに比べれば、笑える話だ。ハリー王子の11歳で母を失った、なんていうことも大したことではない。東日本大震災で家族みんなを失い、友を失い、仕事を失い、お金も失い、街も失ってしまった人から見ればそれこそ「何を言っているのか」ということになる。

母国が戦地になり目の前で家が爆破され家族がテロリストに殺害された子供もいる。これこそトラウマ。コロナ禍により仕事を解雇になり、食べることもままならなくなり、食事は二日に一度、それもクラッカー一枚とか、そしてホームレスにもなるケースもある。その人たちから見たら、宮殿に住んで何を甘ったれたことを言っているのか?という意見に同意できる人は山ほどいるだろう。

 

彼らは現在、英国の王室から生活費はもらっていない。

ダイアナ妃からの莫大な遺産があったからこの現在の豪邸を買えた、ともハリー王子は言っていた。だからもらったのは’それだけ’

それで使ったのはそのうちサンタバーバラの豪邸の費用に

$17,7 million(1,593,000,000円)’だけ’とか・・・。😅

 

あの〜。’だけ’って簡単に言うけど、それってすごい金額😅・・・。わかってない。

ついでにハリー王子を守るためのセキュリテイー費を王室が払ってくれないから文句を言っていた。すでに彼らは英国の公務から退いているのだから、いただける権利はないということを彼らはわかっていない。米国に移り、普通の人として、経済的に自立して生きていくと発表したのは他でもない彼ら。息子のアーチーに王子という称号がないことにも文句を言っていた。あれ?普通の人になるんでしょ?それならそんなものはいらないでしょ?それにアーチー・ハリソンなんていかにもハリウッドの名前みたい。王子になってもらいたいならまず王子らしい名前をつけるべきでしょ。

要するに、国のための責務は果たさず自由に別国で生きたいけれど、王室の恩恵は受けたい、セレブのままでいたいというわけだ。ちょっと、それって望みすぎってもんじゃあない?そもそも王室は国民の税金により機能しているのだから、税金を払っている国民のために仕事をしない人に特別扱いなどできないのだ。わかってない!

世の中にはもっともっと大変な人がごまんといるのだ。苦しいって、毎日至り尽せりで、物理的には困っていることは何もない

世の中には物質的に困窮し、なおかつ精神的にも追い詰められている人がごまんといるのだ。

それに伝統の英国王室にお嫁入りしてアメリカのやり方を押し付けるな!(こういうところがいかにもアメリカ人!)

 

あああああああ。

やっぱり彼らにはわかっていない。😰

自分が世界で一番大変なのだというその妄想と姿勢がよろしくない。

そもそも、トランプ大統領だって嫌なくらいゴシップの種にされていた。キャサリン妃だってそう。でもそんなことを気にするようでは有名人にはなれないのだ。結局メーガン妃は繊細な女性なのだ。敵の陣地に自ら乗り込んでいったのは他でもない彼女。そこで生き残るか滅亡するかは一重に彼女の精神の強さにかかっていた。

差別されるしゴシップの種にされるなど誰もが分かっていたのに、本人だけが分からなかったのだろうか。まずそういう家庭にお嫁に行った自分の浅はかさに呆れた方がいい。タブロイドにけなされるのは有名人なら普通のこと。

彼らは人のために生きたいと言っている。けれど、本当に他の人にために生きると、自分の問題やゴシップなど気にもならなくなるのが普通。大体そんな時間もないし。

メーガン妃とハリー王子は本当に人を助けようと思っているのだろうか?

 

セルフ・コンパッション

所詮、人は自分が一番で自分が世界の中心。

「人のため」と言っても本当は「我がため」で生きている人がほとんど。

子供もそうかもしれない。

自分が全て。

 

でも親は違う。

親は子供のために生きている。

そしてその役目に終わりはない。

 

ハリー王子とメーガン妃は王室から逃げられたけれど(ゴシップからは逃げれない😅)、

親は逃げられない。

それが親の運命なのだ。

 

その運命を受け入れ逃げないで頑張っているわたしたち親はすごいのだ。😁

だから褒めてあげよう!!!!

わたしが神様に捧げられるものは何もない。

この子供達への犠牲のみ。

これを持って、義として欲しい。

確かに完全な母からは遠かったけれど

逃げずに留まり耐えたことだけでも褒めて欲しい。

そして頑張ったけど期待通りに行かなかったために落胆する自分自身をも、慰めてあげようと思う。

 

過去には戻れない。

未来もわからない。

あるのは今だけ。

だから今この時、自分自身に

「がんばったね」

「仕方がないこともある」

と言ってあげたい。

 

セルフ・コンパッション。

自分自身に対するあわれみや同情心。

大切だと思う。

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(出典:https://www.tillysnest.com/2020/11/geo-bird-cage-the-parakeets-get-a-new-home/)

かごの中の鳥。

自由を失われたかのような人生。

それでも精一杯美しい歌を歌うことができる。

それは今いるそのかごの中で精一杯生きること。

それによって、かごの外にいる他の鳥を幸せにしてあげることもできる。

その生き方も間違っていない。

 

ドクダミママ至言

閉じ込められて逃げ場を失っていると感じている母は多い。

かごの中の鳥のような状態。

それが苦しいと思うことも多い。

でも、

自分の置かれた境遇に幸せを見つけることもできる。

じっと耐えることも必要な時もある。

子育てがその一つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゲーム中毒のピーターパンたちよさらばじゃ〜〜〜!

昨今の男性の問題。

それはゲーム中毒、またはゲーム依存症。

結婚しても続けている人も結構いるらしい。(離婚の原因になっている!😰)

要するに子供を卒業できない人。

ピーターパン症候群(大人になりたくない病)というのだ。

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https://gigazine.net/news/20150129-game-addict-boy/

 

gigazine.net

 

うちにもゲーム大好きな息子が二人。

一人は中毒。

もう一人は中毒ほどが行かないけれど今も時々するらしい(本当のところはわからない)。

 

それで家にいる時は当然親からごちゃごちゃと言われていた。

 

ゲーム中毒になると

前頭葉の発達が遅れるという研究結果も出ている。

それは、理路整然と考える能力や自制する能力が下がることにつながる。

だから忍耐に欠けすぐに切れる人間が出来やすい。

機械にへばりついているからコミュニケーション能力も発達しない。

ついでに背中が曲がり、視力が下がり、と健康にも悪い。

こういう依存症の人は部屋も掃除しないし、生活態度もめちゃくちゃが多い。

だから親は子供に注意をするのだ。

子供から見れば「やりたいことをさせてくれない意地悪な親」かもしれない。

ヘリコプターペアレンツかもしれない。

でもそれにはこんな真っ当な理由があるのだ。

(わかったか!!!!💢)

 

つい最近三男からまた兄弟でゲームをした(何時間も)という話を聞いた。

それで三男にふたこと。

仕事探しで多忙なのによくそんな時間があるわね〜。(嫌味😅)

朱に交わるとあかくなるから気をつけたほうがいいよ〜。(本当だよ😤)。

 

そもそも主催者の’元次男’はつい先週29歳になり、キャリアもなく、その日暮らしの生活。
典型的な負け組男性。

そんな状況で、どうして平気な顔をしてゲームを楽しめるのかその精神が全く理解できない。

’おおらか’なのか’愚か’なのか。😅

呆れてものが言えない。

やはりしっかり稼ぐ妻がいるからか。(こんな男と結婚したい女性が世の中にいるってことが信じられない!でもまあ彼の面倒を見てくれているので感謝でもある。)

 

有能な人というのはそういうくだらないことをしないものだ。

(くだらない理由;やっても健康にならない。ゲーム以外の知識は身につかない。収入も増えない(稼いでいる人もいる。上級までいけばの話)。ほぼ人助けにならない。処世術も学べない、など)

でも全くしてはいけないとは言わない。

自分のなすべきことを全部終わりにしてからしたらいいのだ。

でも彼らの言わんとするところは、

なすべきことはストレスが伴うし、どうせ頑張っても終わりにはならない。

だからなすべきことを無視して遊ぶ。

唖然。😓

 

そもそも優先順位にちゃんと従える人なら最初から中毒になどならないのだろう。

やるのはやっぱり現実逃避のためだ。ドパーミンがガンガンと出るからだろう。

 

誰でも逃避したい時などある。

でも成功している人は何に逃避するかが違う。

私の知り合い(男性)はストレス発散のために仕事の後にスイミングに通っている。

呑み屋ではない。

彼に言わせるとなぜ不健康の要因になることにお金と時間を浪費するのか、だった。

確かにそうだ。

運動すれば呑み屋に行くのと同じくらい、ゲームをするのと同じくらいドパーミンが出る。

だからストレス発散になる。ついでに健康になる。

一石二鳥!

運動の方がよっぽど利点があるじゃあないのお?

ごもっともな意見だ。(彼は真っ直ぐな背筋と引き締まった肢体とはつらつとしたオーラで、どこから見てもすごくかっこいい!背骨を丸めてゲームをやっている男性など女性から見ると自信に欠如していて全くかっこよくない!だから女性からもてたかったらゲーム中毒はやめたほうがいい!)

 

わたしには弟が二人いる。

二人とも会社経営者。

彼らがうちの息子たちのような生き方をしたことはない。

子供の時から人間の種類が違う。

 

弟は時間は自分の仕事の改善もしくは人間性の向上のために使っている。

だらだらとしたネット鑑賞もない。

当然ゲームなどする時間はなし。

エンタメ的な役に立たない本は読まない。

芸能人の噂など目も向けない。

常に社会経済のことに目を光らせている。

趣味は魚釣。でもそれは仕事のお得意さんと行くから仕事のうち。

魚も獲れるから食費が浮く。

つまり生産性のあることしかしないのだ。

だから弟も昨今の若い人に(自分たちの息子たちも含めて)呆れる始末だ。

 

わたしは’元息子’に今年は連絡を取らないのが目標だ。でも3月4日は誕生日だったので、夫からおめでとうと言ってもらった。当然夫からのメーセージで私はCCに入っていない。

でもお祝いにほんの少しだけお金を送ってあげようかとすでに小切手を準備していた。

しかし、これにてキャンセル。😰

彼は関取になれるくらい太っている。それなのに、食べることを止めようとしない。ストレスから食べるらしい。ストレスの原因は人生が空回りしているから。その現実から逃げるために食べる。ゲームだけじゃあない。彼の活動の基準は全て現実逃避。

大学生の時もずっとネット中毒。そのため成績が悪い。よってまともな仕事が見つからない(今に至っても)。それなのにいまだにネット中毒。やめれない。

つまり彼のすることは全て一時的に精神を麻痺させること。そういう人に送金することが果たして意味あることなのだろうか。

こんな余計な入金があればまたピザでも頼むのだろう。それでそのピザを食べながらゲームをやるのだろう。

それが見えている。

だから送金はキャンセル。

小切手は破り裂いて暖炉にくべた。😅

 

なぜ男性はこういう方向に行きやすいのか

男性というのは危険を犯す人種でしょ?

それなら、どうせ危ないことがしたいなら、利点ゼロの危険活動はやめて

現実的な恩恵のある株式投資でもしろ!と言いたい。

こっちの方が同じくらい怖い。それか軍隊にでも入って戦争にいったらよろしい。

どうせ殺人ゲームをするのが快感なんでしょうから、

いっそのこと本場で活躍したらよろしい!

 

こういう人間のために自分の人生を無駄にしたかと思うとムカムカしてくる。

我が子といえど可愛かったのは昔の話。

そうやって犠牲を払い続けた自分の人生を虚しく感じる。

なんで自分はこんなバカなことをし続けたのか、と思うと

自分嫌悪に陥る。

う?待てよ?

ということは・・・もしかして息子より自分の方が愚かだったということかしら?😰

 

こんな人間のためにはどんな犠牲も意味なし。

どんなにその巨体の中には素晴らしい魂が宿っていると分かっていてもその生活態度を見る限りでは、そんなことは信じられなくなってくる、というものだ。

 

これを読んで嫌な気がしている元子供だった方、

悪いけどこれが世界共通の母の本音。

 

今子育て真っ最中の方、

必要以上の犠牲に意味なし、今すぐやめるべし。

 

今わたしと同じ状況にいる方、

ピーターパンは見捨てるしかない。

彼らの上に雪崩でも落ちてこない限りはピーターパンに将来はない。

私は、雪崩でも、竜巻でも、水害でも、ハリケーンでも、火山爆発でも山火事でも大歓迎。

願わくば、息子たちの住まいの真上にそれが直撃するように。😅

 

その日が来る時を楽しみにほくそ笑みながら待とう。😅

 

ドクダミ至言

ゲームをやめない息子は条件を出して親がゲーム時間をコントロールすべき。

でも一切協力してくれないなら諦めるしかない。

成人しているなら家を追い出すべき。

どうしようもない状況に陥ったら人生を変えようと努力するかも。

最後に、自制の効かないピーターパン症候群は軍隊にでも入れて鍛えてもらうしかない!

 

子供を信頼するって可能なわけ?

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ミシガン、日曜日の正午。この青空と光が希望の春と変化の春を約束してくれているのだ!😁


あなたは我が子を心から信頼できますか?

 

これは多くの親にとってかなり難しい。

この道の専門家がいくらそうしろと言っていても。

 

わたしはどの子にも当初は信頼して任せた。

それが正しいと思ったからだ。

人はそれぞれ自由意志を行使する権利がある。

その権利を取り上げるつもりはなかった。

 

でも

長男は信頼を裏切り

次男も信頼を裏切り

残りも多少は裏切りがあった。

 

そういう経過があったことから我が子を信頼しろと言われてもかなり無理がある。

それは理想であって現実とは異なるのだ。

だから今でも(とりあえず)

子供の選びに任せている(親の勧めを聞かないので仕方なく)けど

100%信頼しているかというとそれは違う。

 

実際彼らに言わないけれど心の中で思っていることはこれに尽きる。

 

信頼しているふりをするしかない(50%だけの信頼だよ〜〜〜〜!😅)

かなり危険だけど、本人の選びなので犯罪でない限りは止めない(鬼になって😰)

その危険な賭けのような選びに経済的援助は当然あげれない。(当たり前だよね〜😅)

信頼していたのに裏切ってくれて、その結果人生が狂っても何の援助もできない。

我が家の経済状態と親の健康状態を考慮するならそこまではできないのです。😰

 

我が子を信頼するとは理想的で本当にこれができるなら越したことはない。

心ではそうしたいと思っている。

 

でも親も人間。

再度がっかりしないために自分を守る癖がついているようだ。

 

ただ親ができることは

今は危なっかしくても完全には信頼できなくとも

いつかはどうにかなることを信じることのみ。

そのいつかは本当にいつだかは親には予測がつけられない。

ただその日は必ず来るとひたすら自分に言い聞かせるのみ。

すると本当にその日は来るように感じてくる。

 

その日は親がこの世を去った後かもしれない。

それでもいい。

その日が来るなら。

 

変えられる状況と変えられない状況。

我が子の変えられそうもない状況については自分以外の力にお任せするしかない。

変えられるならその日が確実に来ることを願うのみ。

 

つまり我が子を信頼するのではなく

変えてくださる万能の神様を信頼するしかないのだ。

 

親は我が子を変えようとあくせくするのではなく

自分の人格の成長に重きを置くことがより重要になってくる。

 

誰も子供を含めた他人の人生に責任はない。

わたしたち親も子供の人生には責任はないのだ。

自分の生き方のみに責任がある。

 

それでも親の心から子供のことが完全に消える日はなく

わかっていても切り離すことが難しい。

 

だから任せればいいのだ。

親に全ての責任があると思わずに

ただ任せる。

大きな宇宙の力に

神の慈しみに

我が子の底力に

 

そうすれば軽くなれる。

今日の春の日ように。

 

春はやってくる。

必ずやってくる。

だから心配しないで。

今日だけでいいから。

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今朝ダフォデイルの芽が顔を覗かせていた!ダフォデイルの芽は春の知らせ。

 

ドクダミママ至言

完全に我が子を信頼するのは誰でも難しい。

でも完全な神様に信頼を委ねることはできる。

子供を変えようとするのではなく

まず自分を吟味して変えようとする努力の方が重要。

 

他の人を変えることなどできない。

自分の事だってもなかなか変えられないのに他人のことなど甚だ無理がある。

だからそんな努力は無駄。

 

親ができることは

期待に応えられないそのままの我が子を受け入れ

残りは大きな力に任せること。

そうすれば心が軽くなれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もう(子供に)振り回されたくない😭

子供のことで振り回される理由は

親がいつもその子供のことを考えているからに他ならない。

そして’振り回されている’といった受け身の表現は親の心が自分の意志とは反した状態にいることを意味しており、そのことにより親は苦痛を感じていることが言葉の裏に隠れている。

 

もしそこから解き放たれたいなら、

苦痛の原因であるその子供のことを考えないようにしないといけない。(当然?😅)

でもこれは母にとってかなり難しい課題だ。

けれども全く不可能というわけでもない。

 

どうやって考えないようにするか・・・。

それは色々ある。

今回はその一つについてお話ししたい。

 

頭の中の状態の把握

まず最初に、

自分が子供のことを考えていることに気がつかないといけない。

つまり、自分の「思考の景色(mental landscape)」がなんであるか認識しないといけない。

 

二番目にこれが一日に何回起こっているかインベントリーをつける。

 

三番目に、一日に何分、または何時間くらい子供のことを考えているかおおよその総計を割り出す。

 

そしてこれをやめる。(そんな簡単にできない・・・😢)

 

切り替え

自分の子供のことが頭から離れず心痛が絶えないなら、

それをやめたいなら

それを他のことに置き換える。

つまり

切り替えをする。

切り替えになるような他のことを考えるようにする。

 

子供のことを考えないようにする、ではなくて

他のことを考える。

 

なぜこうしないといけないのか。

それはこういうことによる。

子供のことを頭から追い出しても結局そこに隙間ができたことになり、その隙間にまた子供のことが直ぐに侵入してきてしまうからだ。

思考の癖になっているのだ。癖になるとその自分の思考の奴隷になってしまう事になる。

思考があなたを操り、コントロールができない状態に陥るのだ。

だから全く違うことを考える事によってこの思考パターンを変えることができる。

 

母親の人生は子供を中心に回っていると言っても過言ではない。

実際、母の心から我が子のことが消える日はない。

でもこれはストレスの原因。

そしてあまり意味がない。

それは母が考えても考えなくても子供にはほとんど影響がないからだ。

(無駄なことだよね〜。わかっているけどやめられない?)

 

他のことを考えるようにする前にすることがもう一つある。

それは

思考を一旦止めること。

 

自分の思考が同じパターンに陥った時にそれに気付いたらストップ!

そして思考を一旦止めて、

その後、他のことを考えるようにすれば苦悩から離れることができる。

 

振り回されたくなければ、自分を苦しめる人間のことを考えてはいけない。

幸せになりたければ、自分が幸せを感じることを考えないといけない。

幸せになるような思考パターンに変えないといけない。

 

あなたが幸せを感じることとはなんだろうか?

それをすればいい。それを考えればいい。

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うちのニャンタ。子供のことは考えずに猫のことを考える。ああ幸せ〜〜〜〜!でも実は猫を見つめていても猫のことは考えてはいない。思考が止まりただひたすら頭が真っ白になるという感じ。😅

要するに振り回される人生に終止符を打ちたければ、考え事をやめるべき、とニャンタが教えてくれている。う〜ん。これはニャンタの悟りに違いない。


ドクダミママ至言

子供に振り回されたくないなら、子供のことを考える時間を最小限にする。

1。まずは自分の思考の癖を認識する。

2。そしてそれに気づく練習をする。

3。すると子供のことが頭によぎったときにすぐに気がつくようになる。

4。気がついたら一旦思考を止める。

5。その後、別のことを考えるようにする。

6。習慣になるまで練習。

 

持続は力。

努力は人を裏切らない!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハリネズミをどうやってハグするか

 

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可愛いハリネズミちゃん!うちの子供たちもずっと前はこのくらい可愛かったし、ハリもなかった。それなのに、今は見るに見られぬ姿に変貌!

(出典:http://www.7651122.com/exotic/pg199.html

 

子供が難しい年頃(要するに反抗期:今は反抗期は25歳後まで続くそう😰)の時は

とてもハグしたい気分になどならないのが普通の親。

だって

子供の身体中からハリが出ていて、そのハリに刺されたら痛いですもの。

 

彼らはハリネズミ。

 

子供の出すハリとは、

暗いオーラでもあり

暴言でもあり

そのなんとも言えない怖い目つきでもあり

乱暴な態度でもある。

 

なぜハリを出すのか。

それは敵を寄せ付けないため。(またはストレス、ホルモンの変化等でもイライラしている)

敵とは親のこと。

ごちゃごちゃいう親は彼らにとっては敵なのだ。

それが彼らの親離れの方法なのだ。

 

当然、

誰もハリネズミのそばには寄りたくない。

ハリネズミをハグするなんて到底無理な相談。😰

 

でもこんな時こそしないといけないのかも。

それが親の課題であり使命でもあるのかも。

 

だけどね〜〜〜。

それはかなり難しい注文というもの。😰

 

なぜなら・・・

そばに寄ったら必ず怪我をするから。

 

対応法

それが嫌なら遠目から見ている方が賢明。

遠目から見るといくことは

陰ながら見守るということを意味する。

それは子供を信頼するということでもある。(不可能?)

余計なことは言わないということでもある。

 

そして

どんなひどい態度でも

どんなひどい言葉をかけられても

(嘘の😅)笑顔で臨むのが一番。

 

私の笑顔はこのハリネズミを撃退するための武器。

ハリなんか全く通らないくらい頑丈な胸当てだと自負している。

我が家の子供たちによると

わたしのこの笑顔の対応は

怒鳴られるより怖いらしい。

 

そもそも親が何を言っても無駄。

彼らが最初にしないといけないことは内省。

でも親がごちゃごちゃいうと内省ができないのだ。

自分で考えさせないといけない。

でも親が口出しすると頭が混乱してきちんと考えられなくなってくるのだ。

だから黙るのみ。

そしてニコッとする。(あくまで作り笑い😅)

 

どんなに悪態をついても母の愛が欲しい彼ら。

それはわかっている。

でもやっぱり本当のハグは今はできない。

それなら心でハグをすればいい。

 

ハリネズミをハグするとは

自分を防衛しながら

我が子の魂をハグすること。

 

乱暴な言葉や態度、つまり’ハリ’は自立したいけどうまくできない自分自身へのフラストレーションの現れでもある。そんな言葉や態度とは裏腹に綺麗な心の持ち主であると見てあげること。

それがハリネズミをハグするということ。

そのような心持ちで子供を見てあげれば自然に笑顔もこぼれてくるのではないだろうか。

 

ドクダミママ至言

ハリネズミのように一見可愛い(可愛いかった)けれど、ハリをバンバン出している我が子には要注意。

必要のない限りそばに近寄らないこと。

喋りかけないこと。

いろいろ詮索しなこと。

要らぬお節介を焼かないこと。

 

することは

相手が望んでいるなら黙って話を聞いてあげること。

ひたすらニコニコすること。

演技で。😅

演技が無理ならお笑い番組でも見て一回爆笑してから実践。

そして子供の態度と言葉だけで裁かないこと。

内側にはきれいな心が存在していることを忘れないこと。

(かなり大変だと思うけど・・・😅)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子供の心は親には察しがつかないことが多い

ネットでこんな反省させられるような動画があった。

子供ってやっぱりこんな気持ちなのだなあ、と思わせられた。

www.youtube.com

子供は本音を口に出しては言えず、ただ抱えるだけで苦しんでいる部分が多いのだろう。

それをわかってあげれないのは親の力量の足りなさであるのだ。

本当は子供が全部悪いのではない。

 

息子

自分には’元息子’扱いしてあだ名呼びしている息子がいる。

彼の扱いは生卵を扱うときのように気をつけないといけない。

ちょっと間違えれば粉々に割れてしまう卵が息子。

でも、その卵を上手に扱えない親である自分もそこにいる。

仕方がないので接触を避け、そばに寄らないようにしている。

 

そんな風に親から思われていることを彼は知っていると思う。

そんな風に遠ざけて扱わないといけない現状に対しても悲しいという思いはある。

でも

彼の人生への口出しをやめて子離れを完了させるためにはそれしか方法がないと感じているから、今はそれしかできることは考えられないのだ。

 

放っておいて欲しいというから放っておいてあげるけど、

彼は内心見放されているとも思っている。

でもそれは、親は苦しいからそれしか方法がないからそうしているだけ。

互いに傷つけ合うのは嫌だから。

それを彼はわかっていないと思う。

 

でも多分

我が子の言いたいことはこの動画の男の子の言っていることなのだと思う。

 

彼はそれなりに努力をしている。

その’それなり’が親の目から見ると’イマイチ’で

もっといいやり方があると思えるからついつい口出しをしたくなる。

 でも息子は聞きたくない。

だから放ってあるのだ。

それなのに、そのどうぞお好きに、という態度はつまり見放しに取れるらしい。

 だったら親はどうしたらいいのか?

 

多分、彼の言いたいことは、

’自分なりに’考えて頑張っていると言うことなのだろう。

だから黙っていて欲しいけど、認めても欲しいのだろう。

 

親はどうしたらいいのか😢

親子関係は複雑。

感情が激しくぶつかり合う世界。

愛と嫌悪感が同時に存在する世界。

 

どんな状況にあっても我が子を愛していることを伝えるって難しい。

子供の口から出てくる言葉は本音とは違うって、

乱暴な言葉や態度の影には繊細な心が潜んでいるって、わかっているけど

忘れてしまうのが親。

 

そんな時は一瞬目を伏せて心を沈ませることは大切。

そして我が子に対する忍耐も愛情も足らないこの自分を変えてください、

と神様に願うこともいい。

 

言葉かけの方法という技術的な事は左の脳でやること。

変えることは可能。

でも、子供の心に語りかけるには

小手先の技術ではなく、親の心が変わらないといけないのだと思う。

真に、親が「愛の人」にならなければそれは子供には伝わないのだ。

 

ドクダミママ至言

親は子供の態度や言葉に振り回されてしまう嫌いがある。

でも子供の内心は言葉や態度とは違うことが多い。

その見えない部分を読み取ることが親の課題。

 

 

かわいい娘にも旅をさせよ

娘がアリゾナに引っ越ししてからかれこれ6ヶ月半が過ぎようとしている。早いものだ。

一人で悪戦苦闘しているらしい。よって例の遅い反抗期はほぼ完全に終了した。

やった〜〜〜〜〜〜!

 この悪戦苦闘で一番成長したと思われる事件は交通事故とその後の始末だった。

   

娘の交通事故

娘が10月に交通事故に遭い

https://hahagyo-rakudai.hatenablog.com/entry/2020/10/18/020614

怪我はなかったものの車体が凹み傷だらけになってしまった。

とりあえず運転には差し支えがないので忙しさにかまけて修理に出していなかった。

その後、親にうるさく言われてやっと修理店に持っていった。

当初の見積もりは$3000。

でもその後なんと!

上乗せされて$6000にいきなり変更!💢

なんで二倍なの???

嘘でしょう????

 

こういうことはアメリカではよくあることだ。女性、特に若い女性が修理に出すと上乗せされる。「どうせ女は車のことなんかさっぱりわからない馬鹿。だからサバよんで騙しとってやる」的な詐欺行為が多いのだ。

こういうこともあるからあらかじめ誰でもいいから男性を連れて行きなさい、と言ってあったのに、

なんと親の勧めを無視して一人で行った!

よってこの結果。😰

 

保険会社からは、そんな高い修理費なら修理代は払わないと言われた。

ということでその車はお払い箱にして中古車を買うことにした。

その後、あるデーラーシップの広告で$4000ドルのトヨタプリアスが売りに出ていたので、早速見に行ったらしい。またしてもたった一人で。

 

ところが娘が登場するなり、

いきなり金額を$9000に吊り上げた。

まただよ。😰

 

娘は一瞬たじろいたが、こう答えた。

「広告に$4000と出しておいて、いきなり金額を変えるなんて!詐欺行為って気がついてないわけ?そんなことしてよくビジネス続けていられるわね!!!!!ふざけんな!」

 

慌てたセールスマンは

「まあまあそう怒らないで。じゃあちょっと交渉にのってあげるから。そこに座ってね。(ウィンク、ウィンク)」

・・・なにこれ?半分子供扱い?それとも誘惑して売りつけるつもり?

優しくすればどうにかなると思っているというところが気に食わない!

 

あきれた娘は

「結構です。二度と来ないわこんな店。

女だと思って馬鹿にして!ふん!

と捨て台詞を吐き店を出た。

 

これがアメリカの常。

だから次からは男性を連れて行くと心に堅く誓ったそうだ。

その男性だけど、車のことがさっぱり分からなくてもいいのだ。

迫力ゼロでもいい。

見かけが男性だったらなんでもいい。😅

 

隣に立っていてくれるだけでこんなことは起こらない。

結局、アメリカだって男性社会。

女性はか弱いと思われているし(メカに弱いと)馬鹿にしている男性も結構いる。

こんなのに負けてはいられない、とは思ってもこれが社会で普通に通っているのだから

上手に世渡りをしないといけない。

 

こんな経験を積み、娘はかなり強くなり、自信がつき、大人になっていった。

そのせいか、クリスマス休暇に戻った時も反抗的な態度は全く見られなかった。

 

苦労して初めて親のありがたみがわかり謙虚になるというのは本当の話。

今後もいろいろ起こると予想しているけれど、何せ遠くにいるので助けられない。

できることはアドバイスだけ。

だから遠くにいるくらいでちょうどいいのだ。

 

でも・・・

どんどん自立していって誇らしいけど、

なんとなくこれじゃあ、結婚とかずっと縁がない感じがする。

コロナも収束がつかないから顔を合わせるのは会社の同僚だけ。

でも彼らとは付き合ってはいけないという社内規則もあるし・・・。

まず強すぎて男性がそばに近寄らなくなるような予感がしてならない。

 

でもそれも本人の人生。

親が口出しすることでもない。

黙って見守るしかないのだ。

一人が寂しくなれば結婚も考えるかもしれない。

(今のところそれは地平線に全く見えないけれど・・・😅)

 

娘は親のことなど頭にもよぎらないようで人生を謳歌している。

そんな娘が眩しい。

(母親の誕生日にも連絡がなかったところを見ると完全に忘れられているよう😅)

でも親はやっぱり娘に会えなくて寂しいと感じている。(かなり慣れてきたけど・・)

特に今アルバムの整理をしていて天使のように清らかな娘の写真を見ては胸が締め付けれられる思いがする。

 

親とはみんなこんなものだなあ〜〜。

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うちの愛娘、6歳半。親が溺愛していた時代(変貌のずうっとずうっと前の話😅)。

ファッションに興味なし。人形で遊だこともない。好きなものは自然と動物。素直で良い子の模範。(今は別人のよう・・😰)

 

ドクダミ至言

我が子が本当にかわいければ

立派になって欲しければ

巣から出し

自分で経験をさせることも大切。

そもそも手元に置いておきたいのは親の方の利己的な望みでしかない。

自分の人生を生きることを許してあげることが子供を愛すると言うこと。

なぜなら愛とは犠牲と苦しみが伴うからだ。

 

 

 

 

 

膝小僧をすりむくこともいい

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転んで泣く子供(出典:https://buzzap.jp/news/20201220-aka-chin-end-manufacturing/

おっちょこちょいで運動神経の鈍いわたしは子供の時によく転んで膝をすりむく事が多かった。

母は仕事をする女性だったので、手当ては最初だけであとは自分でやることが多かった。

4歳から自己責任なんて〜😰と思われるかもしれない。

でもそこから学んだことは多かった。

 

つまり

転んで血が出て痛いので、次からは転ばないように気をつけるようになった。

また全く転ばないことは避けられないので、その場合の自分の体の守り方も身につけるようになった。あまり必死になって防御しようとしないことが怪我の大小に影響すると学んだ。つまりそれは、力が入り構えると、かえって怪我がひどくなる確率が高いということだった。

 

実にこれは自分の欠点とどうやってうまく付き合っていくかを教えてくれた生きた学習だったのだ。

そしていくら泣いてもその痛みをどうにかしてくれる人は誰もいないことを学んだ。

そこから自分の失敗は自分で後始末をしないといけないことも学んだ。

 

こういうことから膝小僧をすりむくこともいいことだということが分かる。

 

生きていると様々な時に膝小僧をすりむくことがあるものだ。

それは避けられないことでもある。

そんな時、親がのこのこ出ていかない方がいい時もある。

ただいつ出てきてよくていつ隠れていた方がいいのか、その違いを識別することが結構むずかしい。

それは子供にもよるし、年齢にもよる。

 

危険だからと、あらかじめ砂利を全て履いてしまうこともできる。

砂利のないスムーズな道を選ぶこともできる。

転んだときのためにもっと安全で柔らかな地面を選んであげることもできる。

障害物がないところを勧めることもできる。

でもそれでも不安ならいっそのこと家に閉じ込めて外に出さないという手もある。

ではそこまでやっても

果たして安全を保障できるのだろうか。

 

そもそも、それは愛とは呼ばない。

子供を守っているようで子供の人生を取り上げていることになる。

 

結局

100%安全なんてないのだ。

生きていれば怪我はある。

 

いずれにせよ、

膝小僧をすりむくことくらいなんてことはない。

人は小さな膝小僧の痛みを繰り返しを通して成長していく。

大きくなるとはそういうこと。

 

それを踏まえて子育てに臨むことが心の不安を取り除いてくれるのではないだろうか。

子育て中の親のすり傷も多い。

でもそれが人生。

 

すり傷ゼロの人生を期待する方が根本的に間違っているのだ。

人生はそういうふうには出来ていないことを認めない限りは悩みは消えないのではないだろうか。

 

あの有名なヘレン・ケラー女史もこんなことを言っていた。

安全とは思いこみにすぎない場合が多い。
現実には安全というものは存在せず、

子供たちも誰一人として安全とは言えない。
危険を避けるのも、危険に身をさらすのと同じくらい危険なのだ。
人生は危険に満ちた冒険か、もしくは無か、そのどちらかを選ぶ以外にない。

ドクダミママ至言

人生にはたくさんのすり傷があるのが普通。

ただのすり傷など普通のこと。

子供はこうやって強くなっていく。

全ての人がこうやって強くなっていく。

傷を恐れリスクを伴うことを避ければそこには成長はない。

人生とはそういうもの。

本当に安全な道などはない。

安全そうに見えてもそうでもないものの方が多い。